明治10年西南戦争の頃、日本では錦絵に漫画を描き政府や体制側を批判や揶揄(やゆ)をしていた。体制側は政府批判の検閲の目を光らせ、新聞雑誌発行禁止や記者、編集者を投獄することで弾圧した。この弾圧を免れるため執筆者たちは様々な工夫を凝らし、薩長政府を批判していた。このような雑誌の代表が○○珍聞である。○○は伏字のことで、検閲を免れるための工夫でもあった。筆禍を恐れて直言直筆できない新聞雑誌に代わり、諷刺精神をもって政府の施策を批判するという趣旨で発刊した。自由民権運動の盛んであった明治10年代は爆発的に売れたという。
ただ今となって○○珍聞はその時代の空気が読めず、当時の人がひと目で理解できることが今ではまるで判じ絵のようになったかもしれない。当時の読者は○○珍聞の謎解きを楽しんでいたようである。梅亭金鵞が福神漬にどんな謎々を入れたのだろうか。
社主野村文夫は同じ芸州藩出身の既に洋画家として名を成していた本多錦四郎に漫画を、戯作文を梅亭金鵞に執筆を依頼した。明治15年から小林清親が風刺漫画を書いていた。小林清親は自由民権運動を支援支持の姿勢で福島事件関係者の錦絵を描いたりしていた。
出典 自由民権期の漫画 前田愛・清水勲編
そんな時に酒悦主人が團團珍聞(○○珍聞)の主筆であった梅亭金鵞に商品名を依頼したのである。まともに七福神めぐりから福神漬と名付けたと考えてよかったのだろうか。
ペリー来航時の浦賀奉行戸田伊豆守氏栄の子孫(花香恭次郎=5男・鶯亭金升=3男の長子)が團團珍聞に関わってくるのは偶然のことだろうか。