575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

「豊田市 民芸の森 」で 〜 本多静雄と猿投窯 〜 竹中敬一

2019年08月31日 | Weblog




写真は愛知県豊田市平戸橋の 「 豊田市 民芸の森 」に展示されている

パネルより 。「 陶器と櫻を観る会 」で古陶器を説明する本多静雄氏 。



本多静雄の自叙伝 「青隹 ( せいすい )自伝 によりますと、昭和17年、45歳の時、

内閣技術院第一部長に就任しますが、翌年に退官、郷里の豊田市花本に引き上げます。

その頃、電力王と言われ、茶人としても知られる松永安左エ門と民芸運動の提唱者 、

柳 宗悦に出会ったことが、本多静雄の生き方に影響を与えたようです。

更に、陶芸家の加藤唐九郎が瀬戸から一時、本多静雄氏の家のすぐ近くに疎開して

きて、知り合うようになって、陶器に興味をいだくようになりました。

唐九郎とは昭和18年に平戸橋に窯を築いた頃から知り合うようになったようです。

昭和25年、唐九郎から、灰釉 ( はいゆう )がかかった陽刻蓮弁文花瓶 を入手した

という。


ちょっと、この話 に入る前に、横道へ。

昭和35年 ( 1960 )に発覚した「 永仁 ( えいにん ) の壺 」 事件のことを知っている

人は今では少ないと思います。

国の重要文化財に指定されていた永仁期 ( 鎌倉時代後期 ) の壺が、加藤唐九郎の贋作

だったというので、世間を騒がせた事件のことです。

私は昭和50年代、テレビ番組 「 素晴らしき仲間 」のプロデューサーをしていた時、

加藤唐九郎には五木寛之氏との対談で出演してもらったことがありますが、

「 永仁の壺 」事件が起きた頃、報道部に居たものの 、この事件を取材した覚えは

ありません。

ただ、昭和43年 、この事件に刺激されてカメラルポルタージュというテレビ番組で

「 ホンモノ ニセモノ 」と題する作品を制作しました。

井伏鱒二の 「 珍品堂主人 」のモデルとなった骨董品鑑定士、秦秀雄氏にインタビュー

したり、黄瀬戸や瀬戸黒のニセモノを公然と作っている陶芸家を紹介したりしました。

また、番組を作るに当たって、瀬戸市の古陶器研究家、菊田清年氏から陶器について、

初歩的なことを教えてもらったことを思い出します。

菊田氏はとにかく古瀬戸のことには詳しく、「 永仁の壺 」についても、昭和34年、

国の重要文化財に指定された当初から疑問を投げかけていました。

陶磁器の世界では、常識になっている用語をテレビでどうわかりやすく伝えるか、

苦労したものです。

例えば、先ほどの 「 陽刻蓮弁文花瓶 ( ようこくれんべんもんかびん ) 」。

文字にすると、なんとなくわかりますが、ナレーションにするのは、「 ハスの花弁を

浮き彫りにした文様のある花ビン 」とでもしないことには、伝わらないと思います。

それでは 「 灰釉 」 をどう伝えるか。

「 木々を焼いて出る灰の粉を水に溶かして、素焼きの陶器にかける溶液 」

これでも、陶器に詳しい人なら、「 光沢を出すためのガラス質のもの 」という

説明が足りないと言うでしょう。

こんな説明を長々としていたら、本筋からどんどん離れてしまいます。



次回は本筋つまり本多静雄氏がどうして猿投窯を発見したかに戻します。
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石畳胡弓染み入る風の盆  能登

2019年08月30日 | Weblog

芭蕉を彷彿とさせる句。
しかし、胡弓の音とおわら風の盆の旋律。
異文化ともいえる音の組み合わせが絶妙、と殿様。

越中八尾の民謡行事。おわら風の盆。
そこに中国の楽器である胡弓が加わり、
哀愁を帯びた独特の旋律になったとの事。
いつか、生のおわら盆を楽しみたいと夢見ていますと、紅さん。

おわら風の盆は、富山県富山市八尾地区で、
9月1日から3日にかけて行われることになっています。
名古屋で踊りは見たことがありますが、現地で見たことはありません。
生きているうちに一度、石畳の町で見たいですね。(遅足)
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ブラレイコ  高遠城跡編  麗

