今の中央区日本橋茅場町2丁目付近。東京証券会館の前の道路あたり。明治の初めの頃だと思うが、千葉万歳の花香恭法は恭次郎を実業家の道へ向けようとして、恭法の開業している南茅場町の商店に行かせ、しばらく帳簿を監理する仕事をさせた。しかし上手く仕事をこなせなかったという。この後親族と相談し、横浜の商社へ一時勤める。明治5年5月より翌6年4月までの期間である。この頃は新橋横浜間の鉄道開業の時期にあたる。
さて明治6年の頃の南茅場町の地図がある。中央区沿革図集 中央区教育委員会著
第1区第15小区南茅場町46に原胤昭の住居がある。(315坪・金136円)また同じ南茅場町には原の実兄である佐久間長敬の住居もある。この地域は江戸町奉行配下の同心・与力が代々居住している。
横浜で高島嘉右衛門が1871年(明治4年)には語学中心の藍謝堂(通称「高島学校」)を創設した。そこに原胤昭が通ったがすぐに築地の英学校に変えたという。同じ南茅場町で花香恭次郎と原は知り合っていたのだろうか。記録は無いが小説ならすれ違っても良い。
さて明治6年の頃の南茅場町の地図がある。中央区沿革図集 中央区教育委員会著
第1区第15小区南茅場町46に原胤昭の住居がある。(315坪・金136円)また同じ南茅場町には原の実兄である佐久間長敬の住居もある。この地域は江戸町奉行配下の同心・与力が代々居住している。
横浜で高島嘉右衛門が1871年(明治4年)には語学中心の藍謝堂(通称「高島学校」)を創設した。そこに原胤昭が通ったがすぐに築地の英学校に変えたという。同じ南茅場町で花香恭次郎と原は知り合っていたのだろうか。記録は無いが小説ならすれ違っても良い。