先日、名古屋市名東区の歴史散歩の地図を手に
地下鉄の一社駅から春のウォーキングに。
最初の目的地は神蔵寺。
途中の公園では、母と子のペアーが集まってサッカー遊び。
なかにはポツンと取り残されたような母子も。
汗ばむような良い天気。
植田川を渡って、といっても、都市河川、
コンクリートで固められて昔を偲ぶよすがもありません。
植田川と平行して走っている高速道路の高架をくぐって
坂を登ると神蔵寺。
小高い丘のうえに黒松の大木のあるお寺。
住宅地のなかの緑のオアシス。
本堂の横に古いお墓が。
柴田源六のもの、勝家のおじいさんのようです。
神蔵寺は、もともと一色城のあった所。
ここから南へ。目指すは明徳寺。
高速道路を横へ見て。やがて左手に小高い丘が見えてきます。
住宅地のなかに、昔ながらの大きな家が現れます。
表札を見ると「柴田」さん。
注意してみると、あちらこちらに「柴田」さんが・・・
ちょっと急な坂を犬に吠えられながら登ると明徳寺。
ここは、下社城(しもやしろじょう)の跡。
柴田勝家が生まれた城です。
丘陵地の端にあたり、西南にむかって開けており、
城をつくるには絶好の場所です。
西を流れる植田川を天然の堀とし、
内側を一重堀で囲まれた方形のお城であったと伝わっています。
城といっても、天守閣はなく、館があったくらいでしょうか?
ここでお昼。コンビニで買ったお弁当を。
南には、新興住宅地が春霞のなかにひろがっていました。
戦国の世を渡り来る春の風
勝家は当初、織田信長ではなく、弟の信勝に使えていました。
しかし稲生ヶ原の合戦で、信勝が敗れてからは
信長に仕える様になりました。
その後、越前(福井県)北ノ庄城主となりましたが、
信長が本能寺で討たれた後、羽柴秀吉との争いに敗れて討ち死に。
勝家の辞世の歌
夏の夜の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山ほととぎす
お市の方の辞世の歌
さらぬだに うちぬる程も 夏の夜の わかれを誘う ほととぎすかな
おしどり夫婦だったんですね。
帰路は、北へ。
500年の時空から一気に現代に。
ところどころに畑の残ってる新興住宅地のなかを歩き、
地下鉄の上社駅へ。
半日のウォーキングでした。
地下鉄の一社駅から春のウォーキングに。
最初の目的地は神蔵寺。
途中の公園では、母と子のペアーが集まってサッカー遊び。
なかにはポツンと取り残されたような母子も。
汗ばむような良い天気。
植田川を渡って、といっても、都市河川、
コンクリートで固められて昔を偲ぶよすがもありません。
植田川と平行して走っている高速道路の高架をくぐって
坂を登ると神蔵寺。
小高い丘のうえに黒松の大木のあるお寺。
住宅地のなかの緑のオアシス。
本堂の横に古いお墓が。
柴田源六のもの、勝家のおじいさんのようです。
神蔵寺は、もともと一色城のあった所。
ここから南へ。目指すは明徳寺。
高速道路を横へ見て。やがて左手に小高い丘が見えてきます。
住宅地のなかに、昔ながらの大きな家が現れます。
表札を見ると「柴田」さん。
注意してみると、あちらこちらに「柴田」さんが・・・
ちょっと急な坂を犬に吠えられながら登ると明徳寺。
ここは、下社城(しもやしろじょう)の跡。
柴田勝家が生まれた城です。
丘陵地の端にあたり、西南にむかって開けており、
城をつくるには絶好の場所です。
西を流れる植田川を天然の堀とし、
内側を一重堀で囲まれた方形のお城であったと伝わっています。
城といっても、天守閣はなく、館があったくらいでしょうか?
ここでお昼。コンビニで買ったお弁当を。
南には、新興住宅地が春霞のなかにひろがっていました。
戦国の世を渡り来る春の風
勝家は当初、織田信長ではなく、弟の信勝に使えていました。
しかし稲生ヶ原の合戦で、信勝が敗れてからは
信長に仕える様になりました。
その後、越前(福井県)北ノ庄城主となりましたが、
信長が本能寺で討たれた後、羽柴秀吉との争いに敗れて討ち死に。
勝家の辞世の歌
夏の夜の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山ほととぎす
お市の方の辞世の歌
さらぬだに うちぬる程も 夏の夜の わかれを誘う ほととぎすかな
おしどり夫婦だったんですね。
帰路は、北へ。
500年の時空から一気に現代に。
ところどころに畑の残ってる新興住宅地のなかを歩き、
地下鉄の上社駅へ。
半日のウォーキングでした。