福神漬物語 16
明治42年11月3日 大阪朝日新聞
発覚の端緒
(警察)本部が不正品として認めたのは三四日前のことにして某署より提出した小分け醤油を試しに分析したところ多量の薩可林(サッカリン)を検出したので容易ならぬ次第と直ちに押収先に(警察署の)技師を派遣して取り調べたところ日本醤油会社より発売の品と判明した。しかし、本部にてはかえって不審を抱き、巨額の資本を有する会社がそのようないかがわしい手段を行うとも思われず、あるいは小売業者の仕業ではないかと一時人手を分けて各方面を取り調べたところ同様の不正品を発見したので、すべて同社のより発売の際混入としたものと見込んで、さらに大捜索をしようとする際、早くも同社重役もこのことを探知して非常に驚き早速本部に出頭の上、『見本品7樽に限り混入した』旨自白し、何分目下売り出し中にてすくなかざる打撃を受けることなればあくまでも秘密にしていただきたく旨懇願した由なるが本部にてはその申し開きを疑い、内密に他方面に取り調べたところやはり同様に薩可林を検出した。
多数の押収
今は猶予ならず(11月)一日夜より二日朝にかけてxx警部は三名の技師とともに大阪西区幸町通2丁目の貯蔵倉庫及び横堀7丁目の大阪出張所に臨検し合計1600樽(この代価約一万円)を押収して、ことごとく封印を施し引き上げ、専ら分析試験中であるが尼崎工場は兵庫県の管轄に属することなので試験の結果によって不正品と定まれば相応の照会をするはずであるという。
醤油小売業者の仕業とは当時は樽詰の醤油を消費者に小分けして販売していた。
明治42年11月3日 大阪朝日新聞
会社内の混乱
大阪出張所にては多数の封印を受けて、三塚主任は大狼狽を極め、その旨を直ちに尼崎工場に電話したので社員技師等はほとんど工場を空にして来阪し前後策につき頭をいためていた。鈴木藤三郎主任技師は東京本社に帰社中だったが至急電報により11月1日に尼崎に来て、2日重役を招集し、種々質疑をしていた様であった。同主任技師の談によると『実にゆゆしき失態を演出したものにして、各のごときことが新聞に発表される事態となれば実に会社の死活に関係する。製造所においては断じて左様な(=サッカリンのこと)薬品を投入したこともなければ販売所が顧客の好みに合わせたため、つい混入したためだろう。押収の全部に混入したことは偶然のはずである。元来特別醸造法によるものなれば外気に触ること少なく外部より黴菌が侵入しない限り腐敗することはない。現に横須賀海軍経理部主任渋谷主計中監に練習艦宗谷、阿蘇が遠洋航海の際に試用を願い、赤道直下を二回通過してもなお異常なき証明をいただいた。』と説明していた。
明治42年11月3日 大阪朝日新聞
秘密薬は何?
されば別に聞くところによれば同社物品購買科目に香味料の一目があり砂糖をC、飴をB,染色料をK.と称し購入、なお外に東京本社より直送し工場技師が絶対秘密に取り扱いしているドイツよりの輸入の薬品がある。これが薩可林であろうか、又ホルマリンも分析用と称して大阪道修町の某薬店より購入している模様なれば社長が工場において混入することはないという証明はなお十分に信頼を置くに足らない。
明治42年11月3日 大阪朝日新聞
海中に投棄
一説により販売店より腐敗のため返品した多数の醤油を密かに船に積み尼崎沖に投棄したとの風評があるがそれは盛夏の工場を掃除した赤色の水を樽に入れ投棄したものが噂になったものである。要するに、混入と否かとは押収全部の試験を待って黒白判明するべし。因みに同社はある方面にもみ消し運動に着手したと伝えられている。
後の記事によるとある方面のもみ消し運動とは内務省に働きかけていたこと。明治の当時,内務省は衛生を管轄する警察の上部官庁だった。
明治42年11月3日 大阪朝日新聞
会社の窮状
鈴木主任技師の理想は第一回製造に失敗し、また樽の製造等他の副事業に固定資本をおびただしく投入したため、負債二三百万円の多額にのぼり、ついに十月一日に同技師は責任を負って社長の席を降り毛利公爵家令田島信夫氏社長となり、同氏の裏書により市内の銀行より資金の融資を受け醸造を続けているも品質のよいものを生産しようとすると醸造期間を延長せざるを得ないし、それを延長すると生産量が非常に減少し、従って相当の利益をあげることは出来ず。やむなく依然短期製造を続けていれば腐敗変質を招くは自然で、防腐剤の使用を招くは必然というものである。
大阪朝日新聞の記事の結論としてサッカリン混入は不完全な醸造から来ていると結論としている。
樽の製造等というのは樽製造の機械を海外から輸入したが西洋の樽はワイン・ビールの醸造用の機械で中太りの樽用なので日本の樽には使えなかった。(鈴木藤三郎伝より)
