575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

子ども売ります保育園の乳母車  静荷

2020年08月31日 | Weblog

静荷さん。俳号の謂れをお聞きしたことがあります。
「荷」は蓮の花。嫁いだ里が、レンコンの産地だったことにちなんだもの。
静かに咲く蓮の花。夏の暑い日、蓮の葉の下を吹き抜ける風。
極楽浄土とはこのこととか。
とにかお話し好き。
齢を重ねるに従い自由な句が多く、2015年10月のこの句。
思わず笑ってしまいました。

子供を一杯のせて道をゆく乳母車。
それをこんな風に詠んだ句はないでしょう。
私は静荷さんの最高傑作だと思います。

この頃に静荷さんの句に大きな変化が。

  昨日は昨日今日は良き日と髪洗う

  枇杷の実のつるりとむけて明日は晴

常識にとらわれない自由な発想です。
読み手を意識していません。自分の感性を楽しんでいる。
ふっとこぼれるように句が生れるそうです。

  うかうかとテレビは愉し夜は長し

  石垣の上まで行く気大蛞蝓(なめくじ)

俳句という形式にとらわれるのではなく、
575の定型を自在に使いこなしています。
口語の句であることで、面白さが良く伝わってきます。

静荷さん、最近では、句が降りて来なくなったのか。
残念です。(遅足)

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「虚子と能」

2020年08月30日 | Weblog

高浜虚子の娘、星野立子は虚子の日常を仔細に
書き残しています。それによると、虚子は俳句
作りの時間より、雑誌の発行に伴う雑務が多く
ストレスからくる持病で苦しんでいたようです。
医師から、執筆活動と無縁な趣味を持つことを
勧められ虚子は「能」を選びます。

やがて、虚子が主宰者となり「鎌倉能楽会」を
立ち上げます。趣味として始めた能でしたが、
プロの能楽師に就き「ホトトギス」の発刊記念
会では、泉鏡花、志賀直哉、森鴎外を招き、本
格的な能楽の宴を催しています。

虚子と夏目漱石は親友でした。そのため、漱石
も虚子に勧められ能を学び始めます。漱石の作
品では「吾輩は猫である」の苦紗弥先生が厠で
「謡」<よう>をうたう場面が描かれています。
しかし、作者である漱石の謡は「ヤギの鳴き声
のようだ」と友人たちから笑止されています。
ちなみに「永日小品」には漱石が虚子の鼓で謡
をうたうドキュメンタリーが描かれています。

「虚子がやにわに大きな掛声をかけて、鼓をか
んと一つ打った。自分は虚子がこう猛烈に来よ
うとは夢にも予期していなかった。元来が優美
な悠長なものとばかり考えていた掛声は、まる
で真剣勝負のそれのように自分の鼓膜を動かし
た。自分の謡はこの掛声で二三度波を打った。
それがようやく静まりかけた時に、虚子がまた
腹いっぱいに横合から威嚇した。自分の声は威
嚇されるたびによろよろする。そうして小さく
なる。しばらくすると聞いているものがくすく
す笑い出した。<著 夏目漱石 永日小品>

ところで、虚子の父「池内庄四郎政忠」は伊予
松山藩の藩士で廃藩置県により帰農。剣術に長
け、教養も深く能も巧みだったと虚子は記して
います。江戸時代の武士は、英国で”Sir”の称号
を持つ”Knigh”のように、武と知を兼ね備えて
いたようです。

「能すみし 面の衰へ 暮の秋」<虚子>

文と写真<殿>
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「虚子と子規」

2020年08月29日 | Weblog


正岡子規と高浜虚子が最初に会ったのは、意
外なことには松山の野球場です。中学生の虚
子が野球の練習をしているところへ通りかか
った大学生が参加。虚子がボールを投げた相
手が子規でした。

小説家を目指していた虚子は、友人の河東碧
悟桐<かわひがしへきごとう>を通じ子規に手
紙を書くようになります。子規からの手紙は
美しい文字で丁寧に記され、いつも俳句が詠
まれていたことから、虚子は俳句に傾倒して
いきます。

子規の本業は新聞記者です。陸羯南<くがか
つなん>が社主の「日本新聞」の社命により
日清戦争で従軍記者として取材をしています。
しかし、劣悪な戦地の環境により持病の結核
が悪化。帰国し神戸の病院への入院を余儀な
くされます。当時、結核は不治の病いとされ
隔離されます。しかし、感染を恐れることな
く子規の好物である苺を病室に届けたのが虚
子でした。

