小さな坂を上り切ると、その向こうに海が見えた。
ここまで、⑨6分13秒、⑩6分02秒、⑪6分15秒、⑫6分19秒。
ついに、海岸沿いの道に来た。
母の実家や親類の家が多くあるのはここからの地域だ。
だから、私には、いわき市というと「海」「太平洋」というイメージがある。
それなのに、今、この永崎海岸沿いの道路から海を見ようと思っても、見えない。
ずうっと高く長い防潮堤が続いているからである。
【この写真は前日のもの】
この一帯は、東日本大震災で大きな津波が押し寄せて、多くの家々が倒れたり流されたりした。
近くの小学校も大きな被害を受けた。
それは、ここにちょくちょく投稿してくれる蜂さんのブログに紹介されている。
ここで使われていた写真を使って、去年の3月には小学校の子どもたちに話をした。
被災地ではない小学校の子どもたちは、そういう大きな災害があったことを、もうほとんど知らないのである。
小学生には、あの当時生まれていない子だっている。
物心だってついていない頃のことだった、という子が多くなりつつある。
あれから7年がたち、津波で壊されたり流されたりした沿道の家々は新しくなっていた。
その家々からも、防潮堤にさえぎられて海は直接見えなくなっている。
しかし、あちこちの新しくなった家の2階から、手を振ったり声を出したりして、走る選手たちを応援する人たちがたくさんいた。
そこには、被災後の大変さを体験してきたけれども、今、間違いなく「復興」あるいはその途上にあると感じさせる姿であった。
13.9km地点の給水所には、給食もあった。
早めに食べ物が出てくるのは、うれしい。
バナナ、そして梅干を私はいただいた。
口に運ぶと元気になれる気がした。
いよいよだ。
中之作地区に入っていく。
この地区こそが、母の実家のあるところである。
今走っているこの道は、私が子どもの頃はなかった。
なんとここは、もう海だったのである。
だから、現在は300mくらいの間、道路の右に防潮堤、左にかつての防波堤が残っている。
この近くに、伯母・従兄の住む家がある。
いた!
従兄・伯母の家の近くに、従姉の姿、そして伯母の姿。
90歳を過ぎても、元気な姿に会えて、うれしい。
亡母の姉に当たる人である。
前日に訪問したときに、「私は、マラソン、応援するのが大好き!」と言っていたとおり、沿道で声援をおくってくれていた。
さらに進んで行く。
港だ、中之作港!
かつては、ここから出る船で若い日の父が働いたことがある。
何かの折に、船の中を見せてもらったことがある。
魚を取るための船だ。
寝るところが非常に狭く見えたことを覚えている。
そんなことを思い出しつつ、港沿いの道を行く。
知っている従姉たちの姿があった。
94歳の伯父の姿もあった。
年齢を重ねても、かくしゃくとしており、いかにも人生の先輩という感じで今なおいろいろなことを教えてくれる。
私にとって、年をとってもこのように生きていきたい、と思わせてくださる方だ。
前日の訪問時も、いろいろ楽しい語りをしてくれた。
中之作港、船、大漁旗などに目を奪われていたら、目の前にさっきの90歳を越えた伯母宅の従兄がいた。
彼は、大会要項を見たら大会役員としても名前が挙がっていた。
知っている人たちに何人も会えたこの地域。
さすが、母の故郷である。
漁港の証、大漁旗がなびいていた。
さらに進むと、16km付近で、同じく新潟から参加したSさんが、「50foxさん!」と私の名前を呼んで声をかけてくれた。
Sさんは、私の水曜日の勤務先に勤めている。
去年の新潟シティマラソンのとき、彼は高橋尚子さんとともに走り、その隣でゴールしたそうだ。
私より20歳以上若い彼だから、2kmくらい前を行っていた。
江名港の灯台が見えた。
ここも港である。
そして、第1折り返し点となっている。
かなりたくさんの人がコース沿いに立って応援してくれていた。
にぎにぎしくパフォーマンスを行う子どもたちの反対側には、大漁旗がたくさん飾られていた。
折り返し点と言っても、まだここは、16.5km地点でしかない。
