年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語 23

2009年11月28日 | 福神漬
大阪朝日新聞がなぜスクープ出来たのか?大阪朝日新聞の創業時、醤油と関係していたので情報がもたらされたと思われる。他の大阪の新聞記事は後追い記事も精彩がない。そして東京の記事も東京朝日新聞を除くと、広告主に遠慮していたのかはっきりとした事情が分かるまで記事の内容が弱い。これは今のマスコミと同じことが明治の時代に行われた。

 梢風名勝負物語 日本金権史 砂糖と醤油 村松梢風著
『旧式醸造の醤油業者が日本醤油醸造の技術者と労働者を買収して、少量サッカリンを添加していたのを、秘密裏に全部の桶に多量いれて、警察に密告し、(大阪朝日)新聞に連絡し、また監督官庁にも連絡をいれた。』と記している。

鈴木藤三郎伝によるとサッカリン購入のいきさつはサッカリンの輸入関税が大幅に上がった時、ある人が大量に見込み輸入し処分に困り、日本醤油醸造が引き受けたという。味の素の創業者鈴木三郎助がグルタミン酸の無害の証明を取っていたのと大きな差がでた。関東はサッカリンの取締情報が良く知れていたと思われる。日本醤油醸造でも東京の製品にはサッカリンが入っていなかった。兵庫県尼崎工場の製品のみサッカリンが使用されていた。
鈴木三郎翁伝より (味の素創業者)
元来池田博士の発明した「味精(グルタミン酸塩を主要成分とする調味料)」は、最初はしょう油の加味料に供する目的で出発したものであった。
明治41年7月25日
味の素 特許を得る。
 ちょうどその頃、精糖業界において名をなした鈴木藤三郎が日本醤油醸造株式会社を創立し、醤油の新醸造に60日醸造という特許を得て東京小名木川に工場を作り経営した。実験室で成功した醸造法は実際に醸造するとうまくいかなかった。少しずつ改良していった時“味精”が現れたのである。鈴木藤三郎はすでに池田博士と鈴木三郎の共有となっていたグルタミンの特許の高額で譲渡を申し込んだが断わられる。鈴木藤三郎氏の機械式醤油醸造は技術的欠陥があって、旧来の製法の醤油と比べて旨みが少なく味の素で味を付することを考えたのだろう。
明治42年2月25日
 商品としての味の素の製品出荷始まる。
日本醤油醸造には優先的に出荷することになったが翌三月より製品の注文が少なくなり、返品されるようになり、一般消費者に販売する方向となった。

 その後、日本醤油の尼崎工場の製品からサッカリン混入の醤油が発見された。もし池田博士の発明した味精が日本醤油の加味料として報道されていたら、どんな結果となっただろうか。運良く味精は報道されず未使用品が返品され、醤油の加味料と使用する用途から一般調味料として販売に売り出され、明治42年4月22日に商品名「味の素」となリ、5月26日に東京朝日新聞の広告に調味料として広告された。明治41年11月17日 「美人マーク」商標登録 美人のエプロンに味の素のロゴ

明治42年12月24日 「味の素」商標が登録となる。
出願したのは明治42年11月8日 味を耕す 
味の素80年史より
不正醤油事件が報道されたのは明治42年11月3日
明治42年12月25日東京日日新聞
大阪の松下商店との代理店契約広告 関西から売れ始める。

なお味の素には当時醤油の加味料として『味醤』というものあって、これが福神漬の表示に使われている「アミノ酸液」の始まりかもしれない。
不正醤油事件があった時はまだ「味の素」は商標登録されておらず、運よく難を免れた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする