年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

べったら市 大正6年10月

2006年07月16日 | べったら市
大正6年10月20日朝日新聞
浅漬は高い
べったら市の賑わい
昨夜はべったら市であった。降り続いた雨に悲観した商人連達は昨朝からの晴天に元気づいて、例により大伝馬町、通旅篭町、堀留町、長谷川町その他付近の各町一帯浅漬の店軒を並べていた。浅漬の相場はほとんど昨年の倍に当り、昨年1樽4円50銭位のが9円近く9円50銭もする。しかも大根の出来は悪いので甘そうな太物になると1本25銭から30銭もする。職人たちの懐具合が良いので売れ行きは頗る良くべったら市は夜更けまで賑わった。

大正6年10月1日東京を襲った台風によって死者1324名という被害が出た。夏雨量が少なく、野菜が不足のところに台風被害で野菜価格が高騰する。

第一次大戦の影響で日本橋界隈は好景気となる。欧州から輸入していた商品が国産となっていった。

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べったら市 大正5年10月

2006年07月15日 | べったら市
大正5年10月20日朝日新聞
散々な浅漬屋
雨にたたられたべったら市は三分の一も売れず。
これから当分三度の食事に供される浅漬大根は年の市始めと言うべったら市は昨日朝から開かれた。例により日本橋の大伝馬町、小伝馬町、人形町通りの両側には縁起物や荒物や金物やと軒を並べ400軒からの浅漬屋が店を張り「さあ、味のよいのを買わんかいなー」と景気良く売り出したがあいにくの雨のため客足悪くおまけにとても高く値段を吹っかけているので商売は思わしからず夜には雨がますます激しく夜10時頃には数えるほどの人出と商人連は青息吐息となって3銭位から飛び切り上等品がせいぜい10銭位まで値下げし、悲鳴を上げて売り切ったが(持込んだ)樽の三分の一は樽の蓋も開けず11時頃にはそろそろ店仕舞の支度をしていた。

大正5年10月21日読売新聞
浅漬のうまい頃
不正品は安い
香の物の浅漬の美味い頃になりました。今年の練馬大根は普通の出来でさほど上出来で出なかったので大分品によって違いますが上等もの卸値・貫目1円20銭位になるだろう。
 小売値で1円10銭位の相場で下物は店によって値段が異なる。しかし、丁度おいしい味加減は何と言っても上物でス(中が空洞)のない大根を白味醂と麹とザラメ砂糖で漬けた物は真っ白く綺麗で味も格別違っています。そして浅漬の漬け具合は気候の暑さ寒さによってちがいます。丁度良い漬け具合ならば4~5日の間に上げてしまいます。それから往々安物の中にはサッカリンを使った不正品がありますから気をつけて下さい。それは外観だけではチョッと素人には区別しかねます。漬物の色も真っ白で食べてみると悪甘く苦くまた値段が一貫目70~80銭の安い値段ですからすぐわかります。

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べったら市 大正4年10月

2006年07月14日 | べったら市
大正4年10月25日読売新聞
浅漬大根は検査
市内の各漬物屋にて季節物として販売する浅漬大根にサッカリンを混入して漬け込んだ物がありますので、警視庁衛生課に於いては去る20日に係員を派遣して各露天商につき浅漬大根を検査し始めたところ十中八九までサッカリンを混入した疑いがあるので、その漬汁を目下警視庁衛生課で分析検査中とのことであるから一般家庭でも深く注意して食べねばなりません。

1915(大正4)年から5年間は日本の貿易の経常収支は大幅な黒字となり、債務国から債権国に転化した。第1次世界大戦によって国際収支の危機を切り抜けた。欧州からの輸入の途絶で国内は戦争による好景気となる。
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べったら市 大正3年10月

2006年07月13日 | べったら市
大正3年10月20日朝日新聞
べったら市
昨夜は日本橋大伝馬町のべったら市であったが天気の都合が良かったため例年より人出が多く売れ行きも良かった。相変わらず2本3本づつ買って荒縄に縛りブラリブラリと振り回し、若者たちは美装していた婦人連を嫌がらせていた。今年はサッカリンやメチ-ル混入の説が高かったためか、その筋にては大いに取締したものか(市に)出店品にかかわるものなく、板橋や池袋方面から出店したもの千人に達したがだいたい買値で見切り売りした模様だった。