半分もいっていないのだから、まだまだ先は長いぞ、と自分を戒める。
折り返すと面白いのは、ここまでの間に自分と一緒に走って来た人たちが意外と後ろに下がったこと。
さっきまで並んで、あるいは前後で走っていた人たちなのに、私より後ろで今は走っているとわかる。
特に目立っていたのは、後ろにミニーちゃんの風船まで付けていた女性。
沿道の人々から「かわいい!」と言われていたけれども、さっきまで私の前にいたはずが、いつのまにかずいぶん後ろになってしまった。
彼女に限らず、仮装を楽しむランナーはかなりたくさんいた。
なす、ニンジン、牛、人造人間風、スパイダーマン、サムライ、…etc。
彼らを見ているとすごいと思う。
自分が走るだけでも大変なのに、仮装して周囲の人まで楽しませる。
それはいいとして、仮装するとそれだけ余計なものを身に付けることにもなり、走りにくかったり暑くなったりするはずだ。
なのに、それでも仮装ランナーを選ぶという、そのことには感心してしまう。
さて、再び中之作港を通り、もう一度従姉たちに手を振り、伯母たちに手を振り、これからこそが本番だからがんばらなくては、と決意を新たにした。
私自身は、たくさんの親類にあったせいか、少しだけペースが上がって走ったようだ。
⑬6分18秒、⑭6分07秒、⑮6分31秒、⑯6分02秒、⑰6分06秒
18㎞から19㎞地点の辺りでは、14㎞地点を過ぎてから歩いている人も多く見た。
すれ違うランナーたちがうんと少なくなった。
やがて「最終走者」やその人を見守る自転車や車が続いていた。
永崎海岸沿いの12.9km地点で第2関門があり、スタートから1時間50分たってストップをかけられた人たちもいたはずだった。
同じ場所が今度は20.1kmの第3関門となって、2時間50分で過ぎることができなければ、リタイアさせられる。
私は、それには50分近くあるはずと思い、いちおう余裕で通り過ぎた。
永崎海岸に別れを告げ、海沿いを走る。
この道には防潮堤がなかった。
本来、このように美しい海が見える風景が広がっていたはずだ、永崎海岸も…。
ここまで、⑨6分13秒、⑩6分02秒、⑪6分15秒、⑫6分19秒。
ついに、海岸沿いの道に来た。
母の実家や親類の家が多くあるのはここからの地域だ。
だから、私には、いわき市というと「海」「太平洋」というイメージがある。
それなのに、今、この永崎海岸沿いの道路から海を見ようと思っても、見えない。
ずうっと高く長い防潮堤が続いているからである。
【この写真は前日のもの】
この一帯は、東日本大震災で大きな津波が押し寄せて、多くの家々が倒れたり流されたりした。
近くの小学校も大きな被害を受けた。
それは、ここにちょくちょく投稿してくれる蜂さんのブログに紹介されている。
ここで使われていた写真を使って、去年の3月には小学校の子どもたちに話をした。
被災地ではない小学校の子どもたちは、そういう大きな災害があったことを、もうほとんど知らないのである。
小学生には、あの当時生まれていない子だっている。
物心だってついていない頃のことだった、という子が多くなりつつある。
あれから7年がたち、津波で壊されたり流されたりした沿道の家々は新しくなっていた。
その家々からも、防潮堤にさえぎられて海は直接見えなくなっている。
しかし、あちこちの新しくなった家の2階から、手を振ったり声を出したりして、走る選手たちを応援する人たちがたくさんいた。
そこには、被災後の大変さを体験してきたけれども、今、間違いなく「復興」あるいはその途上にあると感じさせる姿であった。
13.9km地点の給水所には、給食もあった。
早めに食べ物が出てくるのは、うれしい。
バナナ、そして梅干を私はいただいた。
口に運ぶと元気になれる気がした。
いよいよだ。
中之作地区に入っていく。
この地区こそが、母の実家のあるところである。
今走っているこの道は、私が子どもの頃はなかった。
なんとここは、もう海だったのである。
だから、現在は300mくらいの間、道路の右に防潮堤、左にかつての防波堤が残っている。
この近くに、伯母・従兄の住む家がある。
いた!
