年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

にっぽん音吉 2

2010年08月02日 | 福神漬
にっぽん音吉 2
鎖国期間中で幕府の異国船取締がきびしかったのは異国船打払令(文政令)の文政8年(1825)から天保13年の間の18年間であった。文化5年(1808)イギリス船が長崎に上陸し、食料を奪う事件があったためである。
 この最も取締りの厳しい時期にアメリカ商船モリソン号が浦賀にやってきて、日本の若武者(中島三郎助)の砲撃にあった。モリソン号には7人の日本漂流民が乗っていたが船長の思惑で浦賀では漂流民は表面には出ていなかった。

嘉永2年イギリス船マリーナ号が浦賀に接近した。この船に『林阿多』という名前の中国人が日本語通訳として乗船していた。彼は浦賀で上陸を迫るイギリス人船長と速やかな退去を求める浦賀奉行の人達の間で板ばさみとなって通訳していた。
 『林阿多』は浦賀の二日目に浦賀与力に次のような質問をしたという。
『12年前に来た異国船(モリソン号)はどのあたりに停泊したのか?』と質問されたので与力は野比村沖を指差した。
『何処の国の船か?』
『何処の国とも知れていなかった』
『そのときはどうして砲撃したのか?』
『その頃まで異国船が日本に来て不法なことをしていたので、外国船を見つけ次第砲撃することとなっていた。しかし、その後国の制度を改め、難破船・漂流民などは救済し、水・食料を供給するように改めた』と応えると12年前の船の件に質問することは無くなったという。
 マリーナ号が浦賀・下田を退去後、異国船に日本人が乗船していたという噂が立った。にっぽん音吉の著者である春名徹氏の意見では『林阿多』は尾張廻船漂流民の『音吉』という。
 モリソン号事件は高野長英の『夢物語』の遠因となり、花香恭次郎に繋がってくる。1862年シンガポールで音吉は嘉永6年横浜で開港交渉の時通訳として活躍した森山多吉郎(栄之助)と会っている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする