旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
芭蕉の辞世の句とされるものですが、なぜ芭蕉は大坂で亡くなったのか?
じつは弟子の喧嘩の仲裁のためだったそうです。
晩年になって可愛がっていた酒堂が、近江から大坂に進出。
以前から大阪を仕切っていた之道と弟子の奪い合いの喧嘩に。
大坂に入った芭蕉は、酒堂の家に泊まります。
これは酒堂が医者だったこともあります。芭蕉は体調を崩していましたので。
しかし、之道にしてみれば、面白くありません。はじめから波乱含みです。
どうやって仲裁するのか?
俳諧の興行を行うことによって仲直りさせようとするのですね。
何回か、今風にいえば、連句の会が催されました。
しかし、結局、失敗しています。
芭蕉は、どうもエコヒイキが強いようです。
悪いことには、ある俳諧の興行で出されたご馳走を食べて、下痢、
病状が悪化します。
酒堂の医者としての腕はたいしたことはないらしく、
芭蕉は酒堂の家を出て、近江から呼んだ医者に見てもらいますが、
結局、帰らぬ人となってしまったのです。
酒堂はこれを恨み、葬儀には出ていません。
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
旅に病んでなほかけ廻る夢心
病気で寝ていた芭蕉は、どちらが良いか?と、
枕元にいた弟子の支考に聞いてます。
「いずれもいいです」と、支考は答えそうですが、
本当は両方とも、そんなに良い句ではないと、思っていたそうです。
芭蕉は「言いおおせて何がある」と、弟子に教えていましたが、
この句は言いおおせてしまったと考えたのでしょう。
「悪党芭蕉」は、勉強になることが一杯、書いてありますが、
連句がよく分からないので、半分も理解できませんでした。
どうも芭蕉を理解するには、連句を知らないとダメなようです。
なお芭蕉以前には、連句は100句、続けられたそうです。
これだと夕方から朝までかかりです。
そこで芭蕉は36句という短い連句を始めます。
これだと、夕方から集まって、次の日の仕事には差し支えない
時間に帰れるからということです。
なかなか知恵者でもあります。