献身的な虚子に、子規は自らの俳句の後継を
依頼します。しかし、虚子は困惑します。子
規は「古今和歌集」を新聞で痛烈に批判。子
規宅に反論者が押しかけます。ところが、子
規は病いで床に伏せています。激昂する彼ら
に虚子は苦慮したようです。

子規に最も近い存在でありながら、矛盾する
ように距離を置く虚子。こんなエピソードが
あります。ある時、虚子は新聞記者から子規
との関係について質問されます。しばらく、
考えた虚子は記者にこう答えます。

「私は 子規を失望させている」

やがて、子規の病状が悪化。虚子は毎日、根
岸の居宅まで出かけ毎日新聞に投稿する子規
の短文の口述筆記を務めます。

この毎日新聞の短文をまとめた句集が「病床
六尺」となります。子規が亡くなった夜、虚
子は子規宅で仮眠をしていました。子規の妹
の律が子規の死を伝えます。そして虚子が詠
んだ句。

「子規逝くや 十七の 月明かりに」<虚子>

虚子の子規に対する尊敬と逡巡。子規の死に
より清算されたのでしょうか。虚子のさらり
とした句が物語っている気がします。

文と写真<殿>
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空蝉にいのちの余韻ありにけり 亜子

2020年08月28日 | Weblog
空蝉句会
兼題で同数一位となったこの句
女性の票を集めました。


麗子さん「中七のいのちの余韻に魅かれました」
紅さん「重みのある一句だと思います」
晴代さん「いのちの余韻がいい 我が身も余韻の真っ只中」

抜け殻のぱっくり開いた空洞に
今まで確かにあったいのちを感じる
作者の慈愛のまなざしが素敵ですね。


ふと思いました。
羽化するときの蝉は何を思うのでしょう。

 やっと木に登れば痛し空蝉の背ナ(等)

痛くて悶絶ものでしょうか?
それとも
はちきれんばかりの期待とともに
恍惚として羽をのばすのでしょうか?
どちらにしてもとんでもない変化。
変態というのでしたっけ?

今、激動の時代
変化していくことをどのように受け止め
どのような選択をするのか。
「せっかく飛べるようになってもさ、
厳しい現実にもまれて短い一生を終えるんだよ。
幼虫のまま夢見ていたほうが幸せじゃないかな」(私)
「どんなリスクがあったとしても
僕は一生土の中にいたいとは思わないな。」(夫)

性格があぶりだされた我が家の会話でした。郁子
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空蝉の飴色加賀の飴の色 (晴代)

2020年08月27日 | Weblog
空蝉句会で高得点の晴代さんの句。
空蝉の色に注目したのは、晴代さんだけでした。しかも雅な「加賀の飴の色」とは!
では、皆さんからのコメントです。

結宇さん「口にした時のリズムがいいと思います。格別の理屈はないけれど、古都を思うのでしょうか。」
能登さん「リズムがいいですね」
泉さん「 空蝉の色と加賀の飴色の取り合わせがおもしろい。」
すみさん「まさしく加賀飴の色」

先日ラジオを聞いていたら、蝉のぬけがらが好きなのは男か?女か?という話で盛り上がっていました。
皆さんはどうですか?
男の子は動く生きた蝉の方に関心を示すことが多く、抜け殻にはあまり興味を抱かない子が多い。一方、女の子は動かないので怖くなく、手にとったりブローチにしたり、芸術作品にする女性アーティストもいるそうです。

私は実は、生きた蝉が怖いのです。鳴き声は好きなのですが、向かって来られるのは苦手です。でもセミの抜け殻は、なんせ、幼い頃に食べてしまったくらいですから好きなのだと思います(笑)  麗子
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空蝉句会の結果です。

2020年08月26日 | Weblog
ご覧のような結果となりました。飴色の空蝉、いのちの余韻が浮かびあがりました。
空蝉にかわって蝉の亡骸が目につくようになりました。

