年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

夜中に腕時計が震える

2022年01月16日 | 宅老のグチ
睡眠中に腕時計が震えた。昨年暮れ、円安から値上げの心配で電池切れが早いiwatch 3を7に買い替えた。理由は心房細動の検知と、血中酸素濃度(信頼性はまだ薄い)と言ことにした。充電も入浴中に出来るということで、それから腕にはめたまま寝るようになった。もちろん睡眠のデ―タも採れる。
 夜中にiwatch 7が震え、見ると津波予報だった。一瞬どこで地震があったかと思いTVをつけると太平洋のトンガの海底火山が爆発し、津波が日本に来ているようだ。今のところ最大の波は1.3Mだがテレビでは満潮時間を言っていなかった。朝のデ―タでは今日の日本の大方の満潮時間は午前5時前後で、この時間を6時間ほど過ぎれば一安心かもしれない。津波は何回も来るので満潮と重なると思わぬ被害が出る。
 年を取り難聴気味なので腕が震えて電話の着信を知る。さらに電話を取り出さずに時計に向かって話をする。007のジェームス・ボンドになった気分がする。
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火の気のない所の

2022年01月15日 | 宅老のグチ
漬物の逸話を調べていると、文献という根拠が実にあいまいで、それをたどってゆくと、伝言ゲームのようになってしまう。口伝えが文献化され後世に残る。
 およそ食品というのは日々改良変化し、さらに人が同じものを食べるということを偏食というが、それに万能の食材は少ない。そこで季節とかの変化に合わせ食を変えてゆく。多くの文献上に残る食は再現しても当時と同じということは確認できない。
 漬物に関しても20年ほど前の大手漬物製造者のレシピから見ても15%程度から塩分量が激減していて、今は3%程度の食塩量で、昔よく栄養士養成学校を出た人から漬物は塩分が多いと言われたが、今では点滴に使われる生理食塩水並みの塩分のようだ。今の塩分量でも包装資材・加熱殺菌時間・食品添加物の使用で味の基準を超えている。今昔のレシピで再現した漬物を食すると、違和感があるだろう。
 ある程度、食品の名前が必要になってくると、それを真似または味とかの欠点を研究し、追従されるのが普通である。そこで先発ということで有利だったのが、傲慢になって変化に対応しない食品は消える。そして文献に微かに残
る。

 この頃火災で高齢者が焼死している。衣服に火が移っているのに気が付かないこともあるようだ。
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すごいね・オミクロンの感染者数の増加

2022年01月14日 | 宅老のグチ
昨年から腸閉塞で入院した後に体全体の検査をしたいと思っていた。また秋に眼瞼下垂の症状が現れて、検査入院し、医者が懸念していた重症筋無力症と脳梗塞をMRIとかCTを使って検査したが、一週間すると何も治療せず、瞼が元に戻った。その結果予定していた脳ドックが不要となり、さらに2月の入院で小腸・大腸の内視鏡による検査が終わり、大腸がんの元も見つからなかった。退院後の検査で、残る口から食道・胃に至るところを内視鏡検査となった。これで一年間で全身検査となるが、オミクロン株の急速な感染拡大で、来週には東京都では1万人ほどの感染者予想となっている。その中で病院に行くことはリスクがあると感じる。
 欧米の広まりから無症状の感染者が多く、全員近く感染してからオミクロン株の感染収束となるらしい。歴史にのこるスペイン風邪も2年強で収束した様だ。
 この感染症の経過で菅政権の方が対策の遅れの危機感があったようだが、岸田政権の方は、収束気味で油断し、さらに平等という事なかれ主義で調整が遅れたようだ。政治は結果で批判される。今度のコロナはあらゆる制度の隙間を攻撃していて、あれほど監視制度の整った中国でもオミクロンの発生が伝わる。春節の大移動を抑えるのだろうか。
 そもそも日本のコロナは北海道から感染爆発があって、制御できなかったことから始まる。景気拡大の元となった外国人観光客4000万人の数字を捨てることが出来なかった。最も今となってはあそこで鎖国してもワクチンがなかったので、安倍政権の維持は出来なかったかもしれないし、衆議院選挙で敗北もあっただろう。
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野田市の郷土資料館で出された本