その筋とは当時は食品衛生の取締が警視庁衛生課だった。
サッカリンは甘味を加えるため用いる。解禁論が当時出ていた。
メチールはメチールアルコールのこと。明治45年食品に使用禁止 防腐剤の代わりに使われたのか。
板橋や池袋方面とは当時まだ大根の産地であった。住宅が増えたのは関東大震災以後である。
大正3年 ●第一次大戦始まる
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べったら市 大正2年10月

2006年07月12日 | べったら市
大正2年10月20日東京朝日新聞
べったら市
小伝馬町で電車を降りるともう浅漬大根の香りが菊の香りに混じってぷんと鼻を打つ。狭い恵比寿神社は押し寄せる参詣客で芋を洗うような混雑、お賽銭を浴びせられて神主様はご本尊様よりニコニコ顔である。例の浅漬大根売りに混じって縁起・宮檀をひさぐ者、包丁荒物を売る店、切山椒、打ち切り飴、おもちゃ、かんざし等北は丸道橋から南人形町に着き、東は横山町付近まで及んでいる。あっちでもこっちでも竹の先に大根をぶら下げ振り回し「キャッ・キャッ」と叫んでいる娘子供に近いのを追い回し喜んでいる。今年の原料の大根が安価のため麹その他が高価にもかかわらず例年より1割から2割方安く、大20銭中15銭小10銭位の小売値だった。(四方商店調べ・漬物商)

狭い恵比寿神社とは宝田恵比寿神社のことで実に狭い。
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べったら市 大正元年10月

2006年07月11日 | べったら市
大正元年10月20日東京朝日新聞
昨夜のべったら市
月明かりに加えるに好景気の宵なれば日本橋界隈はもちろん下谷・山の手辺より(路面)電車を利用して散歩がてらべったら市へ赴く人がおびただしく近来にない繁盛を極めたり。人ごみに押されて,本町通より小伝馬町に入れば浅漬大根の香り、まず鼻につき、ずらっと並ぶ露天商は縁起物・宮檀、包丁荒物を売る者、切山椒,切飴、おもちゃ、かんざし店、等北は九道橋より南は人形町・水天宮前の夜店まで続き東は横山町付近まで及び、中でも小伝馬町電車乗換え付近は最も混雑を極め「いらっしゃい・いらっしゃい」の呼び声は耳を聾せんとするばかりで中を青物市場辺りから来た若者が木切れの先に形ばかりの浅漬大根を吊り下げ面白半分にべったらを振り回せば若き女達は金きり声を上げて右往左往し逃げ惑い足を踏まれて怒る者あり、押し倒されてののしる者あり、雑踏はますます雑踏を加えたり。従って、露天商の商いも景気良くはかどり、名代の梅花亭の切山椒・四方(漬物商))の浅漬大根共に9時過ぎに売り切れを告げた。浅漬商にては本年のべったら大根は原産地の不作に加えコレラの為需要が激増し、小売値が2割から3割騰貴したにもかかわらず上物1本10銭より20銭の間で続々売れていったのを見た。(19日午後11時)

10月 9日東京市、各戸へ「コレラ予防の心得」を配布し、朝日新聞がこれを掲載

青物はコレラにかからない食物と考えられていた。サシミのツマも同じ。
明治44年(1911)東京市営電車が発足、大正2年にはほぼ今のJR山の手線内の路面電車網が完成。
四方商店は平成の今でも小伝馬町2丁目にある。大門通り。
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べったら市 明治44年10月

2006年07月10日 | べったら市
明治44年10月20日都新聞
昨夜のベッタラ市
江戸年中行事から引き続いた日本橋名物ともなっているベッタラ市は今年は頗る上景気にて申し分なき天気は引っ込み思案の人たちを引張り出し、夜8時頃にはやっと歩いて行ける位の雑踏の状態で,十時半ごろよりボツボツ減って行き、この中でも人出の盛んなのは大伝馬町、通り旅篭町で堀留・横山の両警察署は久松・箱崎・新場橋の各署から50名づつの応援をもらって総出で警戒した。
浅漬大根は頗る騰貴し,二本30銭と叫んで値段の押し問答するも縁起物だと5銭でも負けろという元気な商いだった。例の切山椒は宵のうち売り切れた。
雑踏が激しければかえって婦人たちに痴漢など多く例年の如く「ベッタラ・ベッタラー」と昔風に浅漬を振り回すやからも多く、14から15歳の男が7つばかりの妹と二人ではぐれた父を探して泣いていたのを見た。
 12時半過ぎて早1時近くになればさすがに人足も少なく屋台店も閉じられ警官一同も引き上げる。こうなると値段もめっぽう下がって7本一束10銭だと疲れきった露天商が行く人の袖を引張り、これ幸いと親切な男が女のために買付ける。かくして今年の市は終わりを告げた。
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べったら市 明治43年10月

