十数年前に鹿児島県南九州市の知覧特攻平和会館 に息子が訪問し、丁度叔父の特攻命日の来たということで急に特攻遺族扱いされた。それまでは父が養子に出ていて、血は繋がっていても特攻遺族の資格はないと思っていて、詳しく叔父の軍歴を調べることもなく過ごしていた。築地の移転の仕事が終わり残務整理と引継ぎが終わり、夕方のTVを見ていたら、父の写真帳にある写真と同じ写真がテレビに写っていた。早速調べ始めたのだが情報が少なく調べるあてなく、大田区の昭和のくらし博物館で事情を話したところ、下北沢で活躍している特攻の本を何冊も出している作家のきむらけんさんの出会い集めた資料を渡し、そこから台湾からの特攻の調査が進み、コロナ下で台湾に行くことも出来ず、リモ-ト取材で原稿が出来たようだ。きむらさんとの記録のことで何回か電話で聞いたが、叔父たちの陸軍飛行204戦隊は日本陸軍の命令による最後の特攻という。沖縄本土での抵抗が終わって、もう沖縄に飛行機で特攻に行く必要が無いのに、破損した部品で何とか飛べるようにした4機で特攻に向かったようだ。戦後に204飛行隊の戦友たちの文章を靖国神社の図書室で読んでいて思わず涙が出た。叔父の特攻は戦果が期待されていたが、最後の特攻は沖縄まで飛べるかどうかの期待だった。このようなことが多分この本に詳細が書かれていると思う。
邱垂宇先生は小さい時に日本の特攻隊員にあこがれ、台湾の航空業界の重鎮として今でも活躍している。名古屋での台湾航空事故調査団(中華航空140便墜落事故)でも活躍した。
台湾出撃沖縄特攻: 陸軍八塊飛行場をめぐる物語
きむらけん著 12月8日出版販売開始。
この本と表裏の関係のある中田芳子著『十四歳の夏―特攻隊員の最期の日々を見つめた私』も重販となったようだ。今気になる台湾情勢がこんなことになるとは叔父のいたずらかもしれない。
お世話になったり迷惑をかけたところ一覧
平成30年4月より登録文化財昭和のくらし博物館 の学芸員 小林様
北沢川文化遺産保存の会主幹 きむらけん様
桶川飛行学校平和祈念館の学芸員様
歓喜院(真言宗豊山派)住職様 栗原義雄の墓がある。
春日部市川辺小学校 栗原義雄の出身小学校
千葉県立清水高等学校 栗原義雄の勉学した野田農工学校
埼玉大学教育学部 埼玉師範学校 叔父の成績表を探し出してくれた。
野田市郷土博物館の学芸員様
春日部市庄和図書館の司書様
野田市立興風図書館の司書様
埼玉県立文書館 埼玉師範学校卒業者名簿を保管していた。
昭和18年9月毎日新聞埼玉版 陸軍特別操縦の試験の結果発表。叔父はこの時落ちていた。自分の気持ちは同調圧力で受験したがわざと落ちた気がする。陸軍と海軍の両方に合格していた人がいて、一人欠員となり、繰り上げ合格となったようだ。師範学校の成績表には視力の項目があって、1.5の視力が繰り上げ合格の理由だろう。さらに226事件の栗原もあるかもしれない。埼玉県は226事件の参加していた兵士が多数を占めていた。
靖国神社 靖國偕行文庫の司書様 陸軍飛行204戦隊の戦友会の資料
栗原義雄の軍歴
昭和18年11月1日 陸軍特別操縦1期生として入隊。
他の1期生は10月1日入隊。どうやら繰り上げ合格のようだ。従って他の1期生より1か月訓練期間が短い。
昭和20年5月20日 台湾台北近郊の八塊基地より夕刻に一式戦闘機隼で出撃。同日午後7時過ぎに沖縄嘉手納沖にて散華。知覧からの特攻隊と共に米軍に多大な損害を与えた。米軍の記録では5隻程の損害が確認できる。
父の手元にあった写真は特攻が決まった後の送別会だった。前列左から3番目が叔父で、その隣の隊長が戦後にこの写真を栗原家にもってきて、特攻の状況を話した様だ。前列の人たちは緊張していて、後列はハメを外している。後列の首にタオルを掛けている人が戦後に結婚した中田芳子さんの夫で、芳子さんは90歳の現役のユ-チュ-バ-である。