年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語 14

2009年11月06日 | 福神漬
醤油問屋組合の抵抗
明治40年に発足した日本醤油醸造株式会社はいきなり当時としては破格の資本金一千万円という巨大資本金で活動し、東京・江東の小名木川工場では醤油王と知られていた千葉県野田のキッコーマンの生産規模(年6万石)と同じくらいの生産高で始まった。当然日本全国の1万5千軒の旧式の醤油醸造家と販売方面でぶつかった。当時の醤油の販売方法は盆と暮れに決済する方法であったため、日本醤油醸造の製品を販売した所は直ぐに過去の販売代金の決済を要求されていたので中々得意先が増えなかった。
 醤油仲買商組合の会合で「もしも、小売店が日本醤油醸造の製品を販売したならば、醤油の代金を直ぐに回収し、その後(旧式醸造の)醤油を扱わせない」と決議していた。小売店は醤油問屋から半年分の醤油を前借しているようなものであったため日本醤油醸造の製品は旧来の問屋を通じて販売ができなくなった。しかし日本醤油醸造は新聞広告を大々的に行い、世間の気をひく現品つき大特売を行い拡張していった。販売網が確立する前にできた過剰な生産能力は無理な販売政策を行なう運命となっていった。
1908年(明治41年)尼崎町向島(現尼崎市東向島東之町・同西之町)に敷地約2.8haの第二工場を建設しました。当時日本最大であったキッコーマンの6万石をはるかに凌ぐ、24万石の生産が可能な巨大工場でした。
しかし,急造の尼崎工場の製品は不良品が多く出たり,容器となる木樽の製造になれず未完成の醤油が出荷され不評が出ていた。販売不振は日本醤油醸造の社内対立を招き内紛となっていった。


粗悪醤油となった原因
短期間で完成させた尼崎工場はその生産量年産24万石という巨大なもので、東京の工場で三ヵ年かけて経験した労働者もなく、いきなり大量生産が始まり製造工程で不具合が生じた。
1 下等品を上等品の樽に詰めた。
2 醤油を入れる容器は機械化されていなかったため熟練した樽詰めが出来ず。カビが発生した。
3 粗雑な未完成の醤油を出したため返品が多く、資金繰りに支障をきたした。
この原因として
イ 汁物の調理に使ったとき、沈殿物が出た。醤油を絞る時の圧搾のしすぎ。 醤油粕が出てしまった。製造に慣れると解決した。
ロ 味が乏しかった。景品販売に於いて上等品も下等品も同条件だったため、下等品が売れ、従来馴染んだ旧来の製造方法でつくった醤油に比べて味が乏しかった。
ハ 香りが乏しい。塩が逃げるといわれた。原料の未熟性と製造の不慣れ。
とにかく急拡大の混乱が経営上の問題となっていった。

明治後期産業発達史資料 第460巻 469頁
日本醤油醸造の醤油製造における温醸法の欠点とその理由
温醸法は醤油もろ味を加温して熟成を早める原理。
① 温醸法は香気におとる。
醤油の香気は「エステル」「チロソール」及び大豆小麦の芳香の混合したもので、加温により揮発する。また、短期醸造ではエステルの生成量が少ない。
② たんぱく質の分解が進まず。アミノ酸の量が少ない。

酵母の発酵が不十分であると糖分のためにもろ味中のアルコール発酵が出来ずエステルが作られにくくなる。温醸法では乳酸・酪酸・酢酸等の発酵が盛んになり、酵母の発育を不十分となる。
「味の素」の最初の製品(グルタミン酸)は日本醤油醸造に納品され、足りない醤油の旨みに使われることとなった。

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