575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

小原和紙    麗

2017年11月30日 | Weblog
今年最後の紅葉狩りを楽しもうと初めて小原村へ行って来ました。小原村は、今は豊田市に併合されています。
小原村は、紅葉と四季桜の両方が楽しめるところで、11月中は「四季桜まつり」が開催されているのです。

紅葉の赤とちょっとはかなげな四季桜の白のコントラストが美しく晩秋ならではの華やぎを体感することが出来ました。

でも私が一番感動したのは小原和紙展示室で見た美術作品でした。
小原和紙の名前は有名ですが、実際に美術工芸品を見たのは初めてで、本当に色彩豊かで暖かみがあり、凹凸もあり、まるで絵画のような美しさでした。

その小原和紙の発展に貢献したのが、工芸家の藤井達吉でした。藤井は碧南の人ですが、昭和初期に小原の和紙に出会い、産業として発展させようとします。
昭和20年に小原村に疎開したのを機に、工房や窯、紙漉場や住居を建設し、小原を芸術村にしようとしました。そして、村の人々の生活を豊かにするために、小原にしかできない工芸紙を作る必要性を説きました。

「美術は産業の母体として一家、一村、一国の幸福の源になる」と。子や孫のために捨て石になる覚悟を訴えたそうです。
藤井の言葉を信じた若者が、たゆまぬ努力を重ね、小原和紙の基礎を築きました。
今、私たちが美しい作品を見られるのも藤井達吉と小原村の人たちとの僥倖のおかげですね。
四季桜祭りに来た人はぜひ展示館へも訪れて欲しいです。

芸術の秋を堪能した一日。隠れ里のような小原村で和紙工芸にいたく感動した私が夫に
「紙漉きでもやろうかしら?」と言うと
夫「五十肩では無理でしょ!」
私「確かに。。。」もっぱら観賞することにします。

      晩秋の華やぎ隠れ里にあり   麗
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石火光中

2017年11月28日 | Weblog
日進のエッセイの会の方たちと知り合う機会がありました。
発足から15年、毎年メンバーさんたちのエッセイを綴った冊子を発行しています。
今回はじめてそのエッセイを読ませていただくというイベントに参加させていただきました。

その冊子のタイトルが
「石火光中」
「火」の字のみが赤色で彩色されています。

石火光中此の身を寄す
白居易の漢詩から引用したと教えていただきました。

石火は石を打ち合わせて飛び散る火花。
人生とはそれほど短いものだということです。

このエッセイ集は、大先輩ともいえる皆さま方の
自分史であったり、日常の気づきや、思いがつづられています。
作者の気持ちに寄り添い、朗読をする作業は
自分をとても豊かにしてくれるように思いました。

人の命は有限で、はかないものではありますが
その時、その人が存在した、
生きたのだという証しが、
この冊子にこめれているように感じました。
メンバーのかたがもう二人亡くなられたと教えていただいたからかもしれません。

俳句や短歌も、その時のその人の思いが投影されていますね。
奇をてらったり、背伸びをする必要はないのかもしれません。

白居易の詩は
そのあとこんなふうに続きます。
だからこそ人生面白おかしく生きるのだ。
大きく口を開けて笑わないものはおバカさんと。。








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晩き秋網戸外さむ手に重き  結宇

2017年11月27日 | Weblog
夏の間、お世話になった網戸。
冬が近づき、片づけようと手をかけました。
思ったより、重く感じました。
晩秋の冷たい空気も手に感じたのでしょうね。

網戸が普及する以前は蚊遣りと蚊帳。
団扇を使って暑さをしのぐ暮し。
浮世絵のような風情がありますが、
網戸や冷房に慣れ切った私達には、
もう戻れそうもありませんね。

日常のなにげない所作に季節の移り変わりを
感じ取った感覚の句です。
              遅足

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晩秋や受けとめきれぬ定めかな   麗子

2017年11月26日 | Weblog
愛する人との別れが近づく時、無常を感じます。
誰でも、人はなぜ死ぬのか?という思いに
とらわれたことがあるはずです。
とくに命の勢いが衰えてゆく秋には・・・

「この世に生れたことは敗北である」
今でも時々思い出す哲学の先生の言葉です。
それでも自ら死を選ぶ人はいません。
自らの力では受け止めきれない大きな働きによって
この世に生をうけ、そして死んでいくいのち。
秋は人を哲学者にするようです。

