年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

大和田排水機場

2011年08月25日 | 福神漬
京成電車で成田へ向かうと途中で川をせき止めた水門が見える。一見印旛沼のように見えるのだが地図上では川をせき止めた水門である。いつも電車から見かける水門は閉じていて、なんの役目を果たしていたのかは気に留めなかった。戸田寛十郎氏栄が天保の時代に印旛沼工事に目付として参加しなければ大和田排水機場が出来た経緯を知る事もなかっただろう。この水門は昭和42年に完成したので江戸時代に計画が出来てから何年かかったのだろう。利根川の治水と印旛糠干拓で耕地の拡大が得られたのだが天保の時代はこれに水運の問題が含まれていた。当時度々異国船が日本近海に出没し、東京湾口を封鎖されれば、消費都市江戸の物資不足を招く事となる。この事を懸念した幕府上層部は印旛沼工事によって、別ルートで物資を江戸に運びいれる事を考えていたようである。
 幕府の力が落ちている時の手伝普請は、幕府に命じられた諸藩の抵抗が予想され、工事を監督する目付は不人気な役職だったと思われる。戸田氏栄は長い間江戸幕府の歴史関係を調べていたようで、過去の前例等を熟知していて大がかりな手伝普請に際し、任命されたと想像できる。ほんの二~三カ月の赴任期間で氏栄は工事の完成が不可能であること見抜き、この事を老中水野忠邦に進言し、駿府町奉行に左遷された。氏栄の左遷によって、浦賀奉行への道が開け、彼の性格から開国の方針で再び左遷され、その遺児たち達に意思が伝わった気がする。
 福神漬の命名の経緯を調べてゆくと色々知らなかった史実が今に伝わる。
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