2022年01月13日 | 宅老のグチ
関東の醬油と織物  -18〜19世紀を中心として-林 玲子著
 
関東での醤油の発展史を調べるにはこの本が最適かもしれない。今は食品問屋として大手となった国分は江戸時代に土浦との取引から繊維から醤油関係の仕事に転換し発展していた歴史が書かれている。水運に恵まれ、小麦・大豆等の産地から土浦は醤油業を発展させたようだ。繊維から食へ変わったのは大名との取引が採算が取れなくなって(貸し倒れ・不良債権)となって、貸し倒れの少ない醤油に活路を見出したようだ。さらに江戸と土浦の間の取引から醤油の空き樽の物流業に向かったようだ。その物流の扱いに食品輸送が加わり国分の今がある。
 江戸時代は水運が物流の基本で多くの商材と共に情報が行き来していた。南総里見八犬伝はまた水運の物語でもある。舞台となっている地名は船で行き来している所が目立つ。
 いまは河川水運の時代ではなくなったが100年ほど前は、水量も多く安価な運搬手段として使われていたようだ。内陸にある河岸という地名は名残でもある。古河という地域は南総里見八犬伝でも良く出てきて、交通網の結節点で情報が早く伝わる。情報の流通の通過点に人材が出てくる。
 地方の低迷は現状に慣れてしまって危機感とか向上心が弱いことから始まる。
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空樽・明樽・キッコ-マン80年史から

2022年01月12日 | 宅老のグチ
今は醤油の取引で樽の容器は消えてしまったと感じる。まだ仕込みのための樽は少しあるようだが、大きな樽を作る職人が消えつつある。ネットの記事から全国で酒や醤油の仕込みを樽でおこなう記事が出る。稀なイベントになってしまった。できた真新しい木の樽は香は良いが古い木の樽にしみ込んだ麹はどうなるのだろうか。醤油や酒の貯蔵されている倉の外壁はくすんでいて、麹の影響のようだ。

桶と樽 -脇役の日本史-小泉 和子編
キッコーマン株式会社八十年史 キッコーマン株式会社編集
 野田で郷土資料館の人が樽のことを知っている人が亡くなったという。全国的に樽職人は液体を収容する容器から、音楽等の道具とかで細々と生きている。そのうち専門の学校を作らないと伝承できない気がする。酒工場ではステンレスの容器で、温度管理され雑菌も空調で制御される。この技術は半導体のクリ-ンル-ムの技術を使っている。麹菌の邪魔する菌をフィルタ-で除去しているようだ。コロナでウィルス除去が進めば、漬物業でも使うことが普通となる。恐ろしい。

 キッコ-マンの80年史から、戦前の労働争議が樽職人の問題から始まっていることを知る。樽から瓶へ向かう過渡期で、旧習から利権を主張する労働者派遣業と経営者の合理化策の対立だったことを知る。


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コロナ感染不安の医者通い

2022年01月11日 | 宅老のグチ
昨年、今年の通院検査予約した時はコロナの感染者数が減っている最中で、年末の旅行をどうするか話していて、GOTOが復活するとまた若年層に多い、ワクチン未接種者から広がるということで11月に旅行した。さらに年末は旅行費用は高いし、感染不安もある。
 オミクロン型の情報が増えるに従い、やはり騒ぐだけの手ごわい存在である。南アフリカから見つかった菌だがどうも南アフリカはピークを過ぎたようだ。欧米はまだオミクロンが増えているが、ニュ-スを見ていると、マスクなしが散見し、あれほど強権都市となった香港でも幹部役人が飲食し、感染し、隔離されたという。どう処罰されるのだろうか。
 コロナには強権の力は及ばず、防御の隙間を狙ってくる。中国は西安隔離から天津に移ったようだ。外国との接点のある所から感染が広まり、ワクチンも毎年接種しないといけないようだ。
 今日の通院はウレタンマスクから不織布マスクに変更する。
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嘉永3年10月末日の高野長英の死去時 事件処理の不可解さ

