近世後期に尾州廻船が日本全国から運搬した物資は西国産の米、瀬戸内産の塩や畳表、奥州産の大豆、蝦夷地・奥州の魚肥などであって、農漁民の生産物と都市消費者を結びつけ、文化・文政時期から和食の革命期といわれる『寿司・天ぷら・蒲焼・豆腐料理・麺料理』などの今日の和食を代表するものが誕生した。こうした和食の発達がまた酒・醤油・味噌・味醂・酢などの醸造調味料と昆布・わかめなど海産物調味料に尾州廻船によって大量供給がなされ、日本の食文化が完成した。寛永時期の浦賀の塩の扱い量は多く、そして行徳との関係が生じてくる。
尾州廻船は買積商法といって、商品を自己責任で買い付けて、需要の多いところに販売するという方法をとっていた。江戸時代は幕府や藩が問屋商人に特権的な独占を認め、その見返りに幕府や藩に運上金・冥加金を上納させ、物価の安定を図った。従って尾州廻船の商行為は取締まりや弾圧の対象となっていた。江戸打越塩が浦賀・行徳塩問屋に幕末という混乱期に弾圧や取締りを逃れる工夫でもあったといえる。
浦賀の与力であった中島三郎助が北海道に向かった時、留守家族を浦賀の問屋衆に保護を依頼したのは何かあったと思われる。
尾州廻船は買積商法といって、商品を自己責任で買い付けて、需要の多いところに販売するという方法をとっていた。江戸時代は幕府や藩が問屋商人に特権的な独占を認め、その見返りに幕府や藩に運上金・冥加金を上納させ、物価の安定を図った。従って尾州廻船の商行為は取締まりや弾圧の対象となっていた。江戸打越塩が浦賀・行徳塩問屋に幕末という混乱期に弾圧や取締りを逃れる工夫でもあったといえる。
浦賀の与力であった中島三郎助が北海道に向かった時、留守家族を浦賀の問屋衆に保護を依頼したのは何かあったと思われる。