2019年08月29日 | Weblog
先日、ちょっと足を伸ばして伊那市の高遠までドライヴ。
春には城址公園内の1500本を超える「タカトウコヒガンザクラ」というちょっと赤みのある桜が咲き誇り、多くの観光客でにぎわいます。(写真は桜雲橋。ここが撮影ポイントです。)
亡き朱露さんが「高遠はいい!」と絶賛されていて一度訪れてみたいと思っていました。

夏の高遠。城址公園はとても空いていておりただ蝉時雨が聞こえるだけ。どこまでも勢いよく桜の葉が生い茂り、木陰はとても涼しいです。
高遠の歴史は古く、南北朝の頃に諏訪高遠氏が治めていました。そして武田、保科、鳥居、内藤という歴代の城主が治め数々の戦いの舞台となったお城です。
江戸時代。2代将軍秀忠の側室の子が、高遠城主の養子に入りました。それが保科正之です。将軍の子であることも自慢せず、その後、家光に認められ、生涯江戸幕府のために働いたそうです。
明治維新で高遠城は廃城になり建造物は何も残っていませんが、明治8年に旧藩士らの手によって桜が移植され、多くの人々が集う「高遠公園」となり現在は見事な桜の名所になっています。

建物が何も残っていないというのが、かえってはかなさを感じさせ、それが桜とあいまって日本人の心に響くのでしょう。晩夏の蝉の鳴き声もまた心に染みました。

            もののふの戦いのあと蝉時雨  麗
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艶姿<あですがた>ほおずき市の売り口上  殿

2019年08月28日 | Weblog

キリッとした粋な江戸らしさが効いていると思います、と紅さん。

夏の浅草寺の7月の参拝。
9日と10日は四万<しまん>六千回参拝したのと同じ功徳。
計算すると126年。つまり一生分。
ところで、この参拝日には「ほおずきの市」が立ちます。
この市の売り子。
若い女性が多いのも人気の秘密。
股引に腹掛け。濃い藍色でまとめた江戸前姿。
黒髪をきりりと結び。そして滑舌のよい売り口上。
まさに、江戸情緒ここにありといった感と、殿様の注釈。

7月といえば雨の季節。こんな句も。

  鬼灯市雨あをあをと通りけり  永方裕子

雨の鬼灯市も良いものでしょうね。遅足
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『ピカドン』のスペイン語訳夾竹桃  千香子

2019年08月27日 | Weblog

知人の広島出身者で、夾竹桃が大嫌いという人がいました。
原爆投下の直後、被爆地には夾竹桃が赤赤と咲いたそうです、と結宇さん。

丸木位里・俊夫妻は8月6日の原爆投下の直後、位里の実家のあった広島へ。
その惨状を目撃して制作した『原爆の図』は有名です。
同じころに依頼を受け制作したのがこの絵本。

広島市郊外に住む「おばあさん」(モデルは位里の母)とその家族、
近所の人々の被爆体験を描いたもので、ごく短い詞書きが添えられています。

無人の焼け野原の絵に添えられた詞書は
「爆心地の話をつたえてくれる人は、いません」。

「「オイツ」と肩をたたいたら、ざらざらと戦友はくづれおちました」という
「灰の人」のエピソード。

作者によれば、丸木位里夫妻が最初に書いたのは1950年で、その時は発刊禁止に。
1975年に英訳付きで、ロバのみみ社から、1998年にはスペイン語訳もつけて
出版されたとそうです。

忘れてはならない記憶です。夾竹桃の強い生命力。それに負けないように。(遅足)
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「 豊田市 民芸の森 」で 〜 本多静雄 〜 竹中敬一

