先日、私がいた中部日本放送のテレビ開局60年を記念する式典がありました。
名古屋地区では、、民放としては一番早く、昭和31年(1956)12月に開局しています。
私が入社したのが翌年のことで、テレビ草創期とあって色々、混乱もありました。
テレビが本当に普及するか、疑問視されていた時代の話です。
もう神話になってしまったような事柄の一端を書きとどめておきます。
その前に一言。先日の式典では放送無事故600日を達成した関係者一同が表彰されました。
これは粋な計らいだったと思います。デジタル時代、いくら自動化されたとはいえ、
最後のチエックは人間です。
番組制作者は国の芸術祭や民放祭などでよく表彰されますが、毎日、無事に放送して当たり前、
放送を影で支える人たちにこそ、表彰されるべきだと在職中、思ったものです。
アナログ時代、それも草創期には放送事故は日常茶飯事でした。
放送素材が持ち込まれる投射室、その素材をモニターで見ながら送出するマスター室。
この送出部門を統括していた司令官のお一人にこの間の記念式典でお会いしました。
出席者の中で最長老ですが、83歳の私よりカクシャクとしておられ、記憶も確かです。
その元司令官が「卓( ディレクター席 ) でニュースを送出できたのは、君と僅かだったなぁ」
とおっしゃいました。この言葉で私の記憶もよみがえってきました。
当時、テレビニュース課は課長も入れて8人、ニュース担当は5人、毎日夕方には
ニュースの送出のために、交代でディレクター席につきました。
当時のニュースは六項目位。原稿、フィルムの編集を先に終えた者がディレクター席に。
ところが、このディレクター席には、誰も進んで座ろうとはしませんでした。
この席に座るとろくなことがないのです。
フィルムのスタート、アナウンサーへの合図の遅れ程度はまだましで、
フィルムの切断や放送中にスタンバイしていたテロップやスライドが投射機の不具合で
突然、送出できなかったりすることはよくありました。
沢山あるモニターのひとつには「しばらくお待ちください」というテロップが常時、
用意されていました。
フィルムは厄介もので、カメラマンが撮ってきたフィルムを現像しなければいけません。
その時間に少なくとも30分くらいはかかります。
これを編集するのですが、ちゃんとした指導者もおらず、映画館で上映されるニュースや
戦艦ポチョムキンなどを見て、我流で編集していました。
私はこの作業が好きでした。フィルムとフィルムをアセトンという溶剤で接着します。
急ぐ場合は「ネガ編」といつて、被写体と逆になった画像を編集するため、特に注意が
必要だった上、よく放送中に剥がれました。
私も「長良川の鵜飼い開き」を、夜のニュースで何とかネガ編集して全国放送に。
間に合わせたまではよかったのですが、鵜飼いのクライマックス" 総がらみ"のシーンに
入った途端、フィルムが切断するなど、苦い経験はいっぱいあります。
放送事故が多かったせいか、考察課という部署があって、番組をチエックしていました。
何か仕出かそうものなら、事故報告書の入った古びた皮のショルダーバックを肩に
ニコニコ顔のおじさんが鬼の首でもとったかのように現れ、事情聴取を受けることになります。
こんなわけで、誰もディレクター席に座りたくなかったのです。
私の報道勤務のころもまだニュースはフィルムでした。
火事と事故の二つのニュースを送出しました。
初めが火事でしたが、事故のフィルムのスタートボタンを押してしまいました。
悪いことに全く気付かず、そのまま第二項目へ。
残っているのは火事のフィルム。どうしたものか?と迷っているうちにニュースの
時間は終わっていました。それでもお咎めナシでした。(遅足)
写真の絵は竹中健さんの作品です。