築地市場に勤めていて、移転問題がどこから来ているかを調べていた。大方の史料では明治の日本橋魚河岸等の移転問題も基本は条約改正が根底にあることに気が付いた。日本の繁華街をレンガつくりにし西洋と変わりない風景を見せようとした。しかし銀座の隣というべき所に日本橋魚河岸があって、西洋人から見て不衛生とみられる風景があった。そこから日本橋魚河岸の移転問題が東京、いや日本の重要な問題となっていることに気が付く。最終的に日本橋魚河岸が移転になったのは関東大震災の戒厳令で魚河岸での路上販売が禁止され、そのうちに他の地域で市が復活し、なし崩し的に日本橋魚河岸の地位が下がった。本当に中央卸売市場法が出来、関西から中央卸売市場が出来た。これも物価高騰、買い占め防止、生産者に速やかな支払い等の目的があった。
このような都市行政が日本のどこから来ているかと遡ると嘉永年間の株仲間再興令にたどり着く。すると当時の南町奉行遠山景元、留守居役筒井政憲、老中首座・阿部正弘 の記録が出てくる。
棚橋正博著『捏造されたヒ-ロ-、遠山金四郎』という本がある。ある著名な日本史学者が遠山景元の評伝がないのは解釈が難しいという。実際のこの本で北町奉行時代には遠山は歌舞伎役者を弾圧している。本を出版したところの宣伝文は次のようになっていいる。
「遠山の金さん」こと遠山金四郎景元は、本当に桜の彫物をした庶民の味方の名奉行だったのか。ドラマでおなじみのヒーロー像に真っ向から挑戦する、新説歴史ドキュメント。
今度の三宅坂国立劇場の最終公演の演目で歌舞伎を救った遠山の金さんとなっている。歌舞伎の弾圧者か救済者かをどう表現するのか気になる。
天保の改革で株仲間を解散させ、十年後に不都合と言って株仲間再興令を出しても、不信感が商人の中にあって元に戻らなくなり、幕府の崩壊が促進された。これらの政策は日本という閉じられていた国の経済なので研究が進んでいて面白い。それでも遠山の行動の解釈が難しい様だ。
不思議なことに北町奉行の印象がある遠山の在任期間は(天保11年(1840年)3月2日 - 天保14年(1843年)2月24日) までで、南の方が在任期間が長い(弘化2年(1845年)3月15日 - 嘉永5年(1852年)3月24日) 。
高野長英が捕縛されたのが嘉永3年10月30日で管轄は南町奉行だった。当然12月の判決は南町奉行遠山景元が決裁した。