2019年08月26日 | Weblog


愛知県豊田市の矢作川を望む平戸橋にある 「 豊田市民芸の森 」。

ここは 、実業家で古陶磁研究家の本多静雄氏が住んでいた屋敷跡。

平成5年にこの地を豊田市に寄贈、平成28年から一般公開されています。

私も時々 、訪れていますが、クヌギ林の森に田舎家や茶室などが点在していて、

散策していると、小鳥のさえずりも聞こえる閑静なところです。





ここの事務所に本多静雄氏の著作集が置かれていて、貸し出しはされていない

ものの、手にとって読むことはできるため、100円コーヒーを頂きながら、ゆっくり

読書を楽しませてもらえます。

とても、全巻は無理ですが、本多静雄氏の自叙伝 「 青隹 ( せいすい ) 自伝 」 全3巻

とエッセイ集 「 民芸 彷徨 」を読んでいます。

これらの書物をもといに、その人物像、猿投窯との出会いをお伝えしたいと思います。




写真は「豊田市民芸の森 」に展示されている晩年の本多静雄氏と自筆の書


本多静雄氏は明治31年 ( 1898 )、愛知県西加茂郡上郷村花本 ( 豊田市花本町 ) の本多家

で松三郎の次男として生まれました。

「 兄はこの土地の人々からたくさんの投票を頂いた本多鋼治であり、弟は文芸評論家

という金にならない仕事を一生やっている本多秋五で、外に義雄と はな がいて、五人

兄弟であります。」( 「 民芸彷徨 」1990年 矢作新報社 」

長男の本多鋼治 ( 1893〜1964 ) は 愛知県会議員、衆議院議員を務めた。

次男の本多静雄は京都大学工学部電気工学科、弟の本多秋五 ( 1908〜2001 ) は

東京大学文学部にそれぞれ進学しています。

秋五は在学中、マルクス主義に近づきます。兄、静雄の自伝より

「 弟はプロレタリア科学同盟の運動に参加していたので、昭和8年に大塚警察署、後に

富坂警察署に留置されたが、監視付きで一応 釈放されたので花本へ帰った。その翌年

は、挙母( 豊田市街 )で かき氷屋をやり、土地の若い人々の人気を博した … 」

静雄は京大卒業後、当時の逓信省に入り、技師として出世の道を歩む。

兄がドイツ留学中、逓信省の知人らの斡旋で秋五は昭和11年、逓信省に就職する。

しかし、「 次第に戦争が苛烈になってくると、秋五は、自分の一生の仕事としていた

トルストイの " 戦争と平和 " の評論が未完成だったので、このままだと、いつ死ぬかも

知れぬが、それでは死んでも死にきれないと言い出して、周囲の人々の止めるのを振り

切って16年正月、逓信省を辞職してしまった。」

昭和20年、召集されるが、間もなく終戦。その後、本多秋五は仲間と日本の文学史に

残る同人雑誌 「 近代文学 」を立ち上げます。

私たちの世代なら、戦後の文芸批評をリードした雑誌「 近代文学 」の同人として本多

秋五や平野謙、荒正人らの名前くらいは知っている人は多いと思います。


本多静雄は自伝の最初の方で弟のことを「 金にもならない文芸評論家 」と言っていますが、

自伝をよく読んでみると、何くれとなく陰で援助していることがわかります。

静雄は早くから秋五らの文芸活動に共鳴し、資金集めに奔走。この運動のためなら、

平戸橋の新居を売り払ってでも後援する覚悟だとも書いています。


ついつい、本多兄弟の話になってしまいましたが、次回からは本多静雄と猿投窯について

お伝えします。
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8月句会の結果です。   遅足

2019年08月23日 | Weblog
題詠は鬼灯でした。お墓参りにいくとみられるもの。
そんな印象が強い花?ですが、日本人の心に深く刻み込まれた遺伝子のようなものが感じられます。
ごらんのような結果となりました。


題詠

①鬼灯を鳴らす昭和の三姉妹(麗子)狗子・静荷
②艶姿<あですがた>ほおずき市の売り口上(殿)紅
③夕地蔵鬼灯一つ足元に(等)結宇・幸泉・佐保子・紅・すみ・遅足・麗子・晴代・狗子・郁子
④一本の赤鬼灯や招き猫(竹葉)
⑤鬼灯や「泣いた赤鬼」読み語り(千香子)
⑥鬼灯が故郷の道赤しるべ(幸泉)
⑦ほおずきの淡き記憶や笛の音(紅)殿・晴代
⑧鬼灯に死者と生者の集いける(能登)竹葉・幸泉・すみ・麗子・等・千香子・亜子
⑨消えし浜海ほおずきを吹きし日よ(晴代)竹葉・佐保子・遅足・亜子
⑩鬼灯を母の少女が鳴らしけり(郁子)殿・結宇・能登・すみ・遅足・静荷・亜子
⑪墓並ぶ乾く鬼灯実を揺らす(すみ)竹葉・狗子
⑫鬼灯の案内(アナイ)で辿る墓参かな(結宇)
⑬酸漿やただ鳴らしゐて人恋し(亜子)能登・晴代・千香子・静荷・郁子
⑭ほおづきやはじめて母につきし嘘(遅足)殿・能登・佐保子・紅・麗子・等
⑮ほほづきの白花ひとつ也有園(佐保子)千香子
⑯淋しさに酸漿鳴らせし幼なの日(静荷)幸泉
⑰ほほづきの含む子どもの片笑くぼ(狗子)結宇・等・郁子


