芸備先哲伝 玉井源作著より
野村文夫
名は樞、通称は文機、後に文夫と改めた。雨壮と号し、簾雨または秋野人という別の号がある。代々芸藩(広島県)の医者の家系である。安政二年九月大阪に上り、緒方洪庵につき、蘭学を学び、大いに西洋の学問を納める必要を感じた。二十歳の時だった。藩もまた有用の人材と認めて、航海学の修行を命じ、また汽船の購入のことで長崎に派遣する。志が開国になっていたので慶應元年長崎滞在中、西洋のことを知ろうと望み、百聞は一見にしかずと考え佐賀藩士二名と相携えて英国に脱走する。これは(当時の)国法で禁止していた行為だったので彼の兄野村精大(芸藩医者)は驚き、(芸藩)執政辻維岳を訪ねて事情を説明した。執政の寛大な処置でこれを不問いにした。明治元年日本に帰る。藩はすすんで洋学教授を命じ、俸給を二十人扶持とし、藩の席次を供頭添役次席とした。明治3年東京に上る。民部省に出仕し、工部省を経て、内務省五等出仕となり、従六位に叙せれる。明治10年官吏を退職する。
この時より在野の人となり、東京自宅において雑誌を発刊する。これを團團珍聞という。時事を風刺した文や絵で記事を書き、すこぶる世間の注目をあびた。その他著述も多い。その後政党が盛んになると立憲改進党に入り、すこぶる力を発揮した。特に芸備両国(広島・岡山)において目立った。後に国粋主義を唱え、明治22年広島の政友会のために大いに奔走し、その領袖となった。明治24年10月27日没す。享年56歳東京染井墓地に葬る。
広島県の人物辞典なので綺麗に経歴が書かれている。東京神田雉子町の團團珍聞社は野村の自宅と書いてあった。ここに色々な人物が集まってくる。團珍の初期の主筆は梅亭金鵞である。梅亭に福神漬が命名されたのは明治10年代終わりの頃となる。
野村文夫
名は樞、通称は文機、後に文夫と改めた。雨壮と号し、簾雨または秋野人という別の号がある。代々芸藩(広島県)の医者の家系である。安政二年九月大阪に上り、緒方洪庵につき、蘭学を学び、大いに西洋の学問を納める必要を感じた。二十歳の時だった。藩もまた有用の人材と認めて、航海学の修行を命じ、また汽船の購入のことで長崎に派遣する。志が開国になっていたので慶應元年長崎滞在中、西洋のことを知ろうと望み、百聞は一見にしかずと考え佐賀藩士二名と相携えて英国に脱走する。これは(当時の)国法で禁止していた行為だったので彼の兄野村精大(芸藩医者)は驚き、(芸藩)執政辻維岳を訪ねて事情を説明した。執政の寛大な処置でこれを不問いにした。明治元年日本に帰る。藩はすすんで洋学教授を命じ、俸給を二十人扶持とし、藩の席次を供頭添役次席とした。明治3年東京に上る。民部省に出仕し、工部省を経て、内務省五等出仕となり、従六位に叙せれる。明治10年官吏を退職する。
この時より在野の人となり、東京自宅において雑誌を発刊する。これを團團珍聞という。時事を風刺した文や絵で記事を書き、すこぶる世間の注目をあびた。その他著述も多い。その後政党が盛んになると立憲改進党に入り、すこぶる力を発揮した。特に芸備両国(広島・岡山)において目立った。後に国粋主義を唱え、明治22年広島の政友会のために大いに奔走し、その領袖となった。明治24年10月27日没す。享年56歳東京染井墓地に葬る。
広島県の人物辞典なので綺麗に経歴が書かれている。東京神田雉子町の團團珍聞社は野村の自宅と書いてあった。ここに色々な人物が集まってくる。團珍の初期の主筆は梅亭金鵞である。梅亭に福神漬が命名されたのは明治10年代終わりの頃となる。