年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

べったら市 明治38年10月

2006年07月05日 | べったら市
明治38年10月20日東京朝日新聞
べったら市の景況
昨日日本橋区大伝馬町べったら市の前日なのだがあいにくの前夜来の雨天であったが諸商人は明け方より現場に出張しそれぞれ店を出店をしたが大通りは電車交通が頻繁なので例のごとく出店は(道の)下水の外3尺を限りとして旅篭町、人形町通り、大伝馬町一丁目横町、大伝馬塩町、小伝馬上町等は出店を許された。さて呼び物の浅漬大根の店34・縁起物店30余・雑器店30余にして植木屋もずらりと並び梅花亭の切山椒も高張り提灯を出して景気をそそるとはさすがに年の市の景気定めと称するほどのことはあるといえる。夜に入ると混雑を予想し日本橋署にては非番巡査を警戒にまわし、堀留町分署を出張所として祖師堂を休憩所にあて、また東京電車は要所要所へ数十名の係員を出張させ乗客その他の警戒をすると言う。

明治38年10月20日日本新聞
昨日は朝からの雨だったが昼頃から小止みとなったので地割りに着手した。本年は電車路の変更によって例年出店の多い小伝馬町、鉄砲町の出店の多くは大伝馬町、人形町に出店し、電車通路はもっとも人家に接近し出店することなり見世物小屋は祖師堂内に限り許可され、日本橋署に於いては小伝馬町の祖師堂へ臨時出張所を設け署長以下非番の巡査まで総出で警戒し往来の激しい電車道は巡査10名を配し、なお(電車の)会社より10名の監督及び工夫等を出していた。各町の露天商の数は300有余にして付近の商店は臨時の売り出しをしていて中々の売れ行きである。

明治38年(1905年)9月5日 日本とロシアは講和条約を調印。日露戦争終わる。
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