575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

日本語は「私」中心の受身言語?  

2007年01月31日 | Weblog

「電車が入ってきます。黄色い線の内側でお待ち下さい」
私達は自然に受け止めているこのアナウンス。
中国人の留学生には不思議だそうです。
なぜ、線路側で待たねばならないのか?と考え込んでしまうそうです。

「やあ思ったより元気そうだね。君が休むと困っているんだ。
早く良くなって下さい。」
日本人のお見舞い。
「やあ、顔色がよくないね。会社のことは、ちゃんとやっているから、
安心して休んで下さい。」
中国人のお見舞い。

このふたつの違い。面白いですね。
解説によると、日本人は「私」中心思考。
お見舞いの場合、相手の病気が私に痛手を与えた。
その早い回復を願うという自己中心・受身的な発想。
一方の中国は、外の事柄を冷めた目で見ている。
相手中心の客観的な判断に徹している。

  (日本人の発想、日本語の表現・中公新書より)

俳句には主語はありません。基本的に作者が主語とされています。
この私中心の受身的思考が、俳句を世界一短い詩として
成り立たせているのかも知れませんね。

                    遅足


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それぞれの形に冬の空を刺す・・・      草女

2007年01月30日 | Weblog
 「それぞれの形に冬の空を刺す 枯れ木の道に歩み疲れき」
 小椋佳のライブ「遠ざかる風景」の中の一曲「身辺抄」の一節である。
 折口正記という歌人の短歌に小椋佳が曲をつけたもの。
 詩もメロディーも声も新しい感覚で、まだ若かった私に強い印象をを残した。
 以来、冬木立を歩くとこの歌が浮かぶ。
 広辞苑には「枯れ木・・・枯れた木、または落葉した樹木。」とあり、双方は昔から混同されてきた。例えば、枯れ木に花を咲かせる花咲爺さんの枯れ木は多分落葉した木であろう。でなければ爺さんは木に登って灰を撒くことが出来まい。枯れ木ならすぐ折れてしまうからである。
 落葉した木は一見枯れた木の様に見えるけれども、冬芽を必ず持つ生命のある木だ。
 植物は生き残るために様々な戦術を編み出してきた。厳しい冬の季節を乗り切るために落葉するのもその一つ。しかも、ただ落葉するのではない。
 葉っぱたちの散り際の準備は、葉の中にある養分を芽、幹、根に送り返すことから始まる。その作業が進むと順次、「離層」という枯れ落ちる箇所づくりをする。
 そして風に吹かれて落ち葉になる。
 しかし、この冬、落葉していない落葉樹をあちこちで見かける。このごろの暖かさで落葉の仕組みが、うまく働かなかったのではないかと思っている。
 人間を含め地球上の全ての動物は植物によって命を支えられている。
 このところ頻繁にみられる植物の異変に危惧を感じている。
 
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儚くない五七調。      愚足

2007年01月29日 | Weblog
『名句十二か月』岸本尚毅(富士見書房)に谷川俊太郎「ことばあそびうた」が紹介してあり感心しました。この詩は五七五で見事に組み立ててあります。

  はかかった
  ばかはかかった
  たかかった
  はかかんだ
  ばかはかかんだ
  かたかった
  はがかけた
  ばかはがかけた
  がったがた
  はかなんで
  ばかはかなくなった
  なんまいだ

墓買った/馬鹿墓買った/高かった
墓噛んだ/馬鹿墓噛んだ/固かった
歯が欠けた/馬鹿歯が欠けた/がったがた
儚んで/馬鹿はかなくなった/なんまいだ

 しめやかな山とおもへば墓がある        山頭火
 
「墓」という字は土の上に草が生えている。
それは土に帰り、自然に還る安らかなイメージだ。
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雨水ってなに?    遅足

2007年01月28日 | Weblog

塔句会の2月の題詠が二十四節季のひとつの「雨水」
私の歳時記には、載っていない。
辞書を引いても、季語としての意味が分からない。

 書道部が墨摺っている雨水かな  大串章

この一句が見つかりましたが、これでは雨水の本意が
掴み切れません。

どなたか歳時記の例句を教えて下さい。

     

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いきいきと死んでゐるなり水中花  櫂未知子

2007年01月28日 | Weblog

この句は類想句という問題で有名になった句です。
じつは性愛を詠った句だったと知ってびっくり!

