MR.コールマンの挑戦日記

セカンドライフを迎えて趣味のランニングや街歩き、スケッチ水彩画、地域活動などの日常のあれこれを綴っています。

福井大震災から63年

2011年06月28日 | うんちく・小ネタ

あれから63年・・・忘れもしないあのふるさとの福井大地震を屋外でキャッチボールをしていて経験して、何が何だかわからない恐怖に慄いて立ちつくしていた記憶が消え去ることはない。

今、東日本大地震を経験して復興に立ちあがったばかりであるが、子ども心にあの日の恐怖と苦悩の日々の想いは、一口では言い表せないものがある。

戦後間もない昭和23年6月28日午後5時13分だったが、戦後の復興も出来ていない時だった故に、今から見ればバラック建ての家屋は、震度7で見る影もなく全てがペシャンコになり、多くの人達が全壊の家の下敷きになっていた。

同時に火災が発生し、福井市内の中心部にはあっという間に真っ黒の竜巻風の煙の筒が舞い上がっていたのを見つめていたのである。

幸い家族は外にいたので無事であったが、忍び寄る火の魔から逃れるために、手足を切断して助かった人も多かったそうだ。

最も悲劇的だったのは、映画館や学校体育館におられた多くの方々が倒壊した建物の下敷きになったまま火災で焼死されたようで、震災による死者も4000人近かったと記憶している。

ふるさと福井は、空襲で市内の殆どが丸焼けとなり、地震でも市内は殆どが全壊、さらに追い打ちをかけて九頭竜川は底喰川の決壊による何度もの水害に遭い、子どもながら家の周りの泥水の中を泳いで逃げた記憶すら残っている。

Fukui

一時は、福井の復興は無理ではとすら思い福井を離れることも当時考慮されたと聞いていたが、今の福井は見事に復興を成し遂げて、市の中心通りには「フェニックス(不死鳥)通り」の名が付けられているのである。

その後の生活は、親戚に身を寄せたり、学校は米進駐軍のテント学校などで各地からの援助を受けながら必死になって自らを奮い立たせて市民がひとつになって復興に向けて頑張ってきたと見聞きしていた。

今回の東日本の甚大な地震の被害状況を見ていて、地震・津波の被害規模は比較にならないが、世界各国からの日本への支援の輪が出来ており、被災者も日本国民も心ひとつになって復興に向けて『がんばろう日本』の気持ちを持って望めば、必ずや遠くない先に復興が出来ると信じている。

Photo

被災地の犠牲者の皆さまには、こころからお見舞いを申し上げるとともに、我々も一緒になって一日も早い復興に向けて力を合わせなければならない。

地震や津波の直接被害もさることながら、今取りざたされている原発事故に伴う風評被害については、政府や関係者も手をこまねいているようにさえ見えてくるが、メデイアの報道の仕方も悪戯に不信感を増長させるばかりで、タレントの素人コメントがさらに輪をかけていると感じている。

福井大震災の時は、テレビも無かった時代だったので、その悲惨な状況も伝える手段が限られていたが、今の風評を見ていると、正確な情報提供が必要であるのは論を待たないが、過剰な難しい情報も混乱を招いている原因ではなかろうか?

コメント
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