2022年01月10日 | 宅老のグチ
ここ2年ほどコロナで、遠出が出来ず、今また自宅蟄居で昔集めた資料を点検した。そこで気が付いたのは、今まで千葉県万歳村の関流和算家花香安精のことを中心に調べていたのですが、どうやら間違いで安精の子で花香恭法という人を調べる必要があると気が付いた。
 花香恭法という人が途中で名前を変えいてその時期が解かればと思っています。恭というのは内田五観(弥太郎)の最初の名前です。どうも和算をしない花香家の親族は恭という名前をつけないと感じています。
 勝海舟の評伝を書いた勝部真長さんの本を読んでいたら、嘉永3年10月ころ、高野長英が勝海舟のところを不意に訪問して、高野の筆跡のある本を献上したという。この本は国会図書館の見解では本物のようです。
 多くの高野長英の評伝本は嘉永3年10月に勝海舟と長英が会ったことに言及していない。どうして危険を冒して長英が蘭学者になったばかり新進の勝海舟を訪問したか説明がつかないようだ。
 今思っているのは嘉永3年春に長崎からオランダ人が江戸参府し、老中の阿部正弘にオランダの軍事本を献上しました。カピタンの江戸参府という本から軍事本は特殊な軍人用語が多く、商取引の多い長崎通詞(立石得十郎)では理解しにくい翻訳となったようです。そこで幕府上層部は浦賀の通詞から、蕃社の獄で捕まった高野長英の捜索を再度はじめ、下曽根金三郎・内田弥太郎が潜伏先を密かに教えた気がします。当時の江戸では見事な翻訳本が出回り、長英生存説が出ていました。高野を生け捕りにし、幽閉し翻訳させ、適当な時期に釈放する計画だったと思われます。このこと(恩赦)情報が洩れ南町奉行配下の与力たちの怒りを買い、放火脱獄犯を生かすことは許せないと、高野の捕縛時の抵抗を理由として南町の与力たちは撲殺したと思います。それゆえ潜伏先の情報を提供した内田弥太郎等を処罰することは出来ない理由となります。内田弥太郎を処罰すると、上司の下曽根金三郎も監督不行き届きで処分され、下曽根の実父の筒井政憲も巻き添えとなります。さらにこの件をさばく江戸町奉行は10月末なので町奉行の当番は南で遠山景元(金さん)でした。北町奉行の時の遠山は老中水野忠邦と対立し、北町奉行を外されました。高野長英が冤罪だったことを最もよく知っている人物が南町奉行でその年の嘉永3年12月の終わり頃、遠山によって高野長英の逃亡援助者の判決がありました。多くの高野の評伝本はここで終わりなのですが福神漬を調べて行くうちに、奇妙な史料が見つかり調べると、内田弥太郎の指示で高野長英の隠れ家を世話した内田の親族の宮野信四郎は明治元年の暮に新島から恩赦で釈放されました。当時の流罪人はある程度経済的支援者がいないと島で亡くなるようでした。評伝本では御家断絶とありましたが実際は異なっていたと推測されます。また遠山によって流罪となった残りの3人のうち1名は獄死の記録があって、さらに2名の流人先が東京都の公文書館にも記録がなく、何か不自然さを感じます。
 花香家はこの秘密を隠すため、止む得ず内田五観に頼まれ浦賀奉行戸田伊豆守の庶子を受け入れたと思います。南町奉行遠山景元。留守居役筒井政憲、下曽根金三郎(筒井政憲の次男)などの嘉永3年10月末には浦賀の役人は江戸にいたようです。この花香家に養子に入った戸田伊豆守の庶子は後に自由民権運動福島事件の被告人の花香恭次郎で、彼の谷中墓地にある墓碑から旗本長井家の支援があったようです。墓碑では永井昌言、千葉県旭市飯岡町は長井家の知行地でさらに火付盗賊改の職(長井五右衛門昌純)を経験していました。この裁きの不可解さは記録がなく、記憶に残っていたようで、竹柴其水作初演・明治26年11月(東京・明治座) に上演された歌舞伎遠山桜天保日記にのあらすじが似ています。この時の遠山の金さんの刺青が出て、テレビで見る『この刺青に見覚えがないか』の始まりになります。戦後になってこの歌舞伎が2008年12月再演され、高野長英の放火脱獄の部分を筋書きから外したため台本作りが困難だったようです。
 竹柴其水はかなり取材したようで明治26年頃まで生きていた南町奉行与力たちから、上層部の噂を話したようです。

