昔と言っても自分が生きていた時の12月から1月のかけて晴天が多く、インフルエンザの流行もあって、空気を乾燥させないようにしていた。木造家屋が多く、さらに暖房手段が石油スト-ブなどがあって火災の危険は今より多かった。学校の石炭スト-ブで家から持ってきた弁当を温め、沸騰したお湯で食べたことを思い出す。給食となり微かな記憶と木造校舎の床が雑巾がけの掃除でささくれ立っていて、とげが手に刺した痛い記憶がある。それも小学校の卒業時に鉄筋コンクリ-トの建物になり、それが今改築計画となる。耐震と災害時の避難場所として上げ底の学校のようだ。地球温暖化で海面が上昇するので、ハザ-ドマップでは水没する地域となっている。
5日は曇天で出かける気が起きず、近所のホ―ムセンタ-で900円程度の買い物。じっとしていると体力が落ちる。少し作文を出さないといけないのだが学校と違って締め切り期日もなければ成績表もない。あるのはボツ原稿ということになる。構想として小林清親と福島事件の関係者の話込みが誰であるかの解明。清親の娘の逸話で福島の人が小林邸で話し込んでいたという。いつの誰だがということだが福島事件の平島松尾と考えている。原胤昭が小林清親に絵を描かせた。その理由として神田須田町で田母野秀顕を描いた浮世絵を福島事件判決後に販売し、販売禁止の処置を受けたのち、タダで配ったのが平島松尾と花香恭次郎だった。花香は明治23年にコレラで死去した.田母野秀顕も石川島の獄中で病死している。
忘れ去られた人物の記憶の取戻しは親族・遺族の義務かもしれない。明治維新で賊軍や非薩長の人たちは記録が少なく、言い伝えしか残らずさらに時間で風化しつつある。親族・遺族でない人の務めは故人の想定外の事実の探求しかない。彼らが福神漬の比喩の調査で調べているとはだれも親族は思わないだろう。比喩は明治政府の言論弾圧から逃れる手段で日本では和歌の本歌取りとか見立てという言葉の文化がある。俳句のその中の一つで、根岸は正岡子規の東京の拠点でもあった。根岸党という文学者の交友仲間が明治の10年代後半にあった。