2006年07月09日 | べったら市
明治43年10月20日都新聞
昨日のベッタラ市
朝から市に持ち越した小春日和は大伝馬町・小伝馬町・鉄砲町大門通り田所町一帯まで630軒の露天商が賑わしくいっそうの人出で下町式に明日の戎講の支度ぶりを示しつつ旧牢屋原の寺地に江戸時代の見世物小屋が人いきれ内に囃したて、わずかにそこだけが土を見せた線路の上を電車が虫を這うように走り、また電車の中は浅漬臭かった。

明治43年10月15日 読売新聞
 べったら市の露天商 浅漬556店,宮師310店、雑品商435店
明治43年10月20日 読売新聞
 東京一の人出の祭りとなる。

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べったら市 明治42年10月

2006年07月08日 | べったら市
明治42年10月20日都新聞
雨のべったら市
べったら市の景気を見て商家は来年の商況を占うといえども、昨日は雨と寒さとではさすがに景気も占えず、夕方ようやく細かい雨となって、人形町通りは長谷川町より、九道橋大伝馬町は1~2丁目の電車通り、小伝馬町通りに通じ、鉄砲田所町内まで両側に並びし露天商は思い思いの屋根をしつられて、浅漬大根を軒まで山ほど積み上げ,向こう鉢巻のいなせないでたちの若者が威勢良く「さあ、いらっしゃい。安くて美味いよう」と声を枯らすほどに調子に乗って次第次第に人出を増し夜8時には傘と傘が重なって通り抜けらない混雑となった。値段は出放題値切り放題となっていても相場はちゃんと決まっていて売り方も強く、中々負けず、さながら生大根をかじるような物を買って甘い甘いといって賞味しなければ江戸っ子の沽券にかかわるという訳でもないが糸織り小袖に番傘さした商人やアズマコートの客が入れ違いにいづれもむき出しのタクワンを縄にからげて手に提げつつ、中にはふざけて丸髷丹前姿の子供と縛ったのを「べったら・ベッタラ」振り回すものは少なかったものの(路面)電車の中には満員で平気で押しつ押されつ“べったら”だよと唱えんなり。

東コート・吾妻コートとは女物の和装用長コート。江戸時代に雨ゴートとして用いられていたものが改良され、明治の中ごろに東京で大流行したのでこの名がある。


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べったら市 明治40年10月

2006年07月07日 | べったら市
明治40年10月20日都新聞
昨夜のベッタラ市
昨夜は陰暦13夜の月にて、ことに晴天にて非常に人出か多く、雑踏が激しかった。夜8時半より通行できなくなるほどの人出で(路面)電車はしばしば通行を止め大伝馬町2丁目はトビの金棒を引き、雑踏を押し分け3台位づつ徐行せしめて、かろうじて発車させているが線路はすぐに群集にて埋まるほどの危険なれば警官の警戒が行き届き支障なきようにしている。大伝馬2丁目の恵比寿神社は昨夜は宵宮なればベッタラ市と続き町にて大いに賑わい通旅篭町梅花亭の切山椒は8時までに売り切れの札を掲げ、浅漬大根の相場は上15~16銭より下は7~8銭位の相場にて頗る売れ行き良い景気にて本年の露天商は通旅篭町・人形町通りは勿論のこと本年は田所町までも出店した。さらに毎年の吉例として大伝馬町の横通りに植木商等は鉢菊を販売しこの所の縁日の値段を定めているが上30~40銭下は20銭位にて手をうち、最も売れ行き良いのは20銭絡みの下物と見える。

梅花亭とは嘉永3年大伝馬町で創業。現在でも10月19・.20日のみ小伝馬町にて切山椒を販売する。
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べったら市 明治39年10月

