年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

練馬大根碑

2010年08月10日 | タクワン
練馬大根碑 練馬区の愛染院にある記念碑。昭和15年東京練馬漬物組合員149名が大根碑の建立を計画し、これに賛助の有志の町会が加わり、亦六翁の菩提寺の愛染院に立てる事となった。組合員の持ちよった『たくわん石』を基壇にあてた。

   練馬大根碑に碑文がある。

練馬大根碑   題字 東京府知事 川西実三
                             柴田 常恵撰
蔬菜は、人生一日も欠き難き必須の食品たり。特に大根は滋味芳醇にして、栄養に秀で、久しきに保ちて替る所なく、煮沸乾燥或いは生食して、各種の調理に適す。若し夫れ、沢庵漬に到りては、通歳尽くるを知らず、効用の甚大なる蔬菜の首位を占む。
 今や声誉内外に高き我が練馬大根は、由来甚だしく、徳川将軍綱吉が舘林城主右馬頭たりし時、宮重の種子を尾張に取り、練馬の百姓亦六(今の鹿島姓の旧家)へ与えて栽培せしむるに起こると伝ふ。
 文献散逸して拠るべきもの乏しと雖も、寛文中綱吉再次練馬に来遊せしは、史蹟に載せられ、当時の御殿跡なるも今に存するを思えば、伝説が基く所ありて、直ちに斥くべきにあらず、爾来、地味に適して、栽培に務めしより久しからずして、優秀な品種を作り、練馬大根の称を得て、重要物産となり、疾く寛政の頃には、宮重を凌ぎ日本一の推賞を蒙るに至れり。
 抑も練馬の地たる鎌倉時代の末葉に当たり、豪族豊島景村来住せしより、文明中太田道灌の攻略に遭い亡ぶるまで、世々其の一族の守る所として知られしも其の名は大根に依り始めて広く著はる。而して輓近国運の伸長は歳と共に其の需用を増し、加ふるに沢庵漬として、遥かに海外に輸出さるるより、競うて之が栽培を計り、傍近数里殊に盛たるものありと雖も、尚且つ足らざるを感ぜしむ。昭和7年10月東京市に編入の事あり、都市計画の進程に伴ひ、耕転の地籍徐に減退を告げ、其の栽培の中心は傍近の地に移るを余儀なきを覚えしむ。現時沢庵漬の年産8万樽に達せるは最高潮と称すべきか。茲に光栄輝く皇紀二千六百年に当たり、奉賛の赤誠を捧げて、崇高なる感激に浸ると共に、東京練馬漬物組合員一同相胥り、地を相して、各自圧石を供出して基壇に充て、其の旨を石に刻して、後昆に遺さんと欲す。偶々其の記を予に嘱せらるるも、不文敢て当らず。予は尾張の出にして、居を此の地に営み、大根の由来と稍々相似たるものあるは、多少の遠因なきにあらず、奇と云ふべきか、辞するに由なきより、乃ち筆を呵して、其の梗概を記す。
昭和15年11月
                 (練月山 亮通 書)
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