近代日本マンガの始まり
神奈(仮名)垣魯文・河鍋暁斎が明治7年に発行した滑稽諷刺雑誌「絵新開日本地」から近代日本の漫画文化が始まった。当時流行語となっていた「ポンチ」を誌名に入れ、『ジャパン・パンチ』をまねようとした。しかこの雑誌は人気雑誌とならず、はたした役割は、明治8年の戯画入り雑誌『寄笑(きしょう)新聞』 橋爪錦造(梅亭金鵞)・月岡芳年の創刊を促し、明治10年の時局風刺雑誌『団団珍聞(まるまるちんぶん)』 となってゆく。
福神漬の命名者梅亭金鵞がこの編集者の時でもあった。それにしても『寄笑新聞』全11巻の内10巻を収集した長野県上田の飯島花月という人の先見性を感じる。
ふざけた遊びが好きだった梅亭金鵞の周辺の人達は七福神を漬物の福神漬に見立てたとき、(なたまめ)は何に見立てたのだろうか。
神奈(仮名)垣魯文・河鍋暁斎が明治7年に発行した滑稽諷刺雑誌「絵新開日本地」から近代日本の漫画文化が始まった。当時流行語となっていた「ポンチ」を誌名に入れ、『ジャパン・パンチ』をまねようとした。しかこの雑誌は人気雑誌とならず、はたした役割は、明治8年の戯画入り雑誌『寄笑(きしょう)新聞』 橋爪錦造(梅亭金鵞)・月岡芳年の創刊を促し、明治10年の時局風刺雑誌『団団珍聞(まるまるちんぶん)』 となってゆく。
福神漬の命名者梅亭金鵞がこの編集者の時でもあった。それにしても『寄笑新聞』全11巻の内10巻を収集した長野県上田の飯島花月という人の先見性を感じる。
ふざけた遊びが好きだった梅亭金鵞の周辺の人達は七福神を漬物の福神漬に見立てたとき、(なたまめ)は何に見立てたのだろうか。