年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

戸田欽堂とは

2009年11月19日 | 福神漬
戸田欽堂とは
あまり知られていない人。幕末大垣戸田藩主の側室の子として生まれた。母は高島嘉右衛門の姉である。横浜で財をなした高島の資金で明治維新後の戸田欽堂は割と裕福な生活を送っていたようである。
 築地で原胤昭と知り合い、銀座でキリスト教関係の書籍を販売する店を開いた。時代はまだキリスト教を解禁して間もない時だったが殆ど採算が取れていなかったので戸田欽堂の資金が必要だったと思われる。
 原胤昭は福島事件の錦絵で投獄された(明治16年秋)。原は團團珍聞と知り合いで当然戸田欽堂も花香恭次郎がどの様な人だか知っていたと思われる。花香はペリー来航時久里浜でアメリカ大統領の親書を受け取った日本の代表者戸田伊豆守氏栄の5男であった。この久里浜に大垣戸田藩は小原鉄心が藩士を率いて警備を行った。鳥羽伏見の戦い後大垣藩は小原鉄心の働きで朝廷側についた。このような話を戸田欽堂が知っていたならば鶯亭金升を助けてもおかしくない。鶯亭金升は戸田伊豆守氏栄の3男の子供で当時まだ16歳であった。明治の売れていた雑誌團團珍聞に鶯亭金升が入社出来たのは原や戸田欽堂の話を聞いていた梅亭金鵞が彼の投書に気がつき、下谷根岸の里で母子家庭だった鶯亭を誘ったのではないのだろうか。彼は入社まもなく(明治19年)社主野村文夫と伊勢関西旅行に向った。福神漬の引き札を梅亭が書いていたのを目撃したのは従って明治16年秋から18年中の間と思われる。

銀座開花おもかげ草紙:松井今朝子著は戸田の若殿として戸田欽堂、原胤昭が出てきます。
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