2006年07月06日 | べったら市
明治39年10月17日読売新聞
イチョウの葉がちらほらと散りだしてコウロギの声が縁の下へ回るかと思うと早今年も秋深くなり夷講のべったら市はいよいよ明後日19日となれり、今年も二カ月余りとなって人の心も気も忙しくなるなり、例年のごとく日本橋小伝馬町にてべったら市を開き警察にしてもそれぞれ地割り警戒の準備も整ったが、当日の第一の売物である浅漬は本年は雨天がちとなっていたので地面は湿っていて大根の出来はよろしからず品質悪しき物にても一本7~8銭より10銭位にて上等品はわずか3~4把ほどしかなく他はみの種の袋物である。又浅漬に漬けている。近頃はサッカリンを多量に用いれば色よく早く漬かるとしてこれを使用するもの多く、そのために大根の苦味を増すになっているけれど例年べったら市を過ぎれば大根の価格が下落するが今年は下落する見込みがないという。また同日は小伝馬上町より人形町通には浅漬店・縁起物店・鉄砲町は菊・祖師堂は見世物等が出店し、日本橋署は非番の巡査を出し、東鉄社より電車道へ社員を派遣し事故のないよう注意する予定。

明治39年10月17日都新聞
ベッタラ市と浅漬
明後19日は例年の通り大伝馬町のべったら市なのだが当夜の売物たる浅漬大根の相場を聞くと本年は盆明け後雨続きのため大根作柄は大外れにて従って仕入れた値段も高くて上物は一車の荷の中にはようやく2~3把位にして一本5銭なるべし。そういう訳で中々引き合わぬと例の奸商連は麹をたくさん使用せず例のサッカリンを用いている者もある。中には分量を間違えて大根の苦味と共にサッカリンの苦すぎる漬け方をする物があるとのこと。同所の各漬物店においては夷講のご祝儀に極めて少数の浅漬大根を販売する位なので当夜の相場も大抵一本7~8銭から10銭位になるだろう。

奸商とは不正な手段を用いて利益を得ようとする悪賢い商人。悪徳商人。
サッカリンが“べったら漬”に使われていると言う記事が出る。
明治34年に人工甘味質取締規則により”サッカリン“は食品に使用は禁止となっていた。サッカリンは使用過多になると甘味以上に苦味が出る。
東鉄社とは馬車鉄道を電化した東京電車鉄道社のこと。現在東京都電の荒川線として唯一残っているが他の鉄道に比べて線路の軌間が(1372mm)なのは、馬車鉄道の時代から引き継いで来たことが理由です。
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べったら市 明治38年10月

2006年07月05日 | べったら市
明治38年10月20日東京朝日新聞
べったら市の景況
昨日日本橋区大伝馬町べったら市の前日なのだがあいにくの前夜来の雨天であったが諸商人は明け方より現場に出張しそれぞれ店を出店をしたが大通りは電車交通が頻繁なので例のごとく出店は(道の)下水の外3尺を限りとして旅篭町、人形町通り、大伝馬町一丁目横町、大伝馬塩町、小伝馬上町等は出店を許された。さて呼び物の浅漬大根の店34・縁起物店30余・雑器店30余にして植木屋もずらりと並び梅花亭の切山椒も高張り提灯を出して景気をそそるとはさすがに年の市の景気定めと称するほどのことはあるといえる。夜に入ると混雑を予想し日本橋署にては非番巡査を警戒にまわし、堀留町分署を出張所として祖師堂を休憩所にあて、また東京電車は要所要所へ数十名の係員を出張させ乗客その他の警戒をすると言う。

明治38年10月20日日本新聞
昨日は朝からの雨だったが昼頃から小止みとなったので地割りに着手した。本年は電車路の変更によって例年出店の多い小伝馬町、鉄砲町の出店の多くは大伝馬町、人形町に出店し、電車通路はもっとも人家に接近し出店することなり見世物小屋は祖師堂内に限り許可され、日本橋署に於いては小伝馬町の祖師堂へ臨時出張所を設け署長以下非番の巡査まで総出で警戒し往来の激しい電車道は巡査10名を配し、なお(電車の)会社より10名の監督及び工夫等を出していた。各町の露天商の数は300有余にして付近の商店は臨時の売り出しをしていて中々の売れ行きである。

明治38年(1905年)9月5日 日本とロシアは講和条約を調印。日露戦争終わる。
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べったら市 明治35年10月の②