兼題「空蝉」
① 空蝉や現世の壁にしがみつき(麗子)殿・等・狗子
② 空蝉の重き一生風吹きぬ (等)竹葉・紅
③ 空蝉の背中開けたり「蟻と蝉」(千香子)殿
④ 空蝉に 風のきてをり 透きとほる(殿)紅・泉・佐保子・遅足
⑤ 空蝉や思想史の書にじりじりと(結宇)狗子・遅足・晴代・千香子
⑥ 空蝉の飴色加賀の飴の色(晴代)結宇・能登・泉・遅足・亜子・すみ
⑦ 空蝉や 軽き薄衣<うすぎぬ> 残しけり(紅)麗子・殿・能登・泉・すみ
⑧ 空蝉の離さぬ過去や爪の先(竹葉)等・結宇・郁子・能登・すみ
⑨ 空蝉にいのちの余韻ありにけり(亜子)麗子・紅・郁子・狗子・佐保子・晴代
⑩ 空蝉や吾(あ)の空蝉の古写真(佐保子)竹葉
⑪ 一年(ひととせ)を経て空蝉の固さかな(遅足)竹葉
⑫ 空蝉は地中の夢の発射台(郁子)晴代
⑬ 空蝉や背中パックリがらんどう(すみ)
⑭ 空蝉のまなこは空に憧れる(能登)麗子・亜子
⑮ 空蝉や風と戯れ森の中(泉)等・千香子
⑯ 黙祷のサイレンを聞く蝉の殻(狗子)結宇・郁子・亜子・佐保子・千香子


自由題
① 干す香り梅と太陽ゴザの上(泉)すみ
② 新盆の母連れて来し驟雨かな (能登) 麗子・結宇・亜子・佐保子・遅足・すみ
③ 抜け殻の寄り添うように落し文(狗子)竹葉・等・紅・
④ 一日の憂いまとめて髪洗ふ(郁子)結宇・紅・能登・亜子・晴代・千香子
⑤ この世から足を外せる蝉の殻(遅足)殿・紅・狗子・千香子
⑥ 蝉の殻墜(お)ちて仰向け兵のごと(亜子)郁子
⑦ 涼しさや友のメールの岩桔梗(佐保子)
⑧ 滝しぶき苔皆立ちて踊りたる(竹葉)麗子・殿・等・郁子・能登・泉・遅足
⑨ 天空に 描くW 鳥渡る(紅)殿・亜子
⑩ 石文の掃除する背や青芒(晴代)泉・狗子
⑪ 盆支度母の残した料理帖(麗子)結宇・郁子・能登・泉・佐保子・すみ・千香子
⑫ やっと木に登れば痛し空蝉の背ナ(等)
⑬ 羽化の蝉檜に戻す夜明けかな(千香子)竹葉・晴代
⑭ 空っぽの 空蝉にある 四十度(殿)麗子・竹葉・等・
⑮ 虫食いに文字と認めし夏落ち葉(結宇)狗子・晴代
⑯ 冷蔵庫役目を終えて広々と(すみ)佐保子・遅足

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空蝉句会の投句が集まりました。

2020年08月24日 | Weblog

いつまでも暑い日が続いています。
コロナウイルスの脅威も増してきています。
せめて俳句で遊び、こころの自由を楽しみたいですね。
兼題の空蝉。こんな句が集まってきました。

兼題「空蝉」
①空蝉や現世の壁にしがみつき
②空蝉の重き一生風吹きぬ
③空蝉の背中開けたり「蟻と蝉」
④空蝉に 風のきてをり 透きとほる
⑤空蝉や思想史の書にじりじりと
⑥空蝉の飴色加賀の飴の色
⑦空蝉や 軽き薄衣<うすぎぬ> 残しけり
⑧空蝉の離さぬ過去や爪の先
⑨空蝉にいのちの余韻ありにけり
⑩空蝉や吾(あ)の空蝉の古写真
⑪一年(ひととせ)を経て空蝉の固さかな
⑫空蝉は地中の夢の発射台
⑬空蝉や背中パックリがらんどう
⑭空蝉のまなこは空に憧れる
⑮空蝉や風と戯れ森の中
⑯黙祷のサイレンを聞く蝉の殻

自由題
①干す香り梅と太陽ゴザの上
②新盆の母連れて来し驟雨かな
③抜け殻の寄り添うように落し文
④一日の憂いまとめて髪洗ふ
⑤この世から足を外せる蝉の殻
⑥蝉の殻墜(お)ちて仰向け兵のごと
⑦涼しさや友のメールの岩桔梗
⑧滝しぶき苔皆立ちて踊りたる
⑨天空に 描くW 鳥渡る
⑩石文の掃除する背や青芒
⑪盆支度母の残した料理帖
⑫やっと木に登れば痛し空蝉の背ナ
⑬羽化の蝉檜に戻す夜明けかな
⑭空っぽの 空蝉にある 四十度
⑮虫食いに文字と認めし夏落ち葉
⑯冷蔵庫役目を終えて広々と

