櫂さんは短歌から俳句に替わった人。
歌は具象性をほとんど持たなくても一首がなりたつ。
いわば「こと」だけでもOK。
しかし俳句は「もの」を重視すると教えられた。
当初、これに反発し、季語に抽象的な言葉を配していたが、
やがて恐ろしいことに気付いたという。
茫洋とした季語に抽象的な言葉を組み合わせても
類型的な句しか生まれない。
「時」は具体的な「腕時計」で表現するのが俳句と・・・
俳句をはじめ日本の文学の主流は、明治以降、マジメであった。
それが1980年代ころから、フマジメ派が主流となる。
マジメ、フマジメの境界は難しいが、
ドリフターズの全員集合は「マジメ」
ひょうきん族を「フマジメ」と考えている。
俳句の世界は、なかなかフマジメな人が出てこなかったが
櫂さんは、まさに正当な意味で、フマジメな俳人である。
そこに句の面白さが感じられるし、魅力でもある。
(もっとも川柳との境界がアイマイになるけれど)
連翹のどこかなげやりなる黄色
落ちたがらぬ椿に落ちてもらひけり
このフマジメさの魅力に負けそう・・・ 遅足
歌は具象性をほとんど持たなくても一首がなりたつ。
いわば「こと」だけでもOK。
しかし俳句は「もの」を重視すると教えられた。
当初、これに反発し、季語に抽象的な言葉を配していたが、
やがて恐ろしいことに気付いたという。
茫洋とした季語に抽象的な言葉を組み合わせても
類型的な句しか生まれない。
「時」は具体的な「腕時計」で表現するのが俳句と・・・
俳句をはじめ日本の文学の主流は、明治以降、マジメであった。
それが1980年代ころから、フマジメ派が主流となる。
マジメ、フマジメの境界は難しいが、
ドリフターズの全員集合は「マジメ」
ひょうきん族を「フマジメ」と考えている。
俳句の世界は、なかなかフマジメな人が出てこなかったが
櫂さんは、まさに正当な意味で、フマジメな俳人である。
そこに句の面白さが感じられるし、魅力でもある。
(もっとも川柳との境界がアイマイになるけれど)
連翹のどこかなげやりなる黄色
落ちたがらぬ椿に落ちてもらひけり
このフマジメさの魅力に負けそう・・・ 遅足