 このような推測から史料を点検すると、長英が殺害された後の話の出どころが内田弥太郎から出ていて、浦賀にペり―来航後から幕府政治から距離を置き、和算の教育者・暦の研究などをしていたようです。太陽暦・容器とか長さの基準は内田弥太郎の持っていたものが今の基準となっていて、国立科学博物館に升とかものさしが所蔵されているようです。つまりマンションの一坪は内田弥太郎から始まるのです。


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江戸時代の長崎の砂糖貿易

2022年01月09日 | 福神漬
べったら市から江戸本町に集積していた薬種問屋が、薬種の一種だった砂糖がふえ、砂糖の専門の問屋が本町の隣の町に発展した。
 多くの長崎貿易の記録はオランダの記録が残っていて、中国船貿易の記録も少なく、日本人の研究者も少なく今に至る。砂糖交易はオランダが1とすれば中国は2の比率のようで記録はなかったが、オランダと中国人との情報交換をしていて制御していたと見られる。初期の貿易の中では砂糖の入っている竹籠は航海の時のバラスト(重石)の役目で積載されていた。唐人は江戸初期に宇治に寺院を創った隠元に余った砂糖を寄進し、京都の茶道・菓子文化の発展に寄与した。
 黄檗山萬福寺は1661年に中国僧「隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師」によって開創されました。 
政治の中心が江戸に移ると、砂糖の日本の交易の道は江戸城内の大奥に繋がった。男子の入らない大奥はお菓子が楽しみだった。質素倹約も大奥は制御できず、老中水野忠邦が失脚した。女性の甘味指向は政治を動かす。
 
狂言の附子(ぶす)
 遠くに出かける主人は、二人の家人に留守番をいいつけます。主人は二人に壺を見せ、この中には附子という毒が入っているから絶対に近づかないようにと言い置いて出かけます。
 二人は、こわごわ壺に近づき、中を覗き込みます。すると、中身は附子ではなく、おいしそうな砂糖だったのです。二人は我慢できず、つい砂糖を口にしてしまい、とうとう全部平らげてしまいます。そして、言い訳のために主人秘蔵の掛け軸や、天目茶椀を壊して、大声で泣きながら主人を待ちます。二人は、驚き怒る主人に、宝物を壊してしまって死のうと思って附子(ぶす)を食べたと言い訳します。。
 一休さんの頓知ばなしとしても登場する有名な狂言です。教科書にも出る話です。今は壺が樽に代わっています。樽は江戸時代の象徴です。どうやら二人は砂糖の味を密かに知っていたようです。

 
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今年初めて借りた本 

2022年01月08日 | 宅老のグチ

シニアマーケティングはなぜうまくいかないのか  -新しい大人消費が日本を動かす-
 阪本 節郎著日本経済新聞出版社 2016.3
 蔵書の積んどく本の整理で、過去の購入した本ばかり年末年始に読んでいた。チョット飽きたので、書評欄の切り抜きが出てきたので、以前は図書館になかったので検索すると出てきて、借り出すことが出来た。
 最近の傾向で、書評とか話題のある事件で昔を思う人が多いようで、細木数子さんの報道から、遅れて図書館の予約を入れたら、16人待ちで、もう2か月ほど経っても、順番が進まない。想像だが高齢読者がゆっくり読んでいると思う。占いの表裏が解かるのだろうか。楽しみ。

