年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

慶應4年行徳の春

2010年08月17日 | 福神漬
葛飾風土史 川と村と人 遠藤正道著から
 慶應4年が明けると直ぐに上方で戦闘が始まった。戊辰戦争の始りとなる鳥羽伏見の戦いである。そして終わりは明治2年5月18日箱館で榎本武揚等が降伏した時、戦争は終わった。江戸市内では鳥羽伏見の戦い以前に情勢は緊迫していた。秩序を保てなくなった江戸近郷ではそれぞれの村で自衛を強化していった。幕府直轄の行徳領では湊新田の松原家(今の地下鉄東西線行徳駅南付近)が組織の中心となっていた。同家の土地に剣術道場があって、自衛の指揮者をつくるためだったという。明治元年閏4月3日の市川船橋戦争が始まる前に、福岡藩兵が行徳に警備に来ていて剣道場が宿舎としていた。この中の隊長格は薩長の侍であって、およそ半月ほど行徳で待機していた。この間元幕臣だった山岡鉄舟が船橋方面で不審な動きを見せていた旧幕臣・浪人の軽挙妄動を説得するために来ていたという。市川船橋戦争が西軍・官軍の勝利となり、上野戦争で彰義隊が敗北すると、行徳領の役所のようになっていた松原家の剣術道場へ行徳付近の人々が幕府に対する恩義を忘れ、ご機嫌伺いにやって来たと言う。このことを薩長様参りと行徳の人は言っていた。
 このような時勢に行徳伊勢宿に住んでいた幕府の漬物納入商人『喜兵衛』が地元を離れ、函館に向ったのは理解できる。幕府によって行徳塩業はその特権を保護されていたが度重なる高潮等の天災で瀬戸内塩業よりコスト高で次第に衰退していた時期が幕末であった。幕府に対する恩義を忘れ新政府の援助を期待することが『薩長様』参りとなったと思われる。逆賊となってしまった旧幕臣等は歴史から消され、行徳では『喜兵衛』のことを知っている人はいなくなった。この後行徳の人達は鉄道の敷設の判断を誤り、地下鉄東西線・京葉線が来るまで過疎地となってしまった。
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