自由題

①『ピカドン』のスペイン語訳夾竹桃(千香子)結宇・佐保子・遅足
②大声で負けじと叫ぶ蝉と僕(幸泉)すみ・等・静荷
③雷一閃覆されし師の所説(結宇)竹葉・晴代・郁子
④石畳胡弓染み入る風の盆(能登)殿・紅・千香子・亜子
⑤残業は是か非かを問ふ夜の蝉(郁子)すみ・等
⑥かなぶんやなかなか終えぬ町内会(晴代)竹葉・幸泉・すみ・麗子・千香子・郁子
⑦渋滞の心鎮めし遠花火(紅)殿・能登・幸泉・麗子・晴代・狗子
⑧月明り虫食い薄さやさやと(竹葉)
⑨木下闇地蔵の帽子漂へり(等)静荷
⑩日没偈<にちぼつげ>聴きいる栗鼠や長谷の夏(殿)結宇・佐保子・紅
⑪新涼や土偶の足のたくましき(麗子)結宇・能登・遅足・晴代
⑫晩夏光球児は砂を搔き集め(静荷)竹葉・佐保子・狗子・亜子
⑬月光を飲めば眠れぬ夜となりぬ(遅足)麗子・狗子・等・亜子・郁子
⑭町の尾根あゆめばきこゆ盆踊(佐保子)遅足
⑮波に聴く今際(いまわ)のことば敗戦日(亜子)千香子
⑯昼寝して西日に参る休日や(すみ)幸泉・静荷
⑰秋暑しラインに五文字さようなら(狗子)殿・能登・紅

次回は9月18日(水)午後1時20分 愛知芸文センター
題詠は「風の色」「秋風」です。



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ほおずき句会   麗

2019年08月22日 | Weblog

お盆も終わりましたが、まだまだ暑い名古屋。それでも皆様お元気に句会に参加出来ました。
今月のお題は「鬼灯」。この漢字は似合わないとあえて「酸漿」という漢字を選んだ方や、ひらがなの方がしっくり来るという方も。
等さんが英語ではほおずきを「a Chinese lantern plant」と言うと教えて下さり、中国から来た植物で「lantern」
つまり灯りという字に納得しました。
お盆やお墓参りに欠かせないほおずき。口に含んで鳴らす「ほおずき笛」はやはり女性陣の思い出の中に多くありました。
それでは一言講評です。


題詠「鬼灯」

①鬼灯を鳴らす昭和の三姉妹

昭和一桁の母は三姉妹。幼き日、三人でほおずき笛を作っていた昭和の1シーンを詠みました。ほおずき三つが仲良く並んでいる姿も思い浮かべて作りました。

②艶姿<あですがた>ほおずき市の売り口上

江戸情緒あふれる一句。浅草寺のほおずき市。一度行ってみたいものです。ちなみにほおずき市は夏の季語だそうです。

③夕地蔵鬼灯一つ足元に

見事トップ賞に輝いた映像がはっきり見える一句。赤みを帯びた夕地蔵とその足元に置かれた一つの鬼灯。日泰寺の裏で目にした実景だそうです。

④一本の赤鬼灯や招き猫

鬼灯は赤いので赤はもったいないという声がありました。招き猫から東京の豪徳寺の景かと思いましたが、作者の言葉。「お兄さんの新盆だという友人を訪ねた時の様子。玄関に鮮やかな色の鬼灯が一本だけ飾ってあったのですが、亡くなった人も生きてる人も招き寄せる感じがしたので、招き猫として詠んだそうです。」


⑤鬼灯や「泣いた赤鬼」読み語り

お盆にお孫さんに読み聞かせた「泣いた赤鬼」鬼灯の赤色と鬼という字が合わせ技ですが、作者の思いがやや伝わらず。

⑥鬼灯が故郷の道赤しるべ

道しるべを敢えて赤しるべとされたようです。点々と赤い道が出来ているようです。

⑦ほおずきの淡き記憶や笛の音

「淡き」にもう一工夫という声がありました。「笛の音」は「笛のね」と読みたいところ。そうすると字足らずに。。。

⑧鬼灯に死者と生者の集いける

④と同じことを詠んでいるのですが、こちらの方がストレートに胸に落ちました。納得の一句。

⑨消えし浜海ほおずきを吹きし日よ

「ほおずき」という題で「海ほうずき」を詠んでいいものか?という疑問を投げかけた方も。私は海ほおずきを見たことも吹いたこともないのですが、美しかった浜が消えてしまったことを作者は嘆いておられました。

⑩鬼灯を母の少女が鳴らしけり

中七の「母の少女」が秀逸。皆の心をわしづかみ!