 2022年1月7日の日本経済新聞朝刊で、今世紀中に人類の最長寿は130歳になるという研究がアメリカであった。1月初めの記事で日本人女性が119歳の誕生日祝いがあった。今のギネス公認記録では122歳ということだ。老後の不安はインフレに強い資産を持つ人と、弱い資産を持つ人の差が出ているようだ。これは学校教育でお金の教育がなかった後遺症だろう。多くの老人は増えない現金を家に置き、詐欺師や強盗に狙われている。
 2025年問題を強調されている。昨年の入院経験から、やはり平均健康寿命を過ぎると過去の病歴で隠れていた病原菌が免疫機能の劣化で表に出るようだ。帯状疱疹は典型的な長期潜伏の病気のようだ。結核菌も高齢者で復活しているという。
 2025年から戦後生まれの後期高齢者の大量介護が始まり、それでなくとも介護業界の人手不足が目立っているのに、危機を煽って貯めてある老後資金を経済システムが狙っているようだ。アメリカやカナダで身に着ける位置情報システムが日本で徘徊者の監視システムとして認知される時期が来ている。悪意のある解釈で人間牧場的になる。すでにペットは認識番号を入れたチップを入れつつある。そのうち図書館や量販店の盗難防止装置を身に着ける時期が来たかもしれない。そうなれば中国を上回る監視システムとなる。
 かって葬儀業界が団塊の世代の増大で、葬儀の件数が増え、通夜斎場が市中の増えた。銀行が成長産業と見ていて、予定地の近隣が騒いで、今では屋根付きの一目で葬儀の車と解かるのが消えた。今度のコロナで葬儀が簡略化され、家族葬が増え、業者は葬儀後の儀式もコロナを理由として減って、別に不謹慎と言われない時代になった。お墓もある意味では負の遺産で遺族は負担になる時代が来ている。実家の人の住まない思い出のある家も、アッという間に廃屋になり、行政から勧告が来る時代になったようだ。台風災害後に倒壊した家は地域の復活を妨げ、さらに景観も悪くする。
 

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雪の朝

2022年01月07日 | 宅老のグチ
4年ぶりの東京都内の雪。普通は寝ていて朝気が付いて雪だったのが今回は昼から降り始め夜には止んだようだ。朝になると凍結していて、慣れない凍結道路で事故が多発し、さらに歩行者の転倒も予想される。
 
 夕方に階段に積もった雪は昨年まではスコップで片付けていたが車用の水滴を取るハンドワイパ-で雪かきしたら、軽いし遠くまで届く。これも凍結する前なら役に立ちそうだ。スコップは土砂用でやはり重い。年を取り、退職して暇なので考えることは時間の節約というより、工夫と脳の活性化で、今ある道具の用途に新たな使い道を探すことが一日の始まりとなる。天気は毎日変化していて、昔より正確な天気予想(予報ではない)もよく当たるようになった。ただ天気予報の雨の確率と傘を持ってゆく判断が研究されていないようだ。コンビニで雨が急に降ると傘を店頭に出し、廃棄傘を増やす。折れた傘を回収するシステムがない様だ。
 今はまだマイナス気温だが日中の気温予想では10度近くなる。北側の屋根の雪以外は明日には消えているだろう。
 