この句は抽象的なことを表現しているので
季語は具体的なモノのほうが良いかも知れません。

                遅足
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晩秋の吐息集めて古ポスト   郁子

2017年11月25日 | Weblog
古ポスト。あの丸いポストですね。
今はほとんど見ることがありませんが。

電話やメールなど、便利なツールが普及した今も、
昔ながらの手紙が無くなることはありません。
想いを伝えるには、手紙にまさるものはありませんね。

吐息のような便り、とくに物思う秋には。
昔ながらの赤いポストが似合います。
あなたなら、どんな手紙を書きますか?
短歌や俳句は自分にあてて書く便りかも。

ポストの色はアメリカやロシアなどは青色、
ドイツ・フランスなどでは黄色が主流。
アジアではインド・インドネシアをはじめ赤が主流。
イギリスの郵便制度を取り入れたためとのこと。
日本は当初、黒だったそうですが、その後、赤に。

                    遅足

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杉本美術館で思い出したこと ⑷ 〜岸田劉生と雑誌「白樺」〜竹中敬一

2017年11月24日 | Weblog
「白樺」十周年記念号で岸田劉生は次のように回想しています。
「……澤山のゴッホ、セザンヌやゴーガン、マチス等に驚いた。畫も全く、
後期印象派の感化というより模倣に近いほど變った。露骨にゴッホ風な
描き方をしたものだ。」

私の父の書斎には、雑誌「白樺」の一部や劉生の著作集がありました。
「劉生畫集及芸術観」(聚英閣、大正9年)、「初期肉筆浮世絵」(岩波書店、
大正15年)などです。
劉生に関する資料がかなり揃っていたので、私は大学の卒業論文に岸田劉生を
選びました。今から考えれば、劉生の生涯を辿ったに過ぎない内容でしたが、
自分でも多少、評価できるのは、大学の図書館で雑誌「白樺」の創刊号(明治43年)
から廃刊になる大正12年まで、全てに目を通し、劉生ら同時代の画家たちが如何に、
「白樺」から影響を受けたを検証したこと、くらいでしよう。

劉生24歳、長女 麗子が生まれた大正3年(1914) 頃を境に、ゴッホやセザンヌの
影響から脱して、劉生独自の画風を確立していきます。
「寫實の缺如の考察」という考えです。

「作に美術上の最も深い域で寫實を缺除させ、その缺除を寫實以上の深い美によって
埋めればいいのである。ここに美術上の最も深い超現實観が生れるのであって、
クラシックの美は大抵この域に到ってゐる。モナ・リザ等は、この寫實と寫實の缺除
とが、各々極み迄行つてゐるよき一例であると思う。」

劉生は「寫實の缺如」のことを、「内なる美」、深い意味の「装飾」とも云って
います。
劉生のいう「寫實以上の深い美」を表現できるのは、持って生まれた才能、天性の
優れた絵心のある人ということになると思います。
岸田劉生も杉本健吉もこの素質を持っていたと云えるでしょう。

杉本美術館に、文豪、志賀直哉の自筆の原稿が額装されて、常時、展示されています。
杉本は生涯、この原稿を大事にしていたようです。これは、昭和22年、東京銀座の
シバタ画廊、翌年、三越百貨店で杉本健吉の素描展が開かれた際の推薦文です。
志賀直哉は早くから、杉本の絵に対する素質があるのを見抜いていたように思われ
ます。一部、引用します。

「杉本君は日展で賞を貰い、急に世間的に認められ、挿絵に装丁に今は流行児に
なっている。(中略) 杉本君は現在の技量だけでも、日本で稀れな才人と云う事が
出来るが、然し、私の杉本君に望むところはもっと大きい。今のところで止まって
いては通俗作家に終る危険がなしとしない。この危険区域を杉本君が早く出抜ける
努力をされる事を望んでいる。」

この時、杉本健吉は42歳。以後、行き詰まった時にはこの志賀直哉の言葉をバネに
生涯、岸田劉生のいう「内なる美」を求めて、精進し続けたのではないでしょうか。

写真は 岸田劉生著「劉生画集 及 藝術観」(聚英閣)・「初期肉筆浮世絵」(岩波書店)

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お急ぎ下さい。本居宣長展     麗

2017年11月23日 | Weblog
先日、初めて津市にある三重県立美術館を訪れ、
松阪が生んだマルチな学者「本居宣長展」を見て来ました。

1730生まれの本居宣長は、源氏物語や古事記の研究など国学者としての顔は有名ですが、医者としても歌人としても、また日本人の心のあり方や美意識などにも影響を与えた文化人であることがよくわかりました。

展覧会は、膨大な数の自筆原稿や遺愛品であふれています。宣長は本当に字も絵も上手でその几帳面な性格がしっかりものを考える姿勢にもつながったと思いました。
特に17歳の時に描いた「大日本天下四海画図」という地図は本当に見事な大作で、1700年初頭の日本の地名がしっかり書かれており、当時をしのぶことが出来ます。圧巻です。