⑪墓並ぶ乾く鬼灯実を揺らす

ちょっと怖い一句。動詞が三つは多いので「乾く」を何か違う言葉にしては?

⑫鬼灯の案内(アナイ)で辿る墓参かな

お墓にほおずきはつきものですね。死者が案内しているととった方も。

⑬酸漿やただ鳴らしゐて人恋し

ちょっと淋しい手持ち無沙汰の一時。誰かを恋しく思い、酸漿をただ鳴らしています。旧仮名遣いの「ゐて」がいいですね。

⑭ほおづきやはじめて母につきし嘘

ほおずきと嘘。見事な二句一章です。後ろめたいかすかな心の痛みと赤が似合います。これを「妻につきし嘘」にするとどんな花が似合うかで盛り上がりました。「チューリップはじめて妻につきし嘘」(笑)

⑮ほほづきの白花ひとつ也有園

東山植物園の中にある也有園。尾張藩士横井也有を知らないと採れない一句。俳人でもありました。ほおずきの花は白いのですね。


⑯淋しさに酸漿鳴らせし幼なの日

子供の頃の思い出を詠まれました。なんとなく淋しい時、酸漿を鳴らしてみました。あの音が一段と淋しさを。

⑰ほほづきの含む子どもの片笑くぼ

ほおずきを鳴らせない少年。ほおずきを鳴らしていた少女のほっぺに片えくぼがありました。初恋の少女?

いかがでしたでしょうか?ある俳句の本に「過去は詠まないこと」とありましたが、どうしても年齢とともに過去の思い出に引きずられるし、それで共感を得られればいいのでは?と私は思います。
懐かしい音や人の会話が聞こえて来た「ほおずき」句会でした。

次回は9月18日(水)午後1時20分 愛知芸文センター会議室D
題詠は「風の色」「秋風」です。
少しは秋風も気持ちいい頃でしょうか?どんな風が吹くでしょうか?

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8月句会の投句が集まりました。  遅足

2019年08月21日 | Weblog
今回の題詠は「鬼灯」です。ごらんのような句が色を競っています。
どの句が一番光を集めるのでしょうか。


題詠「鬼灯」

①鬼灯を鳴らす昭和の三姉妹
②艶姿<あですがた>ほおずき市の売り口上
③夕地蔵鬼灯一つ足元に
④一本の赤鬼灯や招き猫
⑤鬼灯や「泣いた赤鬼」読み語り
⑥鬼灯が故郷の道赤しるべ
⑦ほおずきの淡き記憶や笛の音
⑧鬼灯に死者と生者の集いける
⑨消えし浜海ほおずきを吹きし日よ
⑩鬼灯を母の少女が鳴らしけり
⑪墓並ぶ乾く鬼灯実を揺らす
⑫鬼灯の案内(アナイ)で辿る墓参かな
⑬酸漿やただ鳴らしゐて人恋し
⑭ほおづきやはじめて母につきし嘘
⑮ほほづきの白花ひとつ也有園
⑯淋しさに酸漿鳴らせし幼なの日
⑰ほほづきの含む子どもの片笑くぼ


自由題

①「ピカドン」のスペイン語訳夾竹桃
②大声で負けじと叫ぶ蝉と僕
③雷一閃覆されし師の所説
④石畳胡弓染み入る風の盆
⑤残業は是か非かを問ふ夜の蝉
⑥かなぶんやなかなか終えぬ町内会
⑦渋滞の心鎮めし遠花火
⑧月明り虫食い薄さやさやと
⑨木下闇地蔵の帽子漂へり
⑩日没偈<にちぼつげ>聴きいる栗鼠や長谷の夏
⑪新涼や土偶の足のたくましき
⑫晩夏光球児は砂を搔き集め
⑬月光を飲めば眠れぬ夜となりぬ
⑭町の尾根あゆめばきこゆ盆踊
⑮波に聴く今際(いまわ)のことば敗戦日
⑯昼寝して西日に参る休日や
⑰秋暑しラインに五文字さようなら