2006年07月04日 | べったら市
明治35年10月読売新聞
江戸っ子は知っているが10月19日はべったら市というときっと雨か風に決まっているが、近年稀な上天気で人出が多いと同時に露天商は軒を並べいて商店(住人)の門を出入りに難渋しているほどだった。
 べったら市という名称のごとく浅漬大根を麹のついたままの振り回すという縁起からして名付けたものであるからいうまでもなく浅漬店が露天商の三文の二を占めていた。ついでに翌朝即ち恵比寿講の日に知りえた内情を浅漬屋訪問記として話そう。
 浅漬屋先生が言うには「どれもどれも、昨夜は見たこともない人出があったが、その割には浅漬大根が総体に売れなかったとね。私の仕込みは樽4本だった。記者は知らないだろうが今年はめっぽう大根が高いときている。一樽3両2分という所さ〆て10円80銭で仕入を、どうにかして15両に増やして帰ろうと思ったのさ。
 ところが記者さん、すべてが計算通りうまくいくとは限りません。お客様もべったら大根の値段を知っていてどんなことをしていても一本800文位に売りたいと思っていても客のほうが4百~五百に値段を付けてくる。縁起物だからと言って売りたいからもう少し愛嬌を付けてくださいと言うとそれじゃ二本一貫200よなんていう。昨夜の売れた価格では2本で一貫200が最高値だったね。私は大伝馬2丁目で一寸目立った所だったからそう売れない方でなかったが神田の方から一人ともう一人家人を連れてきていたので11時頃にはすっかり売り切って家に帰って一杯やって寝込んだね。地代50銭を差し引けば儲けは一割くらいがやっとこささ。」
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べったら市 明治25年10月

2006年07月03日 | べったら市
明治25年10月19日読売新聞
本日のべったり市
明20日は恵比寿講につき日本橋大伝馬町より大丸よりに到るまで3~4丁間は今夜例年の通り開店して明日の用意を商うという、その売物の主な商材は麹漬の大根であるのでこの市をべったり市と呼び、またくされ(腐れ)市と称する由来にて、この市の昔より人出が多いのである。

読売新聞は“ベッタリ市“と”腐れ市“とある。
ベッタラ市と長谷川時雨
明治20年代の大伝馬町付近の風景は都新聞・東京日日新聞の記事から少しづつ江戸から近代明治へ向かっていく動向が見えるが恵比寿講の記事の前後にある日常記事の時代的背景がつかめず、ただ字面を転記して、その内容や背景は薄らとしか見えなかった。その時、長谷川時雨という女性作家が「旧聞日本橋」と言う随筆を書いていて、その内容から明治20年代の日本橋通油町付近の情景が10代の少女の目線で生き生きと描かれているのを知った。(明治12年生まれ・樋口一葉は明治5年生まれ)
 アンポンタン(安本丹・うすのろ)と呼ばれていた少女の目で明治の中頃つまり江戸と呼ばれていた都市が東京と変身していく中で商家の並ぶ日本橋本町通の人々の様子が解る。今風に言えば漫画の“ちびまるこちゃん”の世界でしょうか。
 長谷川時雨の随筆が書かれたのは昭和の始めですが「旧聞日本橋」の世界は明治15年頃から彼女が19歳(数え年?)で嫁いだ頃までの、つまり明治29年までの日本橋通油町の様子で“べったら市”は二ヶ所に書いているが(町の構成・大丸呉服店)浅漬大根の話が出てこない。あんぽんたんの少女には切山椒は覚えていてもべったら漬は食べなかっただろうか?次のように解釈すればよいのだろうか。10月19日の朝からべったら市は盛況となり、浅漬大根の市は大伝馬町付近が多く、通油町の方は少なかったのだろうか。長谷川家は商人の家でないので(弁護士)恵比寿講は詳しく知らない。明治の中頃はまだ恵比寿講のための市だったのだろう。浅漬大根はこの時はまだ市の主な商材でなかったのではないのか。

蕎麦屋の利久の話は明治19年の日本橋一帯にコレラが感染した状況をあらわしている。石炭酸は当時コレラの消毒用として撒かれていた。

あんぽんたんの時代に交通は馬車鉄道の時代であった。明治15年から明治37年3月までの東京の市街交通の人力車と共に繁栄していた。当時の日本橋区大伝馬町界隈は商業の中心地として発展していた。多くの人力車・乗合馬車鉄道が行き交っていた。


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べったら市 明治24年11月

2006年07月02日 | べったら市
明治24年11月23日読売新聞
一昨日は旧暦の10月20日に当たり旧式の各商店にては蛭子講とて山海の珍味を調理して祝宴を催していた。また近在にしても同様なれば一昨朝神田・京橋・両国等の青物市場への入荷は不足だったし又鯛も前夜よりの寒さにて品物が不足し大一尾50銭以上、中30銭、小12銭の相場を言っている。

この当時は一部の商店が旧暦で恵比寿講を祝っていたのだろうか。
明治24年(1891)10月28日濃尾大震災
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