父は昭和45年、滋賀県東近江市の石塔寺を訪れた際 「 流氓 」と
題した歌を数首 詠んでいます。
近江の国 蒲生郡に いにしへの 百済びとらは移り住みにき
風霜に曝され たてる石の肌 大石塔のめぐりを歩む
石塔は声なけれども然れども 過去流氓のいのちを伝ふ
大いなる角の石もて造りたり 声なき石の流氓の声
私が滋賀県の蒲生 ( がもう ) 郡や神崎 ( かんざき ) 郡に百済からの
渡来人が移り住んだことを知ったのは、司馬遼太郎の 「 街道をゆく
~ 韓 ( から ) のくに紀行 ~ 」からでした。
古代の朝鮮半島では高句麗 ( こうくり )、新羅 ( しらぎ )、百済
( くだら )の三国が対立。660年、百済は新羅、唐の連合軍に敗れ、
滅亡する。
663年、倭 ( 日本 )と百済再興軍は白村江 ( はくすきのえ ) の海戦で、
新羅・唐の連合軍に大敗。 司馬遼太郎氏は
「 … 敗戦の現地日本軍は百済人たちを大量に亡命させるべく努力した。
さらには当時の天智政権は国をあげて かれら亡国の士民を受け容れる
べく国土を解放した。
日本歴史の誇るべき点がいくつかあるとすれば、この事例を第一等に
推すべきかもしれない。」と述べています。
百済からの亡命者の中には百済王子の末裔、鬼室集斯 ( きしつしゅうき )
という人物がいました。この一族が移り住んだという場所が石塔寺の
近くにあるというので行ってみることにしました。
東名高速道路八日市インターから30分位、車一台がやっと通れる農道
のような小道を鈴鹿山脈の方向へ行くと、鬼室 ( きしつ ) 神社の案内板
が出てきます。
この辺りは、地元の人に聞くと小野 ( この ) という集落で、水田に囲ま
れた小さな森が鬼室集斯を祀った神社でした。本殿裏に石の墳墓があり
ました。
「 日本書紀 」の天智天皇四年 ( 669 )に
「 鬼室集斯 等 男女七百餘人 還居 近江国蒲生郡 」とあります。
鬼室集斯は天智天皇の大津宮 ( おおつのみや ) で初代の今でいう文部
大臣を務めた後、小野の地で没したとされています。
鬼室神社の入口にはハングル文字の案内板もあり、父のいう " 流氓
( りゅうぼう ) "の跡が偲ばれます。ふと、父の歌が思い出されました。
しづかにも季 ( とき ) の移るは 吹く風に日の光にもあはれあれども
写真は滋賀県蒲生郡日野町小野 ( この ) の鬼室神社 筆者 撮影
百済の人々は今で言えばAIの先進技術を身につけた人たち。
天智天皇としては願ってもないことだったのでしょうね。
のちに高句麗の人達も亡命してきましたが、こちらは関東に住んでいます。
微妙に政治的なものが反映しているのでしょうか? 遅足