ON  MY  WAY

60代を迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされ生きる日々を綴ります(コメント表示承認制です)

母の故郷を駆ける~いわきサンシャインマラソン(4)

2018-02-15 20:23:21 | RUN
折り返してからは、当然今来た道を引き返すことになる。
もう走る脚が残っていないのに、上り坂はきつい。
しかもゆるやかに長く続く。
頂点の37km地点までのタイムは、
下りが、㉝7分07秒、㉞6分56秒と、下りになったのに上がらない。
折り返してから、㉟7分40秒、㊱8分7秒、㊲7分53秒。
上りということもあり、6分台はおろか7分台も守れず8分台に。
6分台を守る、という当初の目標はすでに果たせなくなっていた。
だが、「歩かずに走り切る」ということについては意地を張り通したいと、自分の気持ちを再確認した。

37km地点の坂道の頂点にきたので、ここからは下り坂だから少しは楽になると思った。
しかし、走れない。
太ももが時折ビクッとなって、つりそうになる。
無理がないようにと最初から脚をあまり上げずに走ってきたが、今は上げたくとも上がらない状態。
内臓も疲弊しきった状態になっていた。
37.3kmの最後の給水所でも、食べ物には全く興味がなく、口にできるのは水だけ。
飲料であるアミノバリューもいらない。
ただひたすら水がおいしかった。
㊳7分30秒、㊴7分37秒、㊵8分13秒。

曲がり角もなくなった最後の広い直線路。
40kmともなると、残り2kmしかないから、皆ラストスパートをかける。
今まで歩いていた人たちだって、最後の力を振り絞って走っていく。
だけど、私は、振り絞る力がない。
脚が限界を超え、走っているように見えない私。
だけど、懸命に闘っていた。
歩くと楽になる、とは思うが、ゴールは遅れていく。
少しでも早くゴールに着きたい。
抜いて行く人たちがうらやましい。
だけど、自分の今残っている力は、速く走るためには腕を振ることしかできない。
懸命に腕を振りながら、走った。
しかし、ものすごい数の方々に抜かれていった。
あとでデータを確認したら、40kmは順位が3000番台の中盤だったのに、わずか2km後には60人の人に抜かれて、タイムのみならず順位も3100番台と、大幅に落としていた。
それもそのはず、40kmからフィニッシュ地点までは、17分40秒もかかっていたのである。
ここの平均は、8分01秒/kmとなる。
こんなに平地で、しかも風は追い風であった。
それにもかかわらず、あの急坂を駆け上がった三崎公園までの1kmにかかった時間7分34秒よりはるかに遅くなる、という情けなさ。
だが、手は抜いているつもりはなく、腕の力で足を運ぶ状態だった。


だいぶゴールが近づいてきたときに隣に並んだのは、「アイシテルニイガタ」の文字が付いたTシャツ。
一昨年販売されたもので、懐かしい。
「新潟からですか?」
「はい。」
「私と同じですね。アルビJ2に落ちたけど、がんばってほしいですね。」
「そうですね。」
などという会話を交わした。

しばらく一緒に走ってくれたけれども、私があまりにも遅いので、先に行ってもらう形になった。

それにしても、新潟と違って、雪がない。
ここは青空が広がっているけれど、今はかなり強い風が吹くようになっていた。
これはきっと、新潟方面には雪を降らせた後の乾燥した強い風だろう。
今ごろ新潟は雪だろう。
今年は大雪だから、また明日は除雪が必要なくらいになるかもしれない、などとも考えた。

体は、脚は、限界を超えたけれど、まもなくゴールだ。
いよいよ公道から、ゴールへの道に入る。
ラストスパートもできないが、最後のゲートを通るときの足元には力がこもった。

ガッツポーズで、ゴールした。
記録は、ネットタイムでからくも4時間50分手前。
あと10分くらい速くゴールしたかったが、最善を尽くした結果だからしかたがない。
もっと早くゴールできるかとも思ったが、これだけ両脚がおかしくて走れないなかでのベストだ。
歩いてしまった新潟シティマラソンの雪辱(?)を果たすサブ5、達成。

ここは、さすがフラガールのふるさと。
ゴールした人にきれいなレイをかけてもらえるのだ。

私も、かけてもらえた。
そして、記録証を発行してもらい、着順と順位を確認した。
手荷物を受け取りに行き、渡してくれた方に頼んで、写真を撮ってもらった。

近くのテントが更衣室となっていたので、そこでへたり込みながらゆっくり着替えた。
達成感はそれなりにあったが、着替えてみると体がもうボロボロの感じで、歩くたびに左脚が痛くなっていた。


それでもなんとかシャトルバスに乗り込み、座席に座り込んだ。
ところが、降りようと立ち上がった時には、左膝が痛くて歩けなくなっていた。
われながら驚いたが、バスに乗って膝を曲げている間に、固まってしまったのだ。
バスからなんとか降り、そこから駐車場までは200mほどしかないのに、左脚は引きずって歩くしかなかった。
やっとのことで、車までたどり着き、新潟への帰路についた。


ゴール直前の道では、強い風を受けていたことを考えると、県境に近くなると雪になるのだろうと予想した。
案の定、郡山ジャンクション辺りから雪がちらつき始め、磐梯熱海から先は雪の降りが強くなった。
県境付近は、前の車に付いていくのがやっとの気象&路面状況だった。
それらを考えてみるにつけ、いわきと新潟の違いを感じてしまった。
青空のいわきと白い雪の新潟。
好天と荒天。
改めて、好天下で育った母が、結婚後荒天下でどれだけ大変な思いをしたのか、そんなことに思いをはせていた。

母が生まれ育ったいわきの空の下を走った。
今回のダメージが大きかった自分の体を考えると、今回の母の故郷のフルマラソン挑戦は、いい時にやれたな、と思う。
これ以上年を重ねてからでは、さらに厳しかったことだろう。


母へ。
私が、小さいときに苦労をかけてすみませんでした。
でも、今生きている私は、定年退職までちゃんと勤められたし、60歳でフルマラソンに挑戦し、貴女の故郷を走りましたよ。
子どもの頃、体が弱くて運動も苦手だった私が、こうしてフルマラソンを5時間以内で完走できるくらいの大人として、人生を送っています。
どうか、これからも私と家族を見守っていてください。


貴重な機会を与えてくれたいわきサンシャインマラソン。
お世話になりました。
今回、私に関わってくださった皆さん、本当にありがとうございました。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする