年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

遠山桜天保日記の押上の最教寺 まだ1件落着ならず。

2022年12月17日 | 宅老のグチ
墨田区の中央図書館的存在の曳舟図書館で2022年1月上演の中でセリフで出て来る押上の最教寺のことを調べた。今はこの寺が関東大震災で杉並に移転し、さらに環状7号線に敷地がとられ、八王子に移転した。従って最教寺の史料は本所区史でもほんの数行しかない。曳舟図書館の司書さんに出してもらった文献では押上の切絵図では最教寺と大雲寺が並んで描かれている。墨田区業平3丁目付近の地図では業平公園の隣に大雲寺(役者寺)跡と表記されている。またこの区画に相撲部屋の友綱部屋が書かれていて、現地に行ったら大島部屋だった。これまた調べると、2022年2月1日に変わったようだ。これでは道路の地図の変更も間に合わない。大島部屋の隣の業平3丁目集会所の所に墨田区教育委員会の説明版があって、大雲寺には歌舞伎役者の墓があって、それゆえ役者寺と言われていたようだ。最初の竹柴其水作遠山桜天保日記の上演は明治26年のことでその当時は押上の最教寺と大雲寺は並んで建っていた。やや最教寺の方が敷地が広い。江戸時代は身分の差別が残っていて想像だが最教寺の方が大雲寺より格上と感じる。曳舟図書館でやっと探し出してくれた最教寺の文献の中に蒙古襲来の文献があった。また大雲寺の説明版には尾上菊五郎の墓があったという。これも調べると江戸川区西瑞江に関東大震災以後に移転したようで、歌舞伎役者墓碑群 - 江戸川区指定史跡、平成18年3月28日告示 となっている。尾上菊五郎の墓は初代.3代.5代.6代の墓があるようだ。
 今回の国立劇場さよなら公演の出し物として天保の改革で歌舞伎が窮地に追い込まれ、遠山金四郎の活躍で歌舞伎が今日まで残ったということで恩人とされています。天保の時代の記憶がない戦後に初演から50年経って上演されたのですが松竹大谷図書館で見た台本ではどれも押上の最教寺のセリフがあります。
 これにて遠山桜天保日記のセリフ、押上の最教寺の調査は1件落着となりそうだが、竹柴其水の五代目尾上菊五郎への忖度かもしれない。本当は押上の大雲寺としたかったかもしれない。まだ落着しそうもない。
五代目 尾上菊五郎1844年7月18日(天保15年6月4日)- 1903年(明治36年)2月18日)
コメント
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