年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

原胤昭から 

2009年11月10日 | 福神漬
原胤昭から 
今でも銀座にある十字屋の前身を戸田欽堂らとつくり、最初はまだキリスト教関係の布教が完全に自由になっていない時代であった。原はそこの従業員だった人に店を譲り、自身は神田須田町に三好野絵本店という錦絵問屋か紹介されて本屋のような店を開いた。ここは神田雉子町にあった團團珍聞からほんのわずかの距離であった。
 原胤昭が出版して獄に入る理由となった錦絵は明治16年9月5日
神田須田町25  画工版元 原胤昭 となっていて小林清親の名は隠されていて、小林が獄に入ることを免れた。
明治16年(1883)7月19日、自由民権運動を弾圧した「福島事件」の裁判が東京高等法院で始まると。小林清親・画・原胤昭・文の風刺画が発売禁止処分になり、これに抗議する形で無料配布した原には、軽禁固3ヵ月の刑が科せられ、石川島の獄(今の中央区佃)に入獄となった。石川島はかっての佃島の人足寄場をつくろった獄舎があり、旧時代の牢名主が権力を持つという風潮が維持されて、罪人の虐待は公然と行われていた。原自身、13歳から父とともに与力を勤め、年齢の若い身ながら人足寄場見廻り役をさせられていたことを考えると、30歳にして身分が逆転して囚人として入獄することは運命のいたずらとしか考えられない。[『開化の築地・民権の銀座』太田愛人p92]
女子学院の村瀬先生の礼拝から
「西洋にはクリスマスカードというものがあることを知り自分でも錦絵作家(多分小林清親だろう)に絵を作らせカードを発売したりします。その錦絵とも関係があるのですが、会津で起こった福島事件にも関係します。これは新しく来た県令の悪政に県議会の人々が抵抗して戦い、投獄された事件ですが、原はこの人達を支援して錦絵を売ったり配ったりしたので、自分も思想犯として獄に入れられます。このときに獄中での環境の悪さ、待遇の悪さを身をもって感じます。原自身もチフスで死にそうになり、実際に友人(田母野秀顯か?)は死にました。こういう経験から原は受刑者に目を向け、受刑者を懲らしめるだけでなく更生させなければいけないと感じ、そのために働き出します。後には日本初のキリスト教教誨師になり、生涯をかけて刑期を終えて出獄してきた人の保護活動をします。」

田母野秀顯の死は同じ獄中にいた花香恭次郎によって同志に伝えられ、谷中墓地に埋葬されました。原胤昭の作り配った福島事件の錦絵「天福六家撰」は田母野秀顯・花香恭次郎・平島松尾の三人でした。原と田母野ともチフスに罹り、獄中で出会い原は生き返り、数日後田母野は亡くなりました.天福(てんぷく=転覆)を意味しています。ここに福という字が隠されています。もしかすると福神漬には復讐という意味が隠されている可能性があります。

戸田欽堂は大垣藩主の家系である。ペリー来航時、浦賀奉行であった幕臣戸田伊豆守氏栄が本家の大垣藩の小原鉄心に応援を頼み、大垣藩士130名を浦賀の警備に要請した関係です。花香は戸田伊豆守の5男なので民権関係で周知の関係であったかもしれない。

山口昌男 1997 国立近代美術館 より
錦絵は明治初期の絵入り新聞を賑わしていたが、小林清親や久保田米僊は、ポンチ絵や時事的な挿絵によって社会的現実を加工してイメージに仕立て上げた。小林清親の場合は原胤昭の十字屋とのつながりから自由民権の運動と奇妙な関係にあった。久保田米僊ははじめは京都にあって京都版「圓珍新聞」である「我楽多珍報」の連中と滑稽を主旨とするグループを形成した。その関係から初期(明治三十年代)の三越の知的グループにも息子の米斎ともども加わった。更に「仲間二連」好みの性格により、インディペンデントな根岸党(幸田露伴など)にも加わった。

福神漬が缶詰になったころは明治16年の第一回水産博覧会の後と思われるので、酒悦主人が戯作者梅亭金鵞に命名を依頼した時期と重なる。さらに梅亭は團團珍聞の主筆でもあった時期である。

コメント
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