考証天保水滸伝・今川徳三著 捨てるかどうかまだ迷っている本
幕末ともいえる天保年間、千葉県の外れの地域で起きた博徒同士の争いが、講談・浪曲となって今に伝わるが、これが福神漬の調査の過程で知識として知っておく必要があった。
今は講談浪曲を好む人が減り、多くの講談師が講演の場が少なく苦労しているようだ。NHKの日本の話術という番組も、天保水滸伝を通しで放送をしていない。当時の時代背景では幕末の日本と少し異なった東房総地域だった気がする。
著者は飯岡の助五郎からの書き始めている。助五郎は相撲取りになりそこなって(友綱部屋の親方の急死のため)、浦賀に近い所から千葉飯岡の町に住みつき、地域の諸問題を解決し博徒となった。飯岡の助五郎は二足の草鞋を履いていたのである。今の感覚だと治安維持機構と手を結び賭博場を開き、生活していた。
飯岡の町はイワシ漁とそれを干して肥料とする仕事で繁栄していた。干鰯は西浦賀の問屋を通して関西へ販売され、木綿等の栽培の肥料となっていた。それゆえ助五郎は飯岡へ向かったともいえる。ある時飯岡の男性漁民が多数遭難死して、多くの未亡人が出来てしまった。助五郎は浦賀周辺から男性を集め、未亡人に振り分け生活圏を保持させた。干し鰯漁は男性と女性の協力が必要な産業で、一時的にイワシがやってくると活況になる仕事だった。すると暇な時期はばくちしか楽しい娯楽がなかった。飯岡に近い大原幽学記念館で当時の農民がギャンブル中毒になっている状況を理解できる。幽学は農民の借金を工夫してなくしたが博徒と治安維持(八州回り)ににらまれ、ペり―来航と江戸での裁判がぶつかり、長期中断による江戸滞在資金の枯渇で最後は自殺してしまった。
飯岡周辺の地域は安中藩領などの譜代の領地と幕府直轄地が細切れになっていて、他の地域に犯罪者が逃げ込むことが普通だった。そのため関東取締出役が回村し、博徒等を取り締まった。その手先の道案内に飯岡の助五郎がいた。
飯岡の助五郎をはじめ天保の博徒の騒乱を研究している書物に飯岡の町の上永井と下永井を知行地としていた、火付盗賊改職だった二番町の長井五右衛門昌純が文献に出てこないのが不思議に思っていた。
長井五右衛門昌純は安政3年7月13日(84歳)で死去。火付盗賊改職は比較的長く、その後は小普請として活躍していて、勝海舟が子供の時、犬に急所をかまれた時に頭の長井五右衛門という記述は配下の人が深川に住んでいた。
二番町で隠居生活をしていた筒井政憲は安政6年6月8日(1859年7月7日)、死去。享年82歳。 文政8年頃は南町奉行が筒井政憲でこの後20年ほどの長期の南町奉行を務めた。火付盗賊改が二番町の長井五右衛門昌純だった。治安維持の職務で二人が重なる時期があった。このことから筒井が長井家の断絶を惜しみ、戸田伊豆守の三男を長井家に養子先をあっせんしたと思われる。これが長井筑前守昌言(鶯亭金升の父)となる。出典・鶯亭金升日記より。
(博徒名)勢力富五郎
(生没年)文政5年(1822年)~嘉永2年(1849年) 享年28歳
総州万歳村(現・千葉県旭市)金毘羅山中に立てこもり自殺
勢力富五郎は、干潟八万石の万歳村(現・千葉県旭市)に生まれる。江戸大相撲力士を志願し、廃業後に博徒の世界に入り、笹川繁蔵の子分となる。弘化4年(1847年)親分繁蔵が、関東取締出役の手先飯岡助五郎の息子の堺屋与助に闇討ちされた後は、関東取締出役と対決、闘いを挑んでいく。
嘉永2年(1849年)12代将軍徳川家慶が、下総小金原の牧で鹿狩りを行うことが決定した。だが下総東部、利根川下流域では、博徒勢力富五郎とその子分が関東取締出役の追及を尻目に無法を尽くし、跋扈していた。将軍鹿狩りもあり、治安維持は重大事であった。関東取締出役は面子にかけても、勢力富五郎捕縛をする必要があった。
関東取締出役は、関八州、東海道からの応援も受けたが失敗し飯岡助五郎と関東取締出役が裏での結託を知る地元の人々は、勢力富五郎に同情していた。そのため万歳村の名主等の人々も捕縛情報を漏らしていた。
関東取締出役上層部は、地域外の常州土浦藩の名主・内田佐左衛門を道案内に選び、勢力富五郎捕縛の切り札に投入する。内田佐左衛門は勢力一味を追い込み金毘羅山の山頂に鉄砲を武器に立てこもる博徒の勢力を自決させた。
この時の万歳村の共同名主であった花香家はこの騒動の文献に現れない。また小普請になった長井五右衛門昌純(元火付盗賊改)も文献に現れない。
敵対する勢力富五郎を自決させた博徒たちは、次に農村自立を指導する大原幽学を難癖付け、訴訟に持ち込み、ペり―来航騒動で裁判が長期化し、判決後に大原幽学が自決した。
映画での大原幽学と天保水滸伝の背景にこのような地域を 混ぜ合わせ記憶を混乱させる。
福神漬の命名伝説の背景を知らべてゆくと日本史が違って見える。維新後も長井家と知行地との交流があったようで、小林清親が飯岡助五郎のところに宿泊した理由は鶯亭金升の手引きだろう。