年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

谷中霊園8月15日に

2009年08月16日 | 福神漬
谷中霊園8月15日に
花香恭次郎(はなかきょうじろう)墓   安政3年7月9日~明治23年8月7日(1856-1890)
甲9号8側に福島事件で石川島監獄に収監され、明治16年(1883)獄中でチフスに罹り死んだ田母野秀顕(たものひであき)の墓の隣に衆議院議長となった河野広中が花香恭次郎の墓を建てた。お互いの墓が傾いていて寄り添うよう話しているのだろうか。背景の列には福山藩最後の殿様阿部正恒と夫人(阿部正弘6女)の墓がある。黒船来航時やりあった同士の子孫の墓が隣にある。花香の父(戸田伊豆守氏栄)と老中阿倍伊勢守正弘の関係もここにある。最後の大名といわれる広島藩主・浅野長勲(あさの・ながこと)の実弟が阿部 正桓なので福神漬の歴史に関係してくる。

田母野秀顕が獄中に死んだとき、同じ監獄にいた花香の連絡で同志が谷中に墓地を求め埋葬したという。花香は明治23年コレラで死んだ。
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明治屋食品辞典 昭和11年より 2

2009年08月15日 | 福神漬
明治屋食品辞典 昭和11年より 2
明治屋1930年頃取り扱い食品プライスリスト396項目から 
ふくじんつけ 福神漬
国会図書館にあるこの本はマイクロフィッシュ化されていて検索に慣れるまで時間がかかった。最初から辞書を探ったので「ふ」の項目までかなりの時間がかかった。あとで気がついたのだが明治屋食品辞典は漬物の扱いが少なく、同時に日本古来の食品の説明もあっさりしている。しかし輸入食品に関しての説明はくわしい。その中で〖福神漬〗の項目の文字や由来の量が多いのは異常である。何か理由があるのだろうか。
 このあたりは明治屋さんに直接聞くしかないだろう。
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明治屋食品辞典 昭和11年より

2009年08月14日 | 福神漬
明治屋食品辞典 昭和11年より
明治屋1930年頃取り扱い食品プライスリスト396項目から 
ふくじんつけ 福神漬
沿革 明治18年、東京下谷仲町の酒悦(江戸時代には屠蘇・カラスミ・雲丹等を売っていた)野田清右衛門氏がなた豆、大根、しそ等を醤油で煮たものを漬物にし売り出す時、梅亭師(小石川指ヶ谷町住居)の許へ、名前を付けて引札を書くことを請うた。梅亭師は材料を七種にさせ、酒悦が仲町の弁天(不忍の池)の付近なのと七色を七福神に見立て福神漬と命名した。また引札にこの漬物を食すると他の菜がいらないから贅沢せず、知らず識らず金がたまる。また福が舞い込むとあった。酒悦は何度も代が変わったが成功している。(出典・食道楽・昭和6年・江戸趣味座談会・鶯亭金升氏、氏は梅亭氏と酒悦との対話を見聞し者)
一説 明治19年上野公園内にて大日本水産会第一回品評会があり、同会陶山陶山清猷氏が本品を試食してその着想と食味を賞賛し、店主野田にすすめて同品評会売店に出店して販売することとなったが、まだ定まった名前がなかったので田中芳男、河原田盛美の案として七種の材料から成った漬物ゆえこれを七福神に擬し,福神漬にすべしという説に賛成多く、店主もこの命名に喜びついに福神漬という名称を附すに至った。(大日本缶詰沿革史)
 今用いられている材料はなた豆、ナス、大根、しそ、キュウリの五種は各ブランド共通。福神漬の品質は醤油の良否に左右されることが甚大で、従って野田や銚子等の上等の醤油の産地を控えた東京付近に良品が産する。現在元祖酒悦の外に多数のブランドが販売されている。
 福神漬は万人向けのカレーライスやハヤシライスの薬味としてよく用いられる。日清日露の戦役には多大の需要があった。明治44年福神漬発明者野田の顕彰碑が浄光寺に建立した。
27ページから29ページまで
明治屋食品辞典には漬物はピクルスのところにまとめてあるのに福神漬はどの様な理由があるのか独立した一項目となっている。戦後の食品辞典もこの辞典から殆ど引用されているといってよい。水産会の品評会は明治16年で19年は誤り。
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盆モードで

