阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

長崎「焼き場の少年」広がる共感 原爆「悲しみ」を発信  [長崎県]、西日本新聞。   映画「TOMORROW 明日」

2024年08月09日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ


長崎「焼き場の少年」広がる共感 原爆「悲しみ」を発信  [長崎県]、西日本新聞
2018年08月15日06時00分 (更新 08月15日 06時20分)

原爆投下後の長崎で撮影されたとされる写真「焼き場に立つ少年」への共感が、時代や国境を超えて広がっている。

昨年末にローマ法王フランシスコが「戦争がもたらすもの」とのメッセージと自筆の署名を添えて、写真を世界に発信するように呼び掛けた

日本ではカトリック中央協議会(東京)が7月上旬に日本語版の写真カードの配布を始めると希望者が相次いだ。

唇をかみしめ悲しみをこらえる少年の姿が人々の心を揺り動かしている。


 写真は米軍のカメラマン、ジョー・オダネル氏(1922~2007)が1945年に撮影。直立不動の少年が、亡くなった弟を背負い、

焼き場で火葬の順番を待つ姿を写している。


 国内では核兵器廃絶を訴えるローマ法王の呼び掛けに長崎大司教区の高見三明大司教(72)が応じて、カトリック中央協議会が動いた。

「被爆地・長崎にいる私たちが動かないといけない」。オダネル氏の遺族の使用許可を得て20万枚の写真カードを作り、

全国の教会を通じて配布を始めた。

はがきとほぼ同じ大きさの写真カードの裏面には「この少年は、血がにじむほど唇を噛(か)み締(し)めて、

やり場のない悲しみをあらわしています」との説明文がある。


 長崎市で生まれた高見氏自身、胎内で被爆。祖母ら親族10人以上を原爆で亡くしている。法王の呼び掛けを聞いて、親族に思いを巡らせた。

被爆から6日後に亡くなった祖母は想像を絶する苦しみだったはずだ。

母の妹の1人は畑仕事中に爆風や熱線を浴び、もう1人は遺体すら見つかっていない…。

 

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「人間は私の父と母のように、霧のように空中に消されていいものだろうか」

今から78年前の8月9日、両親を長崎の原爆投下で失った人の言葉です。

映画「TOMORROW 明日」の冒頭にこの言葉がスクリーンに写しだされました。

 1)子供たちが道路でチャンバラをしている遠景に日本人の修道女が二人歩いてくる。

夜、逢引する場面の向うに墓地が見え、その中にいくつか十字架のお墓が見えている。

そして殆ど終盤にマリア像が大写しされる。

見ていてそのことにすぐ気がついた。

キリスト教の日本における布教史の中では、特別な位置を持つ長崎。

その長崎をキリスト教国のアメリカが、広島に次いで人類に対する2番目の一般市民大量無差別虐殺のターゲットにした。

歴史で原爆を習い、また、江戸以前からの日本のクリスチャンの過酷な信教の歴史を知りだしたころ、アメリカ政府は天主堂がある場所を含めて

なぜ長崎へ原子爆弾を投下したのか、自分は単純に不思議に思った。今もその疑問はそのままだ。 


街の中に普通に日本で一番キリスト教が根づいている長崎の街と長崎のひとたち。

黒木監督もそのことが頭にあったのかなあと、そのことが気になりながら映画に見入っていった。

 2)黒木和雄監督は先日、残念ながら早い死を迎えられた。その追悼のため戦争三部作と言われる作品の追悼上映が催され、

その最初の上映が1988年制作のこの映画だった。

映画は長崎に原爆が落とされた昭和20年8月9日の前日、8日の長崎市民の一日を淡々と描いている。

肺浸潤のため徴兵されなかった工員(佐野史郎)と長崎医大の看護婦(南果歩)のささやかな婚礼。

夫が出征しているその姉(桃井かおり)の出産。その妹(仙道敦子)と医大生との恋愛。そしてその両親の1日。近所の市電の運転手夫婦の日常。

捕虜収容所のB29の乗員たちの生活も。

皆にとって、7日の昨日もそうであり、9日の明日もそのように続いていくはずだった。

女学生の妹が学校から引率されて工場に向かう9日の朝、道の途中で白雲のわく長崎の空に現れた米軍機をふと見上げた次の瞬間、

画面は白と黒だけに変わり、真