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美を競うフルーツトマトより甘く  遅足

2019年08月20日 | Weblog

梨・柿などの果物はずいぶん甘くなりました。
梨の「二十世紀」初めて食べた時は甘いと感激。
しかし21世紀になって姿を消しました。
一度食べてみましたが酸っぱく感じました。
トマトもきっと甘くなっているに違いありません。

できるだけ水を与えないで栽培すると、
濃くて甘いものができると言います。
「水ストレスを与える」といっているそうです。
けれども、ストレスを与えればするほど、
トマトの木は大きく育たず、
収穫できるトマトの数も減っていきます。

逆に、水をたっぷり与えて育てると、
トマトの木は大きく育ち、花芽もたくさんつきますが、
水っぽい味の薄いトマトができてしまいます。

味が濃くて甘い、とびきり美味しいトマトを作りたい。
そしてそれをできるだけ数多く収穫したい。
人工知能の力を借りて、トマト農家の挑戦が続いています。

どこまで行くのでしょう?  遅足

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夏みかん目から青春ほとばしる 狗子

2019年08月19日 | Weblog
夏みかんは初夏の季語です。
剥くと、飛沫とともに独特の甘酸っぱい香り。目から涙が。
作者は、目から涙ではなく、青春がほとばしると。

劇画のような一句です。
言葉でなくては言い表せない世界。
荒唐無稽ですが、妙に説得力があります。
「青春」には常識をはみ出すパワーがあるからでしょうか。

夏みかんといえば山口県の萩を思い出します。
武家屋敷の跡地に夏みかんが栽培されていました。
家禄を失った武士の新しい収入源だったとか。

五月に、白い五弁花が咲き、晩秋にだいだい色の実が。
そのまま採らずに翌年の初夏までおくと、
樹上で熟し酸味が抜けて食べやすくなるそうです.

この句。

  夏みかん酸っぱしいまさら純潔など  鈴木しづ子

なぜか記憶に残っています。遅足
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ミニトマトほうばるほほの愛らしさ  幸泉

2019年08月18日 | Weblog

可愛らしい句ですね。
この句に一票も入らないのは何故なのか?
そんな声もありました。

芭蕉の門弟、基角の句。

  下臥(したぶし)につかみ分けばやいとざくら

去来は「糸桜の咲き誇った様子を言い尽くしたもの」と
髙く評価しました。
ところは、芭蕉は反対でした。
「ものごと言い尽くしてしまっては何が残ろう」と。

芭蕉は、十七音の世界に無限の広がりを求めました。
そのためには言い尽くさないこと。
読者が想像力を働かせる余地を残すことを心がけたそうです。

この句の下五「愛らしさ」
言い尽くしてしまっていないでしょうか?  遅足

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宅地化で跡かたもなし猿投窯 ( さなげよう ) 竹中敬一

2019年08月17日 | Weblog



猿投山 ( 標高629m )遠望

愛知県豊田市の北西部に位置しています 。



私が現在、住んでいるところは、愛知県日進市。昭和40年代、ところどころに溜池や

灌木のある荒地を開発して建てられた分譲住宅に入居。途中、東京へ転勤などもあって 、

この土地のことはずっと無関心でいました。


猿投窯 を知ったのも、最近になってからのことです。

猿投 ( さなげ )というのは、尾張北端にそびえる標高629mの猿投山 ( さなげやま )

からとったもの。名古屋市内から東を望むと、低い里山は幾つかあるものの、目ぼしい

山はとなると猿投山ということになります。

私は初めて猿投窯と聞いて、てっきり、陶器を焼いた窯跡がこの山の近くにあるものと

思っていましたが、猿投山の西南方向に広がる広範囲の丘陵地帯に古い窯跡が沢山、

あったことがわかったというのです。

つまり名古屋市東部の東山から日進市、長久手市、東郷町、みよし市、豊田市、刈谷市、

大府市、豊明市、瀬戸市、 尾張旭市にまたがっているのです。

最近、我が家の近くの宅地造成地でもこの猿投窯跡が見つかったというので、早速、

行ってみましたが、残念ながら跡かたもありませんでした。


古墳時代から室町時代初期にかけて1000基を超える窯跡が見つかっているそうです。

愛知県陶磁美術館 ( 瀬戸市 )へ行けば、年代順に猿投窯で焼かれた陶器を見ることが

出来ます。

また、みよし市立歴史民俗資料館では、黒笹地区で見つかった平安時代の窯の復元模型

( トンネル状のアナ窯 )や、灰釉 (雑木を燃やした灰を水に溶かして素焼きに塗って焼く )