2009年08月13日 | 築地市場にて
盆モードで
地震が多く、荷物の到着が遅れるかと思ったら予定時間内に九州からの宅配便が届いた。また静岡県からの荷物も無事届いている。テレビ報道では静岡県の一般道路は混んでいるが夜間配送の定期便は順調だったかも知れない。例年なら連休需要で忙しいのだが不景気で荷動きが少なく仕分けも早く終わったようである。
築地は外国人観光客でにぎわっているようだが水産の売り上げが前年の8掛け位の数字がでているので仲卸の減少は止まらない。店舗移動の噂もチラホラ出てきたうえ欧州産のマグロが禁輸になりそうだしどうなる事やら。場内が空いているとスピード違反の事故が多くなる。
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浅野長勲(あさのながこと)

2009年08月12日 | 福神漬
浅野長勲(あさのながこと)
日本初の洋紙メーカーは、明治5年(1872)年、東京・日本橋蠣殻町で創業した「有恒社」です(操業開始は明治7年)。有恒社は広島藩の最後の藩主・浅野長勲が大蔵省雇いの外国人技術者から製紙法を聞いて設立しました。
 明治10年西南戦争が始まると過熱した新聞報道によって新聞読者が増え、滞貨していた洋紙が順調に売れるようになりましました。明治22年2月11日に憲法が発布された日に新聞「日本」が創刊されました。主な資金は浅野長勲から出たといわれています。浅野長勲と芸藩(今の広島県出身)の野村文夫(團團珍聞社主)の関係は元主従関係と洋紙の得意先であったかもしれません。日本新聞が神田雉子町32に本社社屋を構えたのは社屋購入で團珍社(神田雉子町31)を資金援助したといわれます
 明治初期には新聞を拡大する販売政策を国がとっていました。日本で新聞の普及は文字を読める読者が江戸東京に多かったこと新時代の活字・洋紙が銀座近辺でそろいました。明治10年発行の團團珍聞は新聞弾圧を避けるため伏字(○○)を利用するなど、あらゆる報道の可能性が試された時期でもあった。また新聞社も読者の拡大を目指し、「絵入り・振り仮名つき」など工夫をして漢字の読めない人でも記事の内容が理解できるようにしていました。
 福神漬の命名者梅亭金鵞は武家出身ですが戯作の道に入り、明治になって新聞の主筆になった人です。生活のために引き札(広告文)も作成していました。
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農薬汚染米の余波から

2009年08月11日 | タクワン
農薬汚染米の余波から
今頃になって農薬汚染米の余波が漬物(たくわん)にやってきた。事件当時は汚染した米からとった米糠の不使用の証明書を提出する問題だった。さいわい問題の米から出た糠を使って(沢庵漬)を作っているところがなかった。しかし、一部の業者の指摘でそもそもJAS規格のたくわん漬の定義に当てはまる米ぬかを使用しないで製造している現実がある。調味液で作っている現実とJAS規格の定義の整合性が問題となっている。米ぬかを使用しないで製造された「たくわん漬」を表示する規格が必要ではないのだろか。
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季節の変わり目

2009年08月10日 | 築地市場にて
季節の変わり目
東京湾の花火が終われば築地市場は盆休みの準備となる。故郷に帰る人も多いが今年あたりは1000円高速で築地市場見学とTDL見物が増えて帰らないで接待となる人もいる。地方の不景気で散財させるわけにはいかない。
 築地4丁目の中国料理の福新楼から8月13日で閉店するという挨拶状が来た。60年目の廃業となる。昭和24年から築地の栄枯盛衰を見ていた業者がまた減る。
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憲政記念館にて

2009年08月09日 | 福神漬
憲政記念館にて
国会の前にある憲政記念館にはじめて入る。花香恭次郎の関係史料で衆議院議長となった河野広中の確認をしたかった。第一回衆議院議会選挙があった明治23年7月の千葉県第3区の選挙区の地域確認をした。地図上ではどうも香取郡らしい。花香恭次郎は立候補したが3位となり落選し、その年コレラに罹り死去する。
当時は男性の金持ちしか被選挙人になれなかったのでどんな資産を花香は持っていたのだろうか。
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戸田伊豆守氏栄伝 

