福神漬の資料調査で、ぺり―来航の時、久里浜海岸で米国国書を受け取った、日本の代表役人が戸田伊豆守氏栄でした。その氏栄の経歴を調べると、幕府の学問所に勤務する史料編纂する学者のような幕臣でした。地誌等の十数年の編纂仕事が終わり、水野忠邦の天保の改革時に、印旛沼工事に目付として参加しました。この抜擢のような人事がなぜあったか調べようと思い、国道16号線の脇にある「八千代市立郷土博物館」を訪問し、印旛沼運河開削工事の変遷を眺めて、戸田が目付として参加していたことを確認した。のちに井関隆子日記で印旛沼開削工事の方針をめぐって上司と対立し、辞職した。その後戸田は駿府町奉行を務め、老中阿部正弘の時に、日光奉行を経て浦賀奉行となった。弘化5年から嘉永6年まで浦賀奉行だった。この間の浦賀は異国船が毎年のように接近していた。その都度浦賀の与力たちは国防の不備を上申していたが、異国船が立ち去ると元の体制に戻った。それでも少しづつ国防の準備がなされていたようだ。 これには戸田氏栄が学問所での知識が生かされていたと感じる。前例を重んじる幕府で過去の先例を知っている戸田のアドバイスがあったと想像できる。
異様の船 洋式船導入と鎖国体制 安達裕之著
本の案内文幕府はなぜ洋式船の導入をためらったのか。鎖国のための「大船建造禁止令」は実在したのか。膨大な資料の渉猟によって通説の誤りをただし、西洋文明受容の本質に迫る気鋭の力作。
幕府の鎖国体制維持のために海外渡航を禁止するため、洋式船建造を禁止したという通説が誤りで根拠がない。幕府は西国の水軍力を抑制するため大船を没収したに過ぎない。
しかし、幕末には洋式船建造が幕府の粗法という確固たる認識になっていた。弘化~嘉永6年までの異国船打ち払い令復活協議の裏に船の形をめぐって協議が続いていた。この協議もぺり―の蒸気船という新技術で無駄な論議が消えて、開国に向かうしかなくなった。圧倒的な武力差を浦賀に集まった人たちが感じたと思われる。
敗れざる幕末 見延 典子著 東京 徳間書店
2012年4月
四方の波 栗谷川虹著 作品社 2008年
水上の杯 -小説関藤藤陰伝・老年時代-栗谷川虹著 作品社 2012年3月
昭和の士官学校の試験で、日本史の問題で一番出題が多かったのが頼山陽の日本外史と日本政記と言われる。頼山陽の死の間際に関藤藤陰(石川淵蔵・えんぞう・石川五郎・石川和介・関五郎)に事後処理を任せたようだ。
アメリカ国書を日本にペり―が来た時、関藤藤陰は石川和介という名で老中阿部正弘の下で水戸藩の情報収集役をしていた。上記の小説では水戸藩徳川斉昭を蟄居の時の上司は老中になったばかりの阿部という。その後の水戸藩内部の情報収集役として、頼山陽の最後の塾頭として過ごした経歴から水戸藩では石川を通じて謹慎解除の運動を狙っていたという。ペり―の力で開国になると、安倍の指示で北方領土を調査している途中に老中阿部が死去し、中央の歴史の舞台から消えた。今は無名となったが阪谷家のそばにあった墓も合葬されたようだ。ネットで見ると阪谷朗廬『関藤藤陰先生碑』 があって、水上の杯という小説の最後に現代語訳がある。阪谷朗廬の阪谷家の墓は今でも谷中墓地に福山藩主のそばにある。
水戸藩の攘夷思想と浦賀与力の中島三郎助(開国し技術導入)が合わないはずで、どうして付き合うことが出来たか判らなった。この触媒役が石川和介で彼は二度目のペリ―来航時に黒船に乗船している。
これでやっと石井研堂の明治事物起源(缶詰の始まり)に箱館戦争の最後の戦いで浦賀与力衆と行徳の漬物商人が戦死した事情が解かってきた。この件から福神漬の命名には武士の象徴という刀はナタマメの比喩を含んでいると思われる。