櫂さんは短歌から俳句に替わった人。
歌は具象性をほとんど持たなくても一首がなりたつ。
いわば「こと」だけでもOK。
しかし俳句は「もの」を重視すると教えられた。
当初、これに反発し、季語に抽象的な言葉を配していたが、
やがて恐ろしいことに気付いたという。
茫洋とした季語に抽象的な言葉を組み合わせても
類型的な句しか生まれない。
「時」は具体的な「腕時計」で表現するのが俳句と・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyo_oro.gif)
俳句をはじめ日本の文学の主流は、明治以降、マジメであった。
それが1980年代ころから、フマジメ派が主流となる。
マジメ、フマジメの境界は難しいが、
ドリフターズの全員集合は「マジメ」
ひょうきん族を「フマジメ」と考えている。
俳句の世界は、なかなかフマジメな人が出てこなかったが
櫂さんは、まさに正当な意味で、フマジメな俳人である。
そこに句の面白さが感じられるし、魅力でもある。
(もっとも川柳との境界がアイマイになるけれど)
連翹のどこかなげやりなる黄色
落ちたがらぬ椿に落ちてもらひけり
このフマジメさの魅力に負けそう・・・ 遅足
歌は具象性をほとんど持たなくても一首がなりたつ。
いわば「こと」だけでもOK。
しかし俳句は「もの」を重視すると教えられた。
当初、これに反発し、季語に抽象的な言葉を配していたが、
やがて恐ろしいことに気付いたという。
茫洋とした季語に抽象的な言葉を組み合わせても
類型的な句しか生まれない。
「時」は具体的な「腕時計」で表現するのが俳句と・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyo_oro.gif)
俳句をはじめ日本の文学の主流は、明治以降、マジメであった。
それが1980年代ころから、フマジメ派が主流となる。
マジメ、フマジメの境界は難しいが、
ドリフターズの全員集合は「マジメ」
ひょうきん族を「フマジメ」と考えている。
俳句の世界は、なかなかフマジメな人が出てこなかったが
櫂さんは、まさに正当な意味で、フマジメな俳人である。
そこに句の面白さが感じられるし、魅力でもある。
(もっとも川柳との境界がアイマイになるけれど)
連翹のどこかなげやりなる黄色
落ちたがらぬ椿に落ちてもらひけり
このフマジメさの魅力に負けそう・・・ 遅足