津島天王祭 ( つしま てんのうまつり ) は愛知県津島市の津島神社に伝わる祭礼 。
私の記憶では毎年夏 、天王川に提灯を掲げた豪華なマキワラ船が浮かぶお祭り
程度の知識しかありませんでした 。
今回、屏風絵を見せて頂いたのを機会に、まず、津島神社のことについて調べてみました 。
社伝によると、創始時代 ( 540 )は「 津島社 」と呼ばれ、スサノオの命をお祭りしていた 。
( ところが、延喜式神名帳( 927年 成立 ) の尾張海部郡八座の中に津島社は載っていない。
このことを巡って、八座の中で唯一、所在不明の國玉神社を津島社とする説 。
神仏習合がすでに行われていたため神名帳には載らなかつたとする説がある)
いずれにしても、平安時代初期、神仏習合によって、御祭神がスサノオの命の本地
( ほんじ )とされる 「 牛頭 ( ごづ ) 天王 」になり、社名も「 津島牛頭天王社 」に 。
しかし、明治の神仏分離により、社名も現在の 「 津島神社 」になり、スサノオの命を
御祭神としています。
牛頭天王はインドの神で祇園精舎 ( 釈迦とその弟子のための僧坊 )の守護神で、とくに
疫病を退治する神 。
京都祇園の八坂神社の御祭神も同じで、最初はスサノオの命でしたが、中世には牛頭天王 。
夏場の疫病が流行る時期に、この神の霊験を讃えるために行われるのが祇園祭だそうです 。
八坂神社より東で有名なのが津島牛頭天王社と云われ、津島神社を勧請して建てた分霊社
や末社は凡そ3000社もあるということです 。
分霊社で多いのが東京の77社、埼玉の87社、福島の73社、宮城の40社などとなっています。
各地の檀家を廻って祈祷や守り札の配布の便宜をはかる御師 ( おし )の存在は伊勢神宮や
熊野神社の御師が知られていますが、津島御師も少なくとも室町時代から活動していた
ようです。御師は全て社家と社家の子弟、社家に従属する一部の者に限られていて、遠く
からの檀家が津島へ天王祭を見に来たり参詣する際はそれぞれの自宅に宿泊させています。
津島は 中世より湊町として栄えました。
尾張名所図会 ( 江戸末 から明治初めにかけて刊行 )には
「 津島の里は尾西第一の大邑 ( 大きな町 )にして、縦横の町並み五十餘街、
商家農工 軒を並べ、萬物 一として足らざる事なく、しかのみならず美濃路・伊勢路への
舟行、日毎に絶ゆる事なければ、諸国の旅客ここにつどひて、繁昌 大方ならず 。
實 ( げ )に一都會ともいふべし 。」とあります。
津島天王祭には、織田信長・豊臣秀吉・尾張徳川家が何度も見物に来た記録が残っています 。
天王祭 ( てんのうまつり ) は裕福な津島の町方衆の財力にも支えられて、
ますます豪華絢爛となり、日本三大川祭の一つに数えられるようになったのでした 。
( 参考にした主な資料は 「 津島市史 ⑸ 」津島市教育委員会 昭和 50年刊 ・津島神社社務所発行 「 全国天王総本社 津島神社 」より )
写真は愛知県津島市に鎮座する津島神社 。 かっては、牛頭 ( ごづ ) 天王社と呼ばれていた 。