若狭の国 松永庄新八幡宮にあつた「彦火火出見尊絵」(ひこほほでみこと)
など三種類の絵巻物はその後、どうなったのか。
室町時代末期、貞成(さだふさ)親王の日記の中に出てきてから、200年余り
過ぎた江戸時代になって、文献上に登場します。
若狭 小浜藩の藩医が著した「若狭郡県志」の中に、「彦火火出見尊絵」と
「吉備大臣入唐絵巻」が、いつの間にか、新八幡宮から同じ松永地区にある
明通寺に移されていることが記されています。
ところが、「伴大納言絵巻」だけは、どういうわけか、明通寺ではなく、
どこの社寺かわかりませんが、「遠敷」(おにゅう)の地にあり、それを
若狭藩主、酒井忠勝(さかい ただかつ)に献上していることが、酒井家に
伝わる文書によって、知ることができます。
もしかして、「伴大納言絵巻」だけは、松永庄新八幡宮から消え、誰かの
手によって、明通寺ではなく小浜藩主に献上されたのかもしれません。
その後、三種類の絵巻物は、更に持ち主を変えながら、最終的に「伴大納言
絵巻」は出光美術館に、「吉備大臣入唐絵巻」はアメリカのボストン美術館
に収められています。
海幸山幸神話を題材にした「彦火火出見尊絵巻」は、と云うと。
明通寺にあったこの絵巻物は、小浜藩主、酒井忠勝によって召し上げられ、
徳川家光に献上されました。忠勝は家光からの信頼が厚く、幕府内で老中、
大老という要職に就いて将軍を支え、と同時に小浜藩の基礎を築きました。
家光はしばしば江戸牛込(うしごめ)にあった忠勝の山荘へ御成(おなり)
されたようで、そんな折、忠勝は「彦火火出見尊絵巻」を献上したようです。
この際、忠勝は御用絵師の狩野種泰に命じて、模写本を作らせ、国もとの
明通寺に残しました。
一方、家光に献上した原本の方は明暦の大火(1657)で、江戸城が炎上した際、
失われてしまいました。
若狭彦姫神社と関係の深い海幸山幸の神話を題材に描かれた絵巻物を手離すに
当たり、たとえ模写本とはいえ、国もとに残して後世に伝えようとした
酒井忠勝の見識ある判断がなかったら、「彦火火出見尊絵巻」は、文献上に
残るだけの幻のものになっていたことでしょう。
酒井忠勝は日頃、若狭彦姫神社を深く崇拝していたそうです。
(参照「日本絵巻大成」中央公論社 刊 昭和52年~昭和54年)
次回からは、江戸時代に模写された「彦火火出見尊絵巻」の世界を探訪して
みることにします。模写本とはいえ、精密で巧みな写しを見ていますと、さぞ、
平安時代末期に作られた原本に極めて近いものではないかと、想像してみたく
なるほどです。模写本はもちろん、彩色されていますが、私は稚拙ながら更に
これを模写した鉛筆画を随所に入れてみます。
写真は「日本絵巻大成」(中央公論社)
「彦火火出見尊絵巻」(ヒコホホデミノミコト エマキ)昭和54年 刊
「伴大納言絵詞」(バンダイナゴン エコトバ) 昭和52年 刊
「吉備大臣入唐絵巻」(キビノオトドニットウ エマキ)昭和52年 刊