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昭和の終わりは何曜日

2022年01月06日 | 宅老のグチ
いつの1月の築地市場の初荷が終わって、挨拶行事も終わり一息ついた築地市場の夕方に昭和の終わりの日を思い出す。

1989年(昭和64)1月7日午前6時33分 昭和天皇が崩御される。確か土曜日だった気がする。車の飲酒運転の絡みで、社内の公式行事の新年会は築地4丁目の新喜楽の隣の今は調剤薬局となっている上海料理の福新楼だった。天皇陛下の崩御を聞いて、臨時幹部会で新年会が中止となり、福新楼にはお詫びの電話を入れ、後日に埋め合わせの新年会を行った。確か年度代わりで4月の10日過ぎだった記憶がある。
 築地を含めて、中央卸売市場の日付は和暦で、請求書の関係で1月の伝票類は昭和だった記憶がある。伝票類は慌てて訂正ゴム印を多数買って、暇な時期に押していた記憶がある。手形用紙は昭和の印刷があって、訂正印が必要か銀行に聞いたが、今ではどう返事があったか記憶にない。この昭和から平成のドタバタで官庁の権限が及ばない組織は和暦から西暦になった。特に食品は輸出している関係で日付は早くから西暦だった。
 深夜のNHKの終日放送になったのは昭和63年秋の天皇陛下の下血報道から始まった気がする。9月10月は年末商材の打ち合わせだったが、もしの場合で自粛となれば大変な損失だったと予想していた。何とか1月まで医者たちの努力で持ちこたえたようだ。今の上皇の早期引退はこのことを念頭に置いてあったと思う。
 1月8日は平成の始まりで、小渕官房長官が額を掲げた姿を記憶に残す。令和の額を掲げた菅官房長官も首相となった。平成になり天皇誕生日が12月23日になり、正月商材がクリスマス商戦の方にス-パ-が力を入れて、正月の和食文化の衰退促進となった。それは元日から営業しているので買いだめする必用が無くなったかもしれない。何かが伸びれば何かがが消える。食の栄枯盛衰の記録は衰退記録が少ないと感じる。
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50年前の自分の日記を読んで

2022年01月05日 | 宅老のグチ
写真とか本の整理をしている内に50年前の書きかけの家族史が出てきた。もう忘れてしまった昭和30年12月の父の死の状況とそれによる周囲の変化があったことを知る。やはり家族の中心で不幸があると全体がくるってくる。
 さらに戦前の写真も出てきて、今のうちに内容を聞かないと誰か判らなくなる。今本の整理をしているがようやく分別の方法が見つかって、近所の図書館と都立中央図書館にある本は捨てるか売る。そして図書館にない本だけが残る。様々な本をコピ-した紙も小さくし、ネットに上げ必要なら再度どこから検索できるかして、捨てる。
 自分の日記は書き直し、パソコン上に保管する。今はPDF化されたものも検索できる様だ。技術の進歩の速さは想定より早い。
 様々な制度仕組みが、時代の変化についてゆけない高齢者を取り残す。正月明けの二日にマルエツというス-パ-で父の墓に備える生花を買った。通常より200円ほど高かった。レジの行列は長い。なぜならレジ要員が少ない。若い人は無人のセルフレジでバーコ-ドを読み取り、決済して出てゆく。列に並ぶのは高齢者だけだった気がする。
 年寄りの特権は無知を装い人に聞くことで、混んでいないときは実践するしかない。大手企業に勤めていた男性が定年で家に引きこもると、お茶出す人もなく粗大ごみとなる。
 明日は昨年予約した粗大ごみの日で今日から準備が始まる。
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正月が終わって日常に戻るがTVはどう煽るのだろうか

2022年01月04日 | 宅老のグチ
年末に予想したようにオミクロン型の感染拡大があって、急速に新規患者を増やしていて、経路不明も増えているようだ。それでも重症者・死者の数が増えていないし、不安は少ないと判断していて2年前の日常に戻りつつある。やや感染力の強いインフルエンザという感覚だろう。

 ゴミ出しが始まる。年始はどこも出かけず、荷物の断捨離。犬の散歩で同じことを町内でしていたようだ。明日は生ごみの日で、今年は記録的に多い。
 予想していたといえ、捨てるか残すかの分別で過去の写真で物思いにふける。当時は今の生活を予想すらできなかった。写真に写っている男子は急速に消えているに違いない。統計上100歳まで生き残る日本人の男女比で男子は12%しか残っていない。88%は女性でさらに出生時の比率が男子が多いので実際は男が100歳までは厳しい。
 地縁が移転で消え、学校も移転してしまい、跡地の校舎も消える。地域の姿もミニバブルでドンドン変わってゆく。新聞販売店が統合され、町の電気屋が消え、増えたのは接骨関係の仕事。整体も増えた。スーパ-の午前は働く人も買う人も高齢者施設と感じる。
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考証天保水滸伝・今川徳三著 

