写真は愛知県豊田市平戸橋の 「 豊田市 民芸の森 」に展示されている
パネルより 。「 陶器と櫻を観る会 」で古陶器を説明する本多静雄氏 。
本多静雄の自叙伝 「青隹 ( せいすい )自伝 によりますと、昭和17年、45歳の時、
内閣技術院第一部長に就任しますが、翌年に退官、郷里の豊田市花本に引き上げます。
その頃、電力王と言われ、茶人としても知られる松永安左エ門と民芸運動の提唱者 、
柳 宗悦に出会ったことが、本多静雄の生き方に影響を与えたようです。
更に、陶芸家の加藤唐九郎が瀬戸から一時、本多静雄氏の家のすぐ近くに疎開して
きて、知り合うようになって、陶器に興味をいだくようになりました。
唐九郎とは昭和18年に平戸橋に窯を築いた頃から知り合うようになったようです。
昭和25年、唐九郎から、灰釉 ( はいゆう )がかかった陽刻蓮弁文花瓶 を入手した
という。
ちょっと、この話 に入る前に、横道へ。
昭和35年 ( 1960 )に発覚した「 永仁 ( えいにん ) の壺 」 事件のことを知っている
人は今では少ないと思います。
国の重要文化財に指定されていた永仁期 ( 鎌倉時代後期 ) の壺が、加藤唐九郎の贋作
だったというので、世間を騒がせた事件のことです。
私は昭和50年代、テレビ番組 「 素晴らしき仲間 」のプロデューサーをしていた時、
加藤唐九郎には五木寛之氏との対談で出演してもらったことがありますが、
「 永仁の壺 」事件が起きた頃、報道部に居たものの 、この事件を取材した覚えは
ありません。
ただ、昭和43年 、この事件に刺激されてカメラルポルタージュというテレビ番組で
「 ホンモノ ニセモノ 」と題する作品を制作しました。
井伏鱒二の 「 珍品堂主人 」のモデルとなった骨董品鑑定士、秦秀雄氏にインタビュー
したり、黄瀬戸や瀬戸黒のニセモノを公然と作っている陶芸家を紹介したりしました。
また、番組を作るに当たって、瀬戸市の古陶器研究家、菊田清年氏から陶器について、
初歩的なことを教えてもらったことを思い出します。
菊田氏はとにかく古瀬戸のことには詳しく、「 永仁の壺 」についても、昭和34年、
国の重要文化財に指定された当初から疑問を投げかけていました。
陶磁器の世界では、常識になっている用語をテレビでどうわかりやすく伝えるか、
苦労したものです。
例えば、先ほどの 「 陽刻蓮弁文花瓶 ( ようこくれんべんもんかびん ) 」。
文字にすると、なんとなくわかりますが、ナレーションにするのは、「 ハスの花弁を
浮き彫りにした文様のある花ビン 」とでもしないことには、伝わらないと思います。
それでは 「 灰釉 」 をどう伝えるか。
「 木々を焼いて出る灰の粉を水に溶かして、素焼きの陶器にかける溶液 」
これでも、陶器に詳しい人なら、「 光沢を出すためのガラス質のもの 」という
説明が足りないと言うでしょう。
こんな説明を長々としていたら、本筋からどんどん離れてしまいます。
次回は本筋つまり本多静雄氏がどうして猿投窯を発見したかに戻します。