とにかくメモ魔で全てを記録したいという情熱を持つ宣長ですが、遊び心も満載で薬箱には「久須里婆古」なんて書いてありました。旅を愛し、日本全国に交遊がありうらやましいほどの行動力です。72歳で亡くなるまで精力的に動いた人物でした。故人の勤労に感謝します。

この展覧会は11月26日日曜日までですので、ご興味のある方はぜひどうぞ。
帰りに、片岡温泉アクアイグニスに寄って暖まりました。次回は松阪にある「本居宣長記念館」へも行ってみたいです。
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この花の名前は?   遅足

2017年11月22日 | Weblog
植物園に散歩に行きました。
こんな花をみつけて名札をみると・・・
〇〇〇〇の耳、とありました。
アフリカの動物です。なんでしょうか?

答えはコメント欄に。
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晩秋の飛騨牛うまし火の赤し  等

2017年11月22日 | Weblog
先月中旬、岐阜の福地温泉へ。雨。
新穂高ロープウェイも雲に覆われていたため宿へ。
温泉宿が20軒ほど集まった山間の集落の1軒。
夕方5時を知らせるチィムが・・・

  山里に時報こだまし木の実落つ

夕食は、飛騨牛を囲炉裏の火で焼いて・・・
食べきれないほどでした。
ヘモグロビンの数値が跳ね上がってしまいました。

火の赤し、で美味しさも増すようですね。遅足
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晩秋のバトン引き継ぐ神宮路  立雄

2017年11月21日 | Weblog
名古屋の熱田神宮と伊勢神宮をむすぶ駅伝。
全日本大学駅伝は、箱根駅伝、出雲駅伝とともに
学生三大駅伝のひとつ。今年は27のチームが出場。
神奈川大学が大学駅伝日本一となりました。
駅伝というマラソン競争は日本だけのものとか。
バトンをつなぐという形が合っているのかも。

「晩秋のバトン」と言われると、
引き継がれていくのが移り変わる季節のような錯覚も・・・
神宮路は伊勢路でもいいかも知れません。
地名のもっているイメージが句を豊かにするのでは?

                  遅足
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またも快挙!

2017年11月20日 | Weblog
中日歌壇 島田修三選
遅足さんの歌を見つけました。

  甘藍の重きを両の手にもてば水の地球の自転はじまる

{評}
 甘藍(かんらん)はキャベツのこと。
 この丸い野菜の感触や重量感から地球の自転へと展開する発想に魅かれる
とありました。


素敵ですね。
カンランなんて漢字変換でも容易に出てきません。
初めて知りました。
「水の地球の自転」のフレーズをさらりと詠みこんでしまう遅足さんの
頭の中は深淵な宇宙が広がっているのでしょうね。 



 
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晩秋の残り少なし白髪抜け   能登

2017年11月20日 | Weblog
晩秋。木の葉も散ってさみしい季節。秋は深まり、冬はすぐ隣に。
白くなったわが髪。また一本抜けました。
句の意はそこにあります。
しかし、そこまで言ってしまっては
読者が想像力を働かせる余地がありません。
残り少なし、と言って
後は読者に委ねる手もありますが・・・。

髪といえば、こんな歌をつくってみました。

 サバンナの空にうっすらかかりたる
       筋雲のごとくわが髪はあり  遅足

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目薬の木   遅足

2017年11月19日 | Weblog
名古屋の東山植物園には2つの出入り口があります。
あまり利用されていないのが北口。
地下鉄の星が丘駅から徒歩5分。しかし坂道なので私の脚では10分。
入り口からすぐにトンネル。抜けると紅葉でした。
そこからは西の出入り口に向かって下り坂。
のんびりと紅葉を楽しめます。

写真は目薬の木。
日本にだけ自生する植物で、江戸時代から
樹皮を煎じて目薬として利用されてきました。
紅葉より少し早めに赤くなります。

   お日さまに感謝の色と
       紅葉(もみじ)する目薬の木の一年を思う
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11月句会の最終結果です。

2017年11月18日 | Weblog
句会の結果はご覧のようになりました。
易しそうで難しい季語でした。


題詠「晩秋」

①晩秋の残り少なし白髪抜け(能登)
②晩秋のバトン引き継ぐ神宮路(立雄)すみ・遅足
③晩秋の展覧会やジャコメッテイ(佐保子)遅足
④晩秋の水に落花の記憶あり(遅足)能登・智恵・すみ・亜子
⑤晩秋や満天に聴く星の声(亜子)能登・等・結宇・晴代・静荷・立雄
⑥晩き秋網戸外さむ手に重き(結宇)郁子
⑦晩秋の吐息集めて古ポスト(郁子)佐保子・結宇・晴代・静荷・亜子・麗子・立雄
⑧晩秋や受けとめきれぬ定めかな(麗子)能登・智恵・すみ・郁子
⑨泡立草黄をつくして秋深む(静荷)晴代
⑩晩秋の疎林鋭き鳥の声(晴代)等・遅足・亜子・郁子
⑪晩秋に赤黄駆けるアスファルト(すみ)佐保子・結宇
⑫晩秋やゆるい曲がりの旧街道(狗子)佐保子・等・智恵・静荷・麗子・立雄
⑬晩秋の飛騨牛うまし火の赤し(等)麗子