従兄・伯母の家の近くに、従姉の姿、そして伯母の姿。
90歳を過ぎても、元気な姿に会えて、うれしい。
亡母の姉に当たる人である。
前日に訪問したときに、「私は、マラソン、応援するのが大好き!」と言っていたとおり、沿道で声援をおくってくれていた。
さらに進んで行く。
港だ、中之作港!
かつては、ここから出る船で若い日の父が働いたことがある。
何かの折に、船の中を見せてもらったことがある。
魚を取るための船だ。
寝るところが非常に狭く見えたことを覚えている。
そんなことを思い出しつつ、港沿いの道を行く。
知っている従姉たちの姿があった。
94歳の伯父の姿もあった。
年齢を重ねても、かくしゃくとしており、いかにも人生の先輩という感じで今なおいろいろなことを教えてくれる。
私にとって、年をとってもこのように生きていきたい、と思わせてくださる方だ。
前日の訪問時も、いろいろ楽しい語りをしてくれた。
中之作港、船、大漁旗などに目を奪われていたら、目の前にさっきの90歳を越えた伯母宅の従兄がいた。
彼は、大会要項を見たら大会役員としても名前が挙がっていた。
知っている人たちに何人も会えたこの地域。
さすが、母の故郷である。
漁港の証、大漁旗がなびいていた。
さらに進むと、16km付近で、同じく新潟から参加したSさんが、「50foxさん!」と私の名前を呼んで声をかけてくれた。
Sさんは、私の水曜日の勤務先に勤めている。
去年の新潟シティマラソンのとき、彼は高橋尚子さんとともに走り、その隣でゴールしたそうだ。
私より20歳以上若い彼だから、2kmくらい前を行っていた。
江名港の灯台が見えた。
ここも港である。
そして、第1折り返し点となっている。
かなりたくさんの人がコース沿いに立って応援してくれていた。
にぎにぎしくパフォーマンスを行う子どもたちの反対側には、大漁旗がたくさん飾られていた。
折り返し点と言っても、まだここは、16.5km地点でしかない。
半分もいっていないのだから、まだまだ先は長いぞ、と自分を戒める。
折り返すと面白いのは、ここまでの間に自分と一緒に走って来た人たちが意外と後ろに下がったこと。
さっきまで並んで、あるいは前後で走っていた人たちなのに、私より後ろで今は走っているとわかる。
特に目立っていたのは、後ろにミニーちゃんの風船まで付けていた女性。
沿道の人々から「かわいい!」と言われていたけれども、さっきまで私の前にいたはずが、いつのまにかずいぶん後ろになってしまった。
彼女に限らず、仮装を楽しむランナーはかなりたくさんいた。
なす、ニンジン、牛、人造人間風、スパイダーマン、サムライ、…etc。
彼らを見ているとすごいと思う。
自分が走るだけでも大変なのに、仮装して周囲の人まで楽しませる。
それはいいとして、仮装するとそれだけ余計なものを身に付けることにもなり、走りにくかったり暑くなったりするはずだ。
なのに、それでも仮装ランナーを選ぶという、そのことには感心してしまう。
さて、再び中之作港を通り、もう一度従姉たちに手を振り、伯母たちに手を振り、これからこそが本番だからがんばらなくては、と決意を新たにした。
私自身は、たくさんの親類にあったせいか、少しだけペースが上がって走ったようだ。
⑬6分18秒、⑭6分07秒、⑮6分31秒、⑯6分02秒、⑰6分06秒
18㎞から19㎞地点の辺りでは、14㎞地点を過ぎてから歩いている人も多く見た。
すれ違うランナーたちがうんと少なくなった。
やがて「最終走者」やその人を見守る自転車や車が続いていた。
永崎海岸沿いの12.9km地点で第2関門があり、スタートから1時間50分たってストップをかけられた人たちもいたはずだった。
同じ場所が今度は20.1kmの第3関門となって、2時間50分で過ぎることができなければ、リタイアさせられる。
私は、それには50分近くあるはずと思い、いちおう余裕で通り過ぎた。
永崎海岸に別れを告げ、海沿いを走る。
この道には防潮堤がなかった。
本来、このように美しい海が見える風景が広がっていたはずだ、永崎海岸も…。