     

空蝉やわきたつ雲とかくれんぼ

推敲の途中で生まれた句。私の好きな句です。
どなたの句とは言いませんが。遅足

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戦争が 廊下の奥に 立つてゐた <白泉>

2020年08月23日 | Weblog


渡辺白泉<わたなべはくせん>1913年青山の生まれ。
父親は山梨の地主。港区青山で呉服店を経営。その
ため本籍は山梨となっています。青南小学校なので
私の先輩になります。慶應大学在籍中に水原秋桜子
<みずはらしゅうおうし>の「馬酔木」<あせび>に
参加。馬酔木は大正から昭和の日本文学を支えた総
合文芸誌といえるでしょう。

白泉は三省堂に入社。新興的な俳句を目指す「西東
三鬼」<さいとうさんき>の影響を受け「風」を創刊
します。そして、新興俳句集「天香」の創刊に関わ
り逮捕。新興俳句は当時の政府から厳しい弾圧を受
けていました。

日清戦争の正岡子規、日露戦争での与謝野晶子の長
詩などを除き、詩歌で戦争を詠むことはきわめて稀
でした。しかし新興俳句は戦争をテーマとし、その
内容は反戦や厭戦です。そのため、政府は新興俳句
を一掃してしまいます。こうした政府の言論統制に
文化が負けた悔しさ。角川源義<かどかわげんよし>
はすべての角川文庫の巻末にある刊行の辞に記して
います。

弾圧された白泉は古俳諧に道を求めます。しかし、
俳句への気持ちは捨てられなかったのか、石田波郷
<いしだはごう>の主宰する句誌「鶴」に偽名で投句
を続けます。やがて、白泉は横須賀の海兵団に応召
され、ほどなく復員。

戦争が白泉の心に大きな瑕疵を与えたのでしょうか。
戦後、白泉は俳句と全く無縁な教職に身を置きます。
そして、白泉は急死。勤務先の沼津高校のロッカー
から自筆の句稿本が見つかります。この本は「渡辺
白泉句集」として沖積舎より出版されています。

「鳥篭の中に 鳥とぶ 青葉かな」<白泉句集>

「鳥篭の鳥」表現の自由を失う悲しさを白泉は伝え
たかったのでしょうか。


写真と文<殿>
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瀧落ちて 群青世界 とどろけり <秋桜子>

2020年08月22日 | Weblog


水原秋桜子<みずはらしゅうおうし>。1892年、神
田の産科医院に生まれ、本名「水原豊」 東京帝国大
学医学部を卒業。その後、昭和大学の産婦人科の最
初の教授となり宮内省の医寮御用係も勤めています。
森鴎外、斎藤茂吉と並び、秋桜子は医師と文士、二
つの顔を持っています。

秋桜子と俳句との出会いは高浜虚子の俳句に興味を
持ち医学部の句会「木の芽会」に参加してからとい
われています。やがて、夏目漱石の弟子である松根
東洋城<まつねとうようじょう>が創刊した「渋柿」
に投句するようになり「ホトトギス」の句会に出席
したことから虚子の指導を受けることになります。

虚子の弟子となった秋桜子は、当時、停滞していた
東大の俳句会を富安風生<とみやすふうせい>山口青
邨<やまぐちせいそん>らと再興。さらに、「破魔弓」
<はまゆみ>を「馬酔木」<あせび>と改名し自らが
主宰者となります。ところで、秋桜子は万葉集の研
究で知られる国文学者、窪田空穂<くぼたうつぼ>か
ら古典文学を学んでいます。そのため、万葉の知識
を生かし、一般的でなかった鳥や草花など、新しい
題材で俳句を詠み「馬酔木」に発表していきます。

山口誓子<やまぐちせいし>高野素十<たかのすじゅ
う>阿波野青畝<あわのせいほ>そして秋桜子は「ホ
トトギスの四S」と呼ばれていました。しかし、あ
る時、虚子は、秋桜子と素十を比較。素十を高く評
価します。この対談記事が翌月の「ホトトギス」に
掲載され秋桜子と虚子は激しく対立します。