2022年01月03日 | 福神漬
考証天保水滸伝・今川徳三著 捨てるかどうかまだ迷っている本
 幕末ともいえる天保年間、千葉県の外れの地域で起きた博徒同士の争いが、講談・浪曲となって今に伝わるが、これが福神漬の調査の過程で知識として知っておく必要があった。
 今は講談浪曲を好む人が減り、多くの講談師が講演の場が少なく苦労しているようだ。NHKの日本の話術という番組も、天保水滸伝を通しで放送をしていない。当時の時代背景では幕末の日本と少し異なった東房総地域だった気がする。
 著者は飯岡の助五郎からの書き始めている。助五郎は相撲取りになりそこなって(友綱部屋の親方の急死のため)、浦賀に近い所から千葉飯岡の町に住みつき、地域の諸問題を解決し博徒となった。飯岡の助五郎は二足の草鞋を履いていたのである。今の感覚だと治安維持機構と手を結び賭博場を開き、生活していた。
 飯岡の町はイワシ漁とそれを干して肥料とする仕事で繁栄していた。干鰯は西浦賀の問屋を通して関西へ販売され、木綿等の栽培の肥料となっていた。それゆえ助五郎は飯岡へ向かったともいえる。ある時飯岡の男性漁民が多数遭難死して、多くの未亡人が出来てしまった。助五郎は浦賀周辺から男性を集め、未亡人に振り分け生活圏を保持させた。干し鰯漁は男性と女性の協力が必要な産業で、一時的にイワシがやってくると活況になる仕事だった。すると暇な時期はばくちしか楽しい娯楽がなかった。飯岡に近い大原幽学記念館で当時の農民がギャンブル中毒になっている状況を理解できる。幽学は農民の借金を工夫してなくしたが博徒と治安維持(八州回り)ににらまれ、ペり―来航と江戸での裁判がぶつかり、長期中断による江戸滞在資金の枯渇で最後は自殺してしまった。
 飯岡周辺の地域は安中藩領などの譜代の領地と幕府直轄地が細切れになっていて、他の地域に犯罪者が逃げ込むことが普通だった。そのため関東取締出役が回村し、博徒等を取り締まった。その手先の道案内に飯岡の助五郎がいた。
 飯岡の助五郎をはじめ天保の博徒の騒乱を研究している書物に飯岡の町の上永井と下永井を知行地としていた、火付盗賊改職だった二番町の長井五右衛門昌純が文献に出てこないのが不思議に思っていた。
 長井五右衛門昌純は安政3年7月13日(84歳)で死去。火付盗賊改職は比較的長く、その後は小普請として活躍していて、勝海舟が子供の時、犬に急所をかまれた時に頭の長井五右衛門という記述は配下の人が深川に住んでいた。
 
 二番町で隠居生活をしていた筒井政憲は安政6年6月8日(1859年7月7日)、死去。享年82歳。 文政8年頃は南町奉行が筒井政憲でこの後20年ほどの長期の南町奉行を務めた。火付盗賊改が二番町の長井五右衛門昌純だった。治安維持の職務で二人が重なる時期があった。このことから筒井が長井家の断絶を惜しみ、戸田伊豆守の三男を長井家に養子先をあっせんしたと思われる。これが長井筑前守昌言(鶯亭金升の父)となる。出典・鶯亭金升日記より。
 
(博徒名)勢力富五郎  
(生没年)文政5年(1822年)~嘉永2年(1849年)  享年28歳
     総州万歳村(現・千葉県旭市)金毘羅山中に立てこもり自殺

