年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語 13

2009年11月04日 | 福神漬
鈴木藤三郎が精糖業の社長を辞した時、売却した株の資金で醤油醸造の研究に向かった。東京小名木川の工場で試験操業した結果、今までより安くカビの出ない醤油が醸造できた。この評判を聞きつけた人は鈴木藤三郎が小規模で醤油生産を始めようとしたところ、安価にできる醤油を製造することは国民経済に役にたつのであるから、出資者を募り初めから大規模に行ったほうが報徳の考えに沿うのではないかと諭され、資本金一千万円という、当時としては巨大な資本金で始まった。創業当時の新聞広告にも常に『資本金一千万円・日本醤油醸造㈱』の文字が入っていた。当時の資本金一千万円という株式会社は日本にも何社もなかった。
 この資本金一千万円は旧式醸造の醤油製造業者の警戒を招き、販売に苦労することとなった。日本醤油醸造は旧式醸造の販売業者と対立したため、販売政策として膨大な広告費かけ新聞・雑誌・また当時としては珍しいイルミネーションを応用した広告をするなど宣伝機関を利用した。また販売者には徹底的にご馳走攻略行い買収していった。全国1万5千軒とも言われた当時の醤油業界を極度に刺激し,新旧の販売業者の対立を招いていた。

年産24万石の生産規模で始まった兵庫県尼崎工場での出荷は明治42年5月から始まった。9月からの特売は景品付きで、取引高で景品が増える販売意欲を刺激する方法であった。例を挙げると百円以上は大樽一挺、一万円以上大樽130挺と売り上げが増えるに従って景品が増えるようになっていて33段階に分かれていた。

  みそ・しょうゆ始祖法統燈円明国師 中瀬賢次著より
この時の無謀な規模の発足が福神漬に後々色々な影響を与えてくる。
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