素十は秋桜子の医学部の後輩にあたり、秋桜子の勧
めで俳句を始めています。また野球チームの投手と
捕手という関係。親しい後輩と比較されたことは、
激情家の秋桜子にとって堪え難いことだったのかも
しれません。

「ホトトギス」とはこの一件以降、秋桜子は完全に
断絶しています。しかし、当時の「ホトトギス」は
俳壇の主役ともいえる存在。秋桜子のホトトギスか
らの離反は「新興俳句」という新しい流れが俳壇に
生まれる要因になった気がします。

余談ですが、東大の本郷キャンパスには、ドイツよ
り招聘されたベルツ博士への思いを綴った秋桜子の
句碑があります。ベルツ博士の妻「ハナ」は東三河
御油宿の生まれ。二川宿にある観音像へ登る鎖はハ
ナの寄進といわれています。

水原秋桜子。享年88歳。遺作となった句は「馬酔
木」の翌月号に掲載されました。

「紫陽花や 水辺の夕餉 早きかな」<秋桜子>

写真と文<殿>
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猛暑お見舞い申し上げます。 麗子

2020年08月20日 | Weblog
連日の猛暑。コロナ対策のマスクでお疲れの方も多いと思います。水分、塩分とってクーラーかけてお休みくださいね。

早朝6時からうるさいほど鳴いていたセミの声もおとなしくなって来ました。
当地は例年、クマゼミしか鳴かないのですが、この夏は初めて朝早くにミンミンゼミの声を聞きました。
蝉の抜け殻。空蝉が今月の句会の兼題です。私が1歳くらいの時、兄が拾って来た空蝉を食べてしまったそうです。恐るべし食欲!(笑)夏が来る度にその話を話してくれた母の初盆も終わりました。大阪から帰って来て庭にでて水撒きをしていたら、アゲハチョウがやって来て私の周りを一周しました。母がお別れに来てくれたと確信しました。

          初盆を終えて安堵の庭に出る  麗子
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コロナ禍や老人更に出不精に  静荷

2020年08月19日 | Weblog

一向にしずかにしてくれないコロナウイルス。
なかなか頭のいいウイルスという専門家も。

静荷さんから電話。投句かと思いきや。
娘さんとの同居のため、引っ越されるとのこと。
そして当分、俳句もお休みしますというお話。
長い間の一人暮らし。ついに決断されたようです。

  姑の逝きて身深き秋思かな   静荷

昨年秋の句です。100歳を越えた姑を亡くされました。
生前は「いけず」のオバアチャンで、お屋敷に独り住まい。
ご機嫌伺いに訪れると、先制パンチが飛んできたとか。
とくに食べ物に関してはウルサカッタようです。
長男の嫁という立場だった作者。商家のお嬢様。
もちろん負けてはいなかったようです。

文化の違うお二人。喧嘩をすればするほど親しくなって・・・。
そして、喧嘩相手ならぬ話し相手がいなくなってしまいました。
「身深き秋思」という表現に心が痛みます。

どうぞお心のままに。長い間、ありがとうございました。
コロナウイルスに負けずに。気が向いた時は投句もどうぞ。  遅足
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横断を急かす点滅油照り  亜子

2020年08月18日 | Weblog

解釈、「油照<で>り」字面の重要性を改め
て認識させられました。梅雨の晴れ間にあ
りがちな、薄日が照りつけ蒸し暑い無風。
作者の信号の点滅への苛立ちを「油照り」
だけで表しているといっても過言ではない
でしょう。拍手をお贈りします。殿様。

    

100米の大河を渡るのは簡単なことでした。
それが苦痛になったのは何時からでしょうか?
信号機が青にかわるのを横目に、スタート準備。
変わるや否や一目散に対岸へ。
点滅し始めるころにゴール・イン。

マスクして大炎天を横断す  遅足
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この世から少し外れて蝉の殻  遅足

2020年08月17日 | Weblog
8月句会が近づいてきました。今回はお盆を避けて一週間後の26日です。

兼題は「空蝉」。蝉のぬけ殻のことです。
もともと「現し身」「現せ身」で、生身の人間を意味しました。
しかし、のちに「空せ身」空しいこの身、魂のぬけ殻という反対の意味に転じました。
これが、「空蝉」蝉のぬけ殻のイメージと重なります。