2009年08月08日 | 福神漬
戸田伊豆守氏栄伝 山村銹二著をよむ
この本を読むために国会図書館に向う。何十年ぶりだろう国会図書館に行くのは。昔と違って簡略化されていて手続きさえしっかりすれば簡単。ただ本を借りるのに30分かかるにはまいった。
戸田伊豆守氏栄伝は地元の人が書いた本で、戸田伊豆守と小原鉄心の関係が中心となる。戸田の要請を受けてペリー来航時に大垣藩士130名を率いて小原鉄心は浦賀の警備に向います。戸田氏栄と小原はペリー退去後、様々な状況を話し合ったと思われます。大垣藩は大砲鋳造と軍隊整備に向います。
鳥羽伏見の戦いでは大垣藩は旧幕府軍に属しており、小原鉄心は急遽藩論を新政府帰順に統一し、大垣藩は東山道軍の先鋒となった。浦賀の経験から幕府の弱体状況を知っていたと思われる。
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山菜と環境

2009年08月07日 | 築地市場にて
山菜と環境
山菜の原料原産地表示問題で国産原料使用商品の価格が大幅に上昇している。青果市場に出荷している加工されていない山菜の価格から加工品(国産原料使用と表示されていた)の価格が今まで異常に安かった。山菜も漬物も嗜好品のため価格を上げれば市場から排除される弱い立場だから、産地偽装の誘惑には弱い。すでに激安スーパーでは輸入品が多いというイメージが出来ている漬物は中国原料表示でも結構売れている。今は不景気で国産より安さのほうが優っている。

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近代日本マンガの始まり

2009年08月06日 | 福神漬
近代日本マンガの始まり
神奈(仮名)垣魯文・河鍋暁斎が明治7年に発行した滑稽諷刺雑誌「絵新開日本地」から近代日本の漫画文化が始まった。当時流行語となっていた「ポンチ」を誌名に入れ、『ジャパン・パンチ』をまねようとした。しかこの雑誌は人気雑誌とならず、はたした役割は、明治8年の戯画入り雑誌『寄笑(きしょう)新聞』 橋爪錦造(梅亭金鵞)・月岡芳年の創刊を促し、明治10年の時局風刺雑誌『団団珍聞(まるまるちんぶん)』 となってゆく。
 福神漬の命名者梅亭金鵞がこの編集者の時でもあった。それにしても『寄笑新聞』全11巻の内10巻を収集した長野県上田の飯島花月という人の先見性を感じる。
 ふざけた遊びが好きだった梅亭金鵞の周辺の人達は七福神を漬物の福神漬に見立てたとき、(なたまめ)は何に見立てたのだろうか。
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團團新聞社主 野村文夫2

2009年08月05日 | 福神漬
團團新聞社主 野村文夫2
『団団珍聞・まるまるちんぶん』『驥尾団子・きびだんご』がゆく 木本至著より
野村文夫の経歴は明治10年頃の團團新聞の創刊の頃から後半の人生となる。
 明治政府が安定して来ると芸藩(広島)出身の野村は英国で知った出版文化のほうに目が向いていった。
 新聞を発行する企画を立てたが、読者の興味をさそう文章を書く作家が見つからなかった。そこで当時出版されていた寄笑新聞に注目した。寄笑新聞こそ梅亭金鵞が主筆であった。梅亭金鵞を迎え団団珍聞は明治10年西南戦争の頃に始まった。政治を漫画風にして批判するような新聞(今の感覚だと雑誌)を発行し、間もなく34万部も出るようになった。明治16年頃から根岸に住んでいた長井総太郎(鴬亭金升)の投書が團珍に載るようになった。梅亭が弟子を派遣して長井を團團新聞社に入社するようにすすめた。17歳の鶯亭金升が誕生した。
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野村文夫 團珍社主