明治42年11月3日 大阪朝日新聞
発覚の端緒
(警察)本部が不正品として認めたのは三四日前のことにして某署より提出した小分け醤油を試しに分析したところ多量の薩可林(サッカリン)を検出したので容易ならぬ次第と直ちに押収先に(警察署の)技師を派遣して取り調べたところ日本醤油会社より発売の品と判明した。しかし、本部にてはかえって不審を抱き、巨額の資本を有する会社がそのようないかがわしい手段を行うとも思われず、あるいは小売業者の仕業ではないかと一時人手を分けて各方面を取り調べたところ同様の不正品を発見したので、すべて同社のより発売の際混入としたものと見込んで、さらに大捜索をしようとする際、早くも同社重役もこのことを探知して非常に驚き早速本部に出頭の上、『見本品7樽に限り混入した』旨自白し、何分目下売り出し中にてすくなかざる打撃を受けることなればあくまでも秘密にしていただきたく旨懇願した由なるが本部にてはその申し開きを疑い、内密に他方面に取り調べたところやはり同様に薩可林を検出した。
多数の押収
今は猶予ならず(11月)一日夜より二日朝にかけてxx警部は三名の技師とともに大阪西区幸町通2丁目の貯蔵倉庫及び横堀7丁目の大阪出張所に臨検し合計1600樽(この代価約一万円)を押収して、ことごとく封印を施し引き上げ、専ら分析試験中であるが尼崎工場は兵庫県の管轄に属することなので試験の結果によって不正品と定まれば相応の照会をするはずであるという。
醤油小売業者の仕業とは当時は樽詰の醤油を消費者に小分けして販売していた。
明治42年11月3日 大阪朝日新聞
会社内の混乱
大阪出張所にては多数の封印を受けて、三塚主任は大狼狽を極め、その旨を直ちに尼崎工場に電話したので社員技師等はほとんど工場を空にして来阪し前後策につき頭をいためていた。鈴木藤三郎主任技師は東京本社に帰社中だったが至急電報により11月1日に尼崎に来て、2日重役を招集し、種々質疑をしていた様であった。同主任技師の談によると『実にゆゆしき失態を演出したものにして、各のごときことが新聞に発表される事態となれば実に会社の死活に関係する。製造所においては断じて左様な(=サッカリンのこと)薬品を投入したこともなければ販売所が顧客の好みに合わせたため、つい混入したためだろう。押収の全部に混入したことは偶然のはずである。元来特別醸造法によるものなれば外気に触ること少なく外部より黴菌が侵入しない限り腐敗することはない。現に横須賀海軍経理部主任渋谷主計中監に練習艦宗谷、阿蘇が遠洋航海の際に試用を願い、赤道直下を二回通過してもなお異常なき証明をいただいた。』と説明していた。
明治42年11月3日 大阪朝日新聞
秘密薬は何?
されば別に聞くところによれば同社物品購買科目に香味料の一目があり砂糖をC、飴をB,染色料をK.と称し購入、なお外に東京本社より直送し工場技師が絶対秘密に取り扱いしているドイツよりの輸入の薬品がある。これが薩可林であろうか、又ホルマリンも分析用と称して大阪道修町の某薬店より購入している模様なれば社長が工場において混入することはないという証明はなお十分に信頼を置くに足らない。
明治42年11月3日 大阪朝日新聞
海中に投棄
一説により販売店より腐敗のため返品した多数の醤油を密かに船に積み尼崎沖に投棄したとの風評があるがそれは盛夏の工場を掃除した赤色の水を樽に入れ投棄したものが噂になったものである。要するに、混入と否かとは押収全部の試験を待って黒白判明するべし。因みに同社はある方面にもみ消し運動に着手したと伝えられている。
後の記事によるとある方面のもみ消し運動とは内務省に働きかけていたこと。明治の当時,内務省は衛生を管轄する警察の上部官庁だった。
明治42年11月3日 大阪朝日新聞
会社の窮状
鈴木主任技師の理想は第一回製造に失敗し、また樽の製造等他の副事業に固定資本をおびただしく投入したため、負債二三百万円の多額にのぼり、ついに十月一日に同技師は責任を負って社長の席を降り毛利公爵家令田島信夫氏社長となり、同氏の裏書により市内の銀行より資金の融資を受け醸造を続けているも品質のよいものを生産しようとすると醸造期間を延長せざるを得ないし、それを延長すると生産量が非常に減少し、従って相当の利益をあげることは出来ず。やむなく依然短期製造を続けていれば腐敗変質を招くは自然で、防腐剤の使用を招くは必然というものである。
大阪朝日新聞の記事の結論としてサッカリン混入は不完全な醸造から来ていると結論としている。
樽の製造等というのは樽製造の機械を海外から輸入したが西洋の樽はワイン・ビールの醸造用の機械で中太りの樽用なので日本の樽には使えなかった。(鈴木藤三郎伝より)