自由題

①木毎葉毎(きごとはごと)色違ひたる紅葉かな(佐保子)智恵・静荷・亜子・郁子
②一葉(ひとは)落つ反骨の人風となり(亜子)佐保子・能登・すみ・遅足・立雄
③ひとはみなこゑとなりゆくすすきはら(遅足)能登・結宇・晴代・静荷・亜子・郁子・麗子・立雄
④秋の空 耳鼻・眼・歯科の梯子かな(立雄)
⑤秋の朝家族残して露天風呂(すみ)遅足
⑥破蓮の首うなだれて我に似し(能登)智恵・すみ
⑦天地人菊花展前クラス会(結宇)遅足
⑧布団干す俎板を干す秋日和(静荷)佐保子・能登・等・結宇・麗子
⑨木の葉降る古民家カフェで一休み(麗子)佐保子・等・晴代
⑩博愛の口開け朽ちる木守柿(郁子)
⑪山里に時報こだまし木の実落つ(等)結宇・晴代
⑫日短の干すものすぐに影の中(晴代)すみ・静荷・亜子・郁子・麗子・立雄
⑬徘徊の道にあだ花帰り花(狗子)等・智恵

12月は20日(水)午後1時20分 YWCA2階201会議室です。
題詠は「茶の花」です。
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杉本美術館で思い出したこと ⑶ 〜岸田劉生の影響〜竹中敬一

2017年11月17日 | Weblog
このところ、杉本美術館に二回、訪れ、展示作品を見ているうちに、過去に展覧会で
見た絵のあったことを思い出し、その時の図録を探していたところ、2冊、ありました。
「杉本健吉素描集」(朝日新聞 昭和56年)、そして「画業70年のあゆみ 杉本健吉展」
(愛知県美術館 1994)です。

素描集には、「私の素描」と題して、杉本の談話が載っています。
「…私は青年時代から劉生が大好きで、大きな影響を受けている。大正末年、
愛知県立工業学校図案科をでた私は、父に連れられて、京都在住の岸田劉生を訪ねた。
自然主義を標榜して草土社を主宰し、雑誌「白樺」に名をつらねる劉生にあこがれていた。
その頃の劉生は宋元画や初期肉筆浮世絵に凝っていた時代で、堂々たる体躯の前に
絣姿の青年だった私は、雷の前に立ったようで身がすくんだ。…」
結局、杉本健吉は劉生の前で「ひと言も話すことができなくて、入門は許されたものの、
その日持参した作品を見てもらうこともなく、名古屋に帰ってきたのだ。」
(「画業70年のあゆみ」より)

杉本は名古屋で広告スタジオに勤めた後、図案家として独立。観光関係のポスターで
知られるようになる一方、京都から鎌倉に移った劉生のもとに通って洋画の指導を
うけています。
岸田劉生と杉本健吉に共通するのは、生来、絵が好きで好きで素晴らしい絵心を
持っていたこと。
洋画家であると同時に、今でいうイラストレーター、グラフイックデザイナーでも
あったという事です。
杉本健吉は吉川英治の「新・平家物語」の挿絵など、岸田劉生は雑誌「白樺」など
の装丁画でも優れた作品を残しています。

武者小路実篤、志賀直哉らによって明治43年 (1910)に創刊された雑誌「白樺」は
当時の若者に大きな影響を与えました。私の父が持つていた雑誌「白樺」が、一冊
私の手元にあります。大正13年1月号、表紙の装丁は岸田劉生です。
この号は、セザンヌの特集で、巻頭に原色版として人物像の複製が一枚、載っています。
また、静物画や風景画、人物の素描画が白黒で7枚紹介されています。

岸田劉生ら画家を目指す当時の若者が、この雑誌「白樺」で紹介されるセザンヌや
ゴッホらの作品の複製を初めて目にして、如何にシヨックを受けたか・・・
次回紹介したいと思います。

写真は、雑誌「白樺」(大正11年 1月号)。表紙の装丁画は岸田劉生。表紙に大正13年と
書かれていますが、発行年月日には大正11年1月と印刷されています。
「白樺」は大正12年に廃刊になっています。

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