櫂未知子さんの句集のなかでは、こんな句のなかに
置かれています。

 
 薔薇色の肉を手渡す夜の秋
 いきいきと死んでゐるなり水中花
 わたくしは昼顔こんなにもひらく
 舐める噛むしゃぶる吸ひ込む天高し
 野火果ててふたつの鼓動だけの夜
 啓蟄をかがやきまさるわが三角州(デルタ)
 致死量のことば頂く良夜かな

   

近代以降、性愛を、俳句で積極的に詠んだのは、日野草城でしょう。
新婚の初夜を詠ったミヤコホテル連作はさまざまな反響を呼んだそうです。

 春の灯や女はもたぬのどぼとけ  草城

これも一度読んだら忘れられない句です。
しかし、それから俳句で性愛が詠まれることはあっても、
主流となることは無かったと思います。

   

全存在として抱かれいたるあかときの
         われを天上の花と思わむ   道浦母都子

鋭い声に少し驚く 
     きみが上になるとき風にもまれゆく楡 加藤治郎

性愛を積極的に詠ったのは、短歌の世界でした。
多分80年代だったと思います。
それから、少し遅れて、俳句の世界にも性愛が登場したわけです。
俳句も、確実に、新しい時代に入ったと思わざるを得ませんね。
好き嫌いは別にして。

日本文学の一番豊かな遺産である恋の歌。
俳句ももっと恋を詠むほうが良いと思っています。

    句品の輝き(坂口昌弘)より引用   遅足



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海暮れて鴨のこゑほのかに白し   芭蕉

2007年01月27日 | Weblog

『野ざらし紀行』のなかの一句。
鳴海で詠んだとされています。

高柳克弘さんが、こんな解説をしています。


 聞いている「鴨のこゑ」を、「白」という色によって
視覚的に言いとめている。
ある感覚を別の感覚と関連させる共感覚の表現は、
ヴェルレーヌ、ランボーらに代表される
十九世紀のフランス象徴派でさかんに試行された。
掲句はそれに先立つこと二世紀にして、彼らの詩に劣らない斬新さを持つ。
のみならず「ほのかに」の効果も見逃せない。
「鴨のこゑ白し」では感覚の独走。
それを軽減させる「ほのかに」の慎ましさは、
フランス象徴詩には見られない俳句ならではの特質といえる。

    (フランス堂のホームページより) 遅足
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春寒し声音たのしむ「深夜便」   朱露

2007年01月27日 | Weblog


  NHK「深夜便」の「心の時代」のオッカケ。
  最近俳人黒田杏子と童話作家山崎陽子を聴く。
  明け方あまりの面白さに脚をバタバタさせた。
  お二人のお声の何が面白いか、機会があれば。
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大寒や一打一打のドライバー  朱露

2007年01月26日 | Weblog


   30数年のゴルフ歴で打ち方がわかった!
   教えてもらうのが猛烈嫌なのでバカ見た。
   世に「教え魔」ぐらい迷惑な奴はいない。
   イロイロシッテイルガダカラオシエナイ。
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一句に四苦八苦    鳥野

2007年01月26日 | Weblog
多作多捨、という恐ろしい言葉を知りました。

かって1日の吟行で30句余りが書き連ねてあるのを見て、唖然としました。
「俳句というのは、こんなに矢継ぎ早にできるものなんですか」。
「ああ、そうだよ」とさも当然の返答。

そのはず、むかし「ほととぎす」を精進した人は、1日千句を目標にしていたそうです。(短歌ヴァーサス・上田信治)
作句しても、その大半は捨てられいく、これも修行なのでしょうか。

その中に、一読では読み捨てられた作が、、やがて感動を呼び、歳時記の例句として記載されるのですね。

日常の、見過ごしてしまえば、それっきりを捉えて句とする、その句に共感する読み手・・・私めには程遠い道です。

     煮ふくめし大根に箸の穴二つ   山本美紗

     山茶花や雀顔出す花の中     青蘿
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路上にある宇宙  麗

2007年01月25日 | Weblog
「いま生きているという冒険」という本を読みました。
石川直樹という冒険家が書いています。

高校生の時のインド一人旅に始まり、北極点から南極点まで
1年かけて旅するプロジェクトに参加したり、
チョモランマをはじめ、
七大陸の最高峰を登頂したりとあらゆる極限の冒険を経験した
彼が壮大な旅のあとに感じたこと。。。

それは

「現実にどこに行くかということは大したことではない。
日頃、心を揺さぶられる何に向かい合っているかが大切。
宇宙に行かなくても、誰もが知っている路上に無限の宇宙がある」

と言うシンプルなものでした。

この感覚は俳句に通じるものがあると思いました。
小さなことに目を向け大きな世界を表現できる575の世界。
ちょっと励まされました。

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蜘蛛の糸     遅足

2007年01月24日 | Weblog

芥川龍之介に「蜘蛛の糸」という短編があります。
極楽から地獄の池を見ていた、お釈迦様が、一本の蜘蛛の糸を下ろす。
それに掴まった盗賊が必死によじのぼっていきます。
しばらくして下を見ると、ぞくぞくと亡者がのぼってくる。
「これは俺の糸だ」と叫んだとたんに糸が切れるというお話です。

糸をたらしてもらったのが、法然、道元、親鸞だったら
どうするのでしょう?
こんな面白いことが書いてある本を読みました。

法然さんは、糸を身に巻きつけて、ちょんと、合図して待っている。
道元さんは、糸をのぼっていきます。しかし上も下も見ません。
親鸞さんは、のぼらない。とても上れないことを知っているから。