勢力富五郎は、干潟八万石の万歳村(現・千葉県旭市)に生まれる。江戸大相撲力士を志願し、廃業後に博徒の世界に入り、笹川繁蔵の子分となる。弘化4年(1847年)親分繁蔵が、関東取締出役の手先飯岡助五郎の息子の堺屋与助に闇討ちされた後は、関東取締出役と対決、闘いを挑んでいく。

嘉永2年(1849年)12代将軍徳川家慶が、下総小金原の牧で鹿狩りを行うことが決定した。だが下総東部、利根川下流域では、博徒勢力富五郎とその子分が関東取締出役の追及を尻目に無法を尽くし、跋扈していた。将軍鹿狩りもあり、治安維持は重大事であった。関東取締出役は面子にかけても、勢力富五郎捕縛をする必要があった。

関東取締出役は、関八州、東海道からの応援も受けたが失敗し飯岡助五郎と関東取締出役が裏での結託を知る地元の人々は、勢力富五郎に同情していた。そのため万歳村の名主等の人々も捕縛情報を漏らしていた。
 関東取締出役上層部は、地域外の常州土浦藩の名主・内田佐左衛門を道案内に選び、勢力富五郎捕縛の切り札に投入する。内田佐左衛門は勢力一味を追い込み金毘羅山の山頂に鉄砲を武器に立てこもる博徒の勢力を自決させた。
 この時の万歳村の共同名主であった花香家はこの騒動の文献に現れない。また小普請になった長井五右衛門昌純(元火付盗賊改)も文献に現れない。
 敵対する勢力富五郎を自決させた博徒たちは、次に農村自立を指導する大原幽学を難癖付け、訴訟に持ち込み、ペり―来航騒動で裁判が長期化し、判決後に大原幽学が自決した。
 映画での大原幽学と天保水滸伝の背景にこのような地域を 混ぜ合わせ記憶を混乱させる。
 福神漬の命名伝説の背景を知らべてゆくと日本史が違って見える。維新後も長井家と知行地との交流があったようで、小林清親が飯岡助五郎のところに宿泊した理由は鶯亭金升の手引きだろう。

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初夢 中国の制御しにくいお金・コロナ菌・男女の性情

2022年01月02日 | 宅老のグチ
チョット先端を行っている中国の事情を百度(中国検索システム)でチェックしている。もちろん政府の干渉があって、これは明治から今に至るまでの日本の忖度思考を高度化しているので、次期日本の姿が見える。昔と言ってもちょっと前はアメリカでそこで流行しているものを日本化すれば失敗は少ない。ところが日本のバブル崩壊でリスクを取ることなく、お金が回らない。過去は余った金を土地に投資すれば安全だった。上がったとはいえ一部の東京の土地はまだバブル期の土地価格以上になっていない。
 中国の制御できないものは、お金のようで、今まで香港とかマカオに行っていたお金が中国国内で自由になるのだろうか。日本に送金できない日本円を手で運び込み日本法人を作り買収した会社を知っている。彼らにとって日本はふみ台でしかない。小さな会社でも人脈から多くの資金の情報を得ることが出来る。
 オミクロン型のコロナもあれほど厳格に制御しているのにまだ感染が制御できないようだ。特に陸地続きの中国にとって密交易の問題は残る。男子の少ない中国は密輸入女性という方法もあるようだ。ミャンマ-・ラオス・モンゴルからコロナが忍び寄る。政策があれば対策があるという国で百度は規制を意識しつつ苦戦報道が続く。隠しても欧米から暴露されるものもある。
 北京オリンピックで中国攻撃をしているアメリカは男女のスポ―ツ選手の色恋紛争を強調報道しているようだ。表向き中国は男女平等といっても、やはり日本・韓国と同じ男尊女卑の気風が残る。
 
 今までは西側が中国・ロシア・北朝鮮のコンピュ-タ攻撃報道を伝えるがこれから西が中国情報を取りに行く時代となった。従って日本がスパイ拠点となる時期もあるだろう。

 新年の初夢でした。

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