題詠は、日常の意識の流れに、言葉という「小石」を置いて見るようなこと。
流れが遮られて、普段は意識しない、こと、ものに気付き、それが一句に。
今回の句会でも「新米」という季語によって、様々な生活の断面が浮き彫りにされました。
この句からは、お米が日本人の意識に大きな影響を与えてきたことがうかがえます。
今日のご飯は新米よ、という声に箸をとる時、今日は普段と少し違った日として意識されます。
日本人でよかったと、ちょっぴり感じたりもします。
その意識の底には、新米を神に捧げて収穫を感謝、来年の豊作を祈る新嘗祭があります。
古代から続いてきたこの祭りは、現在では米つくりとは直接関係のない勤労感謝の日となっています。
ライフスタイルは大きく変化しているのですが、それでも日本人は「新米」には敏感です。
しかし、私たちの孫の世代はどうでしょうかね?
TTPなどで日本の農業・漁業はさらに変貌すると予想されています。
母親が食卓で、今日は新米よ、というような風景はみられなくなってしまうのでしょうか・・・
遅足
流れが遮られて、普段は意識しない、こと、ものに気付き、それが一句に。
今回の句会でも「新米」という季語によって、様々な生活の断面が浮き彫りにされました。
この句からは、お米が日本人の意識に大きな影響を与えてきたことがうかがえます。
今日のご飯は新米よ、という声に箸をとる時、今日は普段と少し違った日として意識されます。
日本人でよかったと、ちょっぴり感じたりもします。
その意識の底には、新米を神に捧げて収穫を感謝、来年の豊作を祈る新嘗祭があります。
古代から続いてきたこの祭りは、現在では米つくりとは直接関係のない勤労感謝の日となっています。
ライフスタイルは大きく変化しているのですが、それでも日本人は「新米」には敏感です。
しかし、私たちの孫の世代はどうでしょうかね?
TTPなどで日本の農業・漁業はさらに変貌すると予想されています。
母親が食卓で、今日は新米よ、というような風景はみられなくなってしまうのでしょうか・・・
遅足