などもわかりやすく紹介されています。

また、日進市香具山 ( かぐやま ) には、平安時代初期のアナ窯が天井部を除いて、ほぼ

完全な状態で現存しており、一般公開されていて、私も見学したことがあります。

( 今は日進市役所へ予約が必要のようです )





愛知県日進市香久山の新興住宅地にぽっんと残る猿投窯の遺構 。

長さ7、9m 巾 2、0 m 。天井部を除いて平安時代初期のアナ窯が

ほぼ完全な状態で残されています 。


猿投窯が発見されたのは、そんなに古いことではないのです。

猿投窯は昭和29年 ( 1954 )、猿投山の近くの村がご出身の実業家、本田静雄 (1898〜

1999 ) によって初めて発見されたというのです。

私は古い窯跡から出土した陶器の数々もさることながら、実業家である本田静雄氏が

どうして、古い陶器に興味をいだき、ついに猿投窯の発見に至ったのか、知りたく

なりました。

本田静雄氏は生家の近くの平戸橋に昭和21年に居を構え ました。

平成11年 、102歳で亡くなるまで住まわれた屋敷跡が今は 「 豊田市民芸の森 」として、

平成28年から一般公開されています。

ここへ行けば、本田氏が書き残した自伝や随筆も読むことができるので、このところ

時々、訪れています。

次回はこれらの資料をもとに本田静雄氏と猿投窯についてお伝えします。


尚、猿投窯については、愛知県陶磁美術館 発行の「 知られざる古代の名陶 - 猿投窯

( さなげよう ) 」を参考にしました。   つづく

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シャワー浴ぶ排水口の呻き声  すみ

2019年08月16日 | Weblog

シャワーを勢いよく浴びると排水口から音が。
何もかも飲み込むような音です、と作者。

ありますね。排水口から呻き声が聞こえることが。
大地の底から聞こえてくるようで不気味です。
普段は意識することもない地底の世界。
子供の頃、地底世界の冒険物語を読みました。
得体の知れない魔物が潜んでいるのかも・・・。
わくわくしながら読んだ記憶があります。
 
「シャワー」は季語でしょうか?
私の持っている歳時記には載っていませんが、
ネットで調べると季語とするところもあります。
積極的に新しい季語に挑戦する心意気。
良いですね。

            

台風10号は日本海を北へ。
台風一過、晴天とはいかず、まだ雨が降っています。
8月15日に日本に上陸した台風。
まるでこの日を狙っていたかのようです。
あの戦争の際、南方で亡くなった多数の方々。
なお慰霊されない霊魂が大挙して帰ってきたのでは?と。
そんなことを思わせる名残りの雨です。(遅足)
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お盆台風   麗

2019年08月15日 | Weblog
台風10号の影響で落ち着かないお盆となってしまいました。皆様いかがお過ごしでしょうか?
大阪の実家では13日に両親が一泊で施設から戻り、兄一家と共にお迎え火を焚いたそうです。
私も今日大阪に帰ろうかと思っていたのですが、台風の影響で取りやめました。今日は終戦の日でもあるし、平和を祈り心静かに過ごそうと思っています。

さきほど、父が71歳の時にそれまでの人生を振り返った回顧録のような手記を読み返してみました。17歳の時の敗戦の頃のことが多く書かれていました。
昭和20年6月15日の午前中の大阪大空襲のことが一番つらかったようです。防空壕に逃げる時に焼夷弾が頭をかすめ接触、たまたま鉄帽をかぶっていたので少しへこんだものの九死に一生を得たこと。火の海の中、祖父はふとんを、父はラジオだけもって逃げたそうですが、火の勢いがすさまじく再び室内にはもどれず、家は全焼となってしまいました。それから親戚の家に身を寄せ10年後やっと自分たちの家を持てた時、唯一焼け残った灯籠を持って来たそうです。
父は毎年6月15日と終戦記念日にはその灯籠に灯りを灯していました。

今年は灯籠の灯も、お送り火も焚けなかったけれど、ご先祖さまも台風の風に乗ってお帰りになるでしょう。
多くの尊い命を奪った戦争が二度と起こらないように祈りを捧げたいと思います。

         仏壇にほおずきの火灯しおり  麗
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