年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

浅野長勲(あさのながこと)

2009年08月12日 | 福神漬
浅野長勲(あさのながこと)
日本初の洋紙メーカーは、明治5年(1872)年、東京・日本橋蠣殻町で創業した「有恒社」です(操業開始は明治7年)。有恒社は広島藩の最後の藩主・浅野長勲が大蔵省雇いの外国人技術者から製紙法を聞いて設立しました。
 明治10年西南戦争が始まると過熱した新聞報道によって新聞読者が増え、滞貨していた洋紙が順調に売れるようになりましました。明治22年2月11日に憲法が発布された日に新聞「日本」が創刊されました。主な資金は浅野長勲から出たといわれています。浅野長勲と芸藩(今の広島県出身)の野村文夫(團團珍聞社主)の関係は元主従関係と洋紙の得意先であったかもしれません。日本新聞が神田雉子町32に本社社屋を構えたのは社屋購入で團珍社(神田雉子町31)を資金援助したといわれます
 明治初期には新聞を拡大する販売政策を国がとっていました。日本で新聞の普及は文字を読める読者が江戸東京に多かったこと新時代の活字・洋紙が銀座近辺でそろいました。明治10年発行の團團珍聞は新聞弾圧を避けるため伏字(○○)を利用するなど、あらゆる報道の可能性が試された時期でもあった。また新聞社も読者の拡大を目指し、「絵入り・振り仮名つき」など工夫をして漢字の読めない人でも記事の内容が理解できるようにしていました。
 福神漬の命名者梅亭金鵞は武家出身ですが戯作の道に入り、明治になって新聞の主筆になった人です。生活のために引き札(広告文)も作成していました。
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