 空蝉の殻は木ごとに留(とど)むれど魂の行くへを見ぬぞ悲しき

古今集の読人知らずの歌です。

  
                         竹葉さんの写真です。 

現代の俳人の詠んだ空蝉は

 空蝉を置いて白紙に翳り生む  鍵和田釉子

 空蝉をのせて銀扇くもりけり 宇佐美魚目

 空蝉に蝉のかなしみ残りけり 林 翔

 空蝉のしつかと地球つかんでいる 大木石子

 空蝉にしてやはらかく草つかむ 長谷川櫂

どんな空蝉が姿を見せてくれるのか?たのしみです。遅足
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蚊遣火の 烟にそるゝ ほたるかな <許六>

2020年08月16日 | Weblog


ご紹介してきた芭蕉の弟子たち。最も異色と
いえるのは「森川許六」<もりかわきょりく>
でしょう。許六は歴とした彦根藩の武士。剣
術や馬術に加え宝蔵院流の槍の名手です。さ
らに、絵画や漢詩にも優れ文武両道の好例と
いっても過言ではないでしょう。

35歳で江戸に下向。宝井其角、服部嵐雪より
俳句を学びます。そして、松尾芭蕉に入門。
芭蕉から六芸<りくげい>槍術、剣術、馬術、
書道、絵画、俳諧に優れる逸材という意から
「許六」という俳号を授けられました。

面白いのは、芭蕉が許六の弟子だったことで
しょう。芭蕉は許六より狩野派の絵画の指導
を受けています。そのため、芭蕉は許六が江
戸を去る際「紫門之辞」といわれる俳句の秘
伝を与えています。芭蕉と許六は、互いが師
弟であるという特殊な関係だったようです。

彦根に戻った許六は「韻塞」<いんふたぎ>
「篇突」<へんつき>など数多な俳句の選集
や作法書などを著し精力的な活動を始めます。
円熟期の許六には、諧謔的で人生をやや諦観
したような句が多い気がします。

彦根藩の藩主は井伊家。菩提寺である龍潭寺
に残る許六の描いた襖絵は必見でしょう。許
六は、小ぶりな俳画が多く、大作はきわめて
珍しいといわれています。許六の絵画で最も
有名なのは「奥の細道行脚之図」笠を手にし
た芭蕉と曾良。みちのくへの旅立ちの景。記
憶にある方も多いのではないでしょうか。

ここで話題を変えます。いま、1日に100種の
生物が地球上から絶滅しているといわれてい
ます。ある霊長類学者は生態系のバランスが
崩れると未知のウイルスが生まれ、絶滅の連
鎖が始まると警告を発しています。俳句にお
いても絶滅した季語があります。蛍を季語と
できる未来。切に望む夏となりました。


写真と文<殿>

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梅一輪 いちりんほどの 暖かさ <嵐雪>

2020年08月15日 | Weblog


服部嵐雪<はっとりらんせつ> 江戸時代前期、
松尾芭蕉の高弟で「雪門」の祖。通称は孫之
丞、彦兵など。俳号は「雪中庵」が有名。柔
和で温かみのある作風が特徴といれています。

服部家は淡路の出身で常陸麻生藩にも仕えた
ことがある武家の階級。嵐雪は江戸湯島に長
男として生まれたといわれています。成人と
なった嵐雪。しばらく常陸笠間藩に出仕して
いました。しかし、嵐雪は遊蕩三昧の日々。
廓から朝帰りする不良青年のため解雇。俳諧
師へと転職します。

松尾芭蕉に入門したのは21歳の時。研鑽を積
み「草庵に桜桃あり 門人に其角と嵐雪あり」
と芭蕉の弟子としての地位を確立。同門の宝
井其角の「田舎之句合」の序文を執筆し自ら
も「若水」を刊行。名実ともに俳諧の宗匠と
なります。ところが「露払」の編纂の頃から
芭蕉と意見が合わなくなり、芭蕉の奥州への
旅の送別会にも出席していません。

元禄7年10月に芭蕉は没します。訃報を聞い
たその日。急遽、嵐雪は一門を集め追悼の会
を催します。そして、芭蕉の眠る膳所の義仲
寺へと急ぎ旅立ちます。師弟とはいえ江戸俳
諧で屈指の二人。さまざまな確執もあったと
思われます。しかし、芭蕉の鬼籍入りにより
わだかまりが一挙に氷解した感があります。

服部嵐雪。享年54歳。東池袋にほど近い雑司
が谷の本教寺に眠ります。辞世の句。

一葉散る 咄ひとはちる 風の上 <嵐雪>

写真と文 <殿>



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