2009年08月04日 | 福神漬
芸備先哲伝 玉井源作著より
野村文夫
名は樞、通称は文機、後に文夫と改めた。雨壮と号し、簾雨または秋野人という別の号がある。代々芸藩(広島県)の医者の家系である。安政二年九月大阪に上り、緒方洪庵につき、蘭学を学び、大いに西洋の学問を納める必要を感じた。二十歳の時だった。藩もまた有用の人材と認めて、航海学の修行を命じ、また汽船の購入のことで長崎に派遣する。志が開国になっていたので慶應元年長崎滞在中、西洋のことを知ろうと望み、百聞は一見にしかずと考え佐賀藩士二名と相携えて英国に脱走する。これは(当時の)国法で禁止していた行為だったので彼の兄野村精大(芸藩医者)は驚き、(芸藩)執政辻維岳を訪ねて事情を説明した。執政の寛大な処置でこれを不問いにした。明治元年日本に帰る。藩はすすんで洋学教授を命じ、俸給を二十人扶持とし、藩の席次を供頭添役次席とした。明治3年東京に上る。民部省に出仕し、工部省を経て、内務省五等出仕となり、従六位に叙せれる。明治10年官吏を退職する。
 この時より在野の人となり、東京自宅において雑誌を発刊する。これを團團珍聞という。時事を風刺した文や絵で記事を書き、すこぶる世間の注目をあびた。その他著述も多い。その後政党が盛んになると立憲改進党に入り、すこぶる力を発揮した。特に芸備両国(広島・岡山)において目立った。後に国粋主義を唱え、明治22年広島の政友会のために大いに奔走し、その領袖となった。明治24年10月27日没す。享年56歳東京染井墓地に葬る。

広島県の人物辞典なので綺麗に経歴が書かれている。東京神田雉子町の團團珍聞社は野村の自宅と書いてあった。ここに色々な人物が集まってくる。團珍の初期の主筆は梅亭金鵞である。梅亭に福神漬が命名されたのは明治10年代終わりの頃となる。
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瓜生岩 浅草寺にある銅像

2009年08月03日 | 福神漬
瓜生岩
台東区中央図書館へ行き帰りのみちで都営浅草線浅草駅を利用するとき、いつも浅草寺境内を様々な道を選んで通ることにしている。その道すがら市川団十郎の銅像やしわだらけのおばあちゃんの銅像が場違いと思いつつあるのを知っていた。福助のような銅像であった。あまり余計なことに調査の範囲を広げると進まないので無視していた咎めが出た。
 河野広中の本(吉川弘文館・人物叢書)を読んでいたら、三島通庸(みしまみちつね)の子三島弥太郎と政敵であった河野広中の支援を瓜生岩が受けていて、浅草寺で銅像を建てた時、除幕式であいさつしたのは河野広中でその会場には三島通庸の孫娘が出席していた。戊辰戦争のとき,会津で傷病兵を救護した瓜生岩は日本のナイチンゲールと呼ばれていた。彼女の銅像の除幕式で福島事件の和解がなされた気がする。花香恭次郎の跡をたどってゆくとこんなことにぶつかった。
福神漬 番外史
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今年は根津

2009年08月02日 | 福神漬
今年は根津
暮れのNHK大河ドラマ「坂の上の雲」に合わせて台東区中央図書館郷土資料のところに根津に集まった文化人の住所地図があった。その中で探した本。
谷中墓地掃苔録 森の中に眠る人々 谷根千工房
谷中墓地の中にある墓について、その人物がどのような生涯を送ったか書いてある本。さて目的の花香恭次郎については他の福島事件の本と内容はあまり変わらないが拓本を取って活字化した文章の中身を調べる必要がまた出てきた。永井昌言とは何者だろう。河野広中が碑文を書いたのだろうがどんな関係があったのだろうか。
 河野広中は調べると大変だ。少なくとも福島事件で花香恭次郎と関係があって投獄されていた。花香恭次郎は鶯亭金升のおじに当たるのだろうが、明治の中頃までどんな仕事をしていて、自由民権運動の盛んになっていた福島県三春に参加していたのだろうか。明治10年代福島県令三島通庸(みしまみちつね)によって弾圧され、投獄された6人の内ただ一人の東京士族だった。
 ペリー来航時の浦賀奉行戸田伊豆守氏栄の五男が花香恭次郎である。
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