   「お念仏とは何か・ひろさちや」から

      

さて、私ならどうするのか?
上っていくでしょうね。
そして・・・




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火のけなき家つんとして冬椿     一茶

2007年01月23日 | Weblog
 ツバキの学名は、カメリア・ジャポニカであるが、日本固有種ではない。
 自生しているのはヤブツバキ、ユキツバキ、ヤクシマツバキの三種。
 ツバキは花を愛でるだけでなく、実から油も採る。
 しかし、それだけではない堅い材を生かした用途も多い。 その一つに「媒染剤」としての利用がある。
 万葉の「 紫は灰さすものぞつば市の 八十のちまたにあえる児や誰」は「紫」の染めに灰が必要なこと、殊にツバキの灰が良いことを「つば市」という町の名で表現しているという。
 正倉院に残っている文書に「ツバキの灰を八十五石ニ斗買う。値段は三貫九十五文」と書かれている。
 927年に完成した「延喜式」にも
  深紫色 ・・紫草三十斤、酢二升、灰二石、薪三百六十斤
  浅紫色 ・・紫草 五斤、酢二升、灰五斗、薪六十斤
とある。
 灰汁の中には、色々な金属が少しずつ溶けている。その中でアルミニューム・イオンと鉄イオンが染料と布地をしっかりくつっける仲立ちをし、発色させる。
 ツバキの木には、他のどの木よりアルミニュームが多く含まれている。
 古代の人々は、確かな科学者であり、技術者であったと、ただ感心するばかりである。
 それにしても「ムラサキ」は幻の花になりつつあり、ほとんど目にできない。
 紫草三十斤(換算すると18kg)。それも乾燥した「根」のことだろうから、
その頃どれほどの「紫草」が咲き誇っていた事か。 そんな昔に行ってみたいものである。
                              草 女

 ※ なお、大竹三郎著「色を深める」大日本図書を参照した。
             
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写真俳句        愚足

2007年01月22日 | Weblog
 昔よく読んだ「森村誠一」に「写真俳句のすすめ」というTV番組で久しぶりに出会った。 森村はその番組で写真と俳句の類似点を語り、さらに撮った写真に俳句を添える楽しみについて、熱弁をふるっていた。 
 私もカメラの愛好家であり、句の景に困るとコンピューターの画面に流れる自分の写真を眺めてヘボ句を作ることがある。
 森村の「写真俳句」の本も出されているが、ネットに「森村誠一公式サイト」があり、その中に「写真俳句館」のコーナーがあり百週にわたる沢山の写真と俳句のコラボレーションを公開している。一度覗いてもらうのも楽しいと思う。

 添付の写真は、その写真俳句館の一枚である。添えられた俳句は

  「梅が香を煮詰める藍や星を溶く」  

  
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丸き背の更にまあるき日向ぼこ  絵門

2007年01月21日 | Weblog

これは今朝の中日俳壇に載った江本さんの句です。

選者の長谷川久々子さんの評には、
寒さで着ぶくれていよう。
更に身を縮めて丸くなった背中。
何人かの仲間が集まった日向ぼこの景であろうかと思うが
「丸き」「まあるき」となると、
明るき賑やかな日向ぼっことが想像される。
と、ありました。

丸き、まあるき、と同じ言葉を
表記を変えて繰り返す修辞のたくみさ。
いかにも俳句らしいユーモアが感じられます。

      

                      遅足




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小川軽舟さんについて

2007年01月21日 | Weblog








愚足さんが俳人ランキング一位とされた小川軽舟さん。
全く知りませんでした。
そこで、小川さんについての一夜漬けの報告です。

本職は銀行マン。
藤田湘子のお弟子さんで、俳句誌「鷹」の主宰者と
ありましたから、後継者のようです。
自薦句をいくつか紹介します。

 秋の蝶盤石に鈴振る如し

 冬雲や竹のまなかに担ぐ人

 マフラーに星の匂をつけて来し

 白鷺のみるみる影を離れけり

 男にも唇ありぬ氷水

抒情的ですね。好きな句です。
俳句の伝統に添いながら、現代人の心にふれる
詩精神がみごとに生かされています。

   

ランクのなかに名前があった高柳克弘さん。
先日のNHK俳句に出演していました。

  冬の日や馬上に氷る影法師  芭蕉

この句の素晴らしさは、影法師が氷る、
という詩的な表現にあると。
さらに自分の目標は、「日常語に詩を宿らせる俳句」
と話していました。

 蝶々の遊ぶ只中蝶生る 克弘

二人とも俳句は詩であると、考えているようです。

  

日本列島がどんどん都市化して、自然がなくなっていきます。
俳句のテーマも、自然より人事がふえているそうです。
ふだん使っているコトバも人事に属するものがほとんどです。
そのコトバに詩の魂を宿らせる。
そこに伝統のある季語を蘇えらす。
伝統と現代生活とのバランスを上手にとること。

現在の俳句の主流は、その辺りにあるかも知れません。

                 遅足



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