父の第三歌集 「 しらぎの鐘 」 ( 昭和 57年 ) より
仏頭のいます聚落 秋の日の光のなかにわれかへりみる
金箔の剥げたる黒きみ仏は おほに豊かに立たせ給へり
み仏を背後に仰ぎ感歎す 御体の傾き言ひがたくして
み仏は滋賀県長浜市高月町渡岸寺 ( どうがんじ ) の向源寺にある
十一面観音立像のこと。
私は以前に拝観したことがありますが、今回の琵琶湖の旅の最後
に立ち寄ってみることにしました。
もう、午後もだいぶ過ぎていました。近くの駐車場から向源寺へ
向かう途中、茶店のご主人が 「 お寺は午後4寺で閉扉しました。
どこから? 」と呼び止められ「 ここの観音堂は名古屋と深いご縁
があります 」とのこと。
向源寺の住職のお話では、明治30年 、十一面観音が国宝に指定さ
れたのを機会に観音堂を再建することになり、住職と村人が手分け
して近畿地方を中心に浄財を募って廻った。
村人の一人で観音信仰の篤い小川清平さんは京都で募金活動を始め
たが、思うように集まらず 、当てのないまま名古屋へ。54歳で亡く
なるまで、18年間も名古屋に住み着き、募金活動を続けた。
大正14年 小川さんらの浄財をもとに立派な観音堂が建立された。
設計を担当したのは、名古屋高等工業学校 ( 現 、名古屋工業大学 )
の土屋純一教授とのこと。
寺伝によると 、奈良時代、聖武天皇の時に疫病が流行った為、加賀
白山を開いた泰澄 (たいちょう)に命じて、十一面観音を祀ったのが
始まりと言われています。
泰澄は渡岸寺の村からも望める己高見山 ( こだかみやま 923m ) の
開祖でもあり、石道寺や鶏足寺などこの周辺の村々には多くの観音像
が伝えられています。
観音信仰の篤い土地柄で、渡岸寺の十一面観音が戦国時代、浅井 、織田
の戦いで、堂宇が焼失した時、住職と村人が土中に観音像を埋めて、難
を逃れたそうです。
渡岸寺の十一面観音については、その美しさを愛でる文章が多く紹介
されていますが、この彫刻の特徴についての言及は少ないようです。
私は大学時代に学んだ日本美術史では渡岸寺の十一面観音が彫られた
平安時代前期をわざわざ貞観 ( じょうかん ) 時代として区別していた
のを思い出します。
特にこの時代、彫刻には際立った特長がありました。
それはまず一木彫 ( いちぼくちょう ) といって、頭部から足先、時には
台座まで も一本の木から彫り出されていること、
もう一つの特長は仏像が着ている衣の衣文に翻波 ( ほんぱ ) 式衣文が
現れていることです。
これは、衣の皺を丸く膨らんだ大波と大波の間に三角波のような鋭い
小波を入れる表現方法です。
渡岸寺の十一面観音は、見事にこれらの特長を具えています。
写真は滋賀県長浜市高月町渡岸寺 ( どうがんじ ) の向源寺 筆者 撮影
渡岸寺観音堂の十一面観音立像は撮影禁止です。
あの観音様は意外に名古屋と縁が深いのですね。遅足