年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

小林一三と福神漬 ①

2009年11月25日 | 福神漬
暮らしの手帳 77号昭和39年12月
花森安治

東京オリンピックの終わった年の暮れに発行した『暮らしの手帳』に福神漬の記事があった。
 検索という便利な手段があるのでだいたい誰がいつ頃はわかるが福神漬とカレーライスの由来に小林一三と福神漬が出てきて、さらに昭和4年阪急百貨店開業時の食堂の話が出てきた。この話がどんな記憶をもたらしたか。実際に『一銭五厘の旗』という花森安治の本を借り出して読んだ。
 『まいどおおきに』という文章は東京オリンピック終了後まもなく書いた約20ページの文章だった。その内容は大阪の消費者と商人のことだった。大阪が元気であった頃の話である。
 阪急百貨店が開業した直後、昭和5年・6年は浜口内閣の緊縮政策のため日本は不景気のどん底となっていった。当時の阪急百貨店のライスは5銭で傍らに福神漬が付いていた。
空腹を満たすため、当時の多くの客が百貨店の食堂でライスだけ注文していて売り上げが上がらなかった。そこで百貨店の担当者が『ライスだけの注文はご遠慮下さいませ』という張り紙をだした。『好き好んでライスだけ注文していない』という顧客の声を聞いていた小林一三は『阪急百貨店はライスだけの客を喜んで歓迎いたします』という新聞広告を出した。
 このことが阪急百貨店のファンを増やしたという。どうもカレーが付いていなかったようだ。
 この話が逸話としてつたわる理由は色々あるが福神漬伝説として面白い。
小林一三を実業家としての指導したのは岩下清周である。小林のアイデアの素には一部岩下の影響がある。小林一三に花柳遊びを教えたのが岩下という。この結果が阪急百貨店のライスに沢庵がついたのでなく福神漬がついたと思う。沢庵より高級感があったためである。
 今では信じられないだろうが当時は沢庵等の漬物は家庭で漬けていたもので食べ放題となっていても逸話の記録に残らないだろう。福神漬は料亭のルートで普及した経緯があるので昭和の初めには高級感があった。何しろ醤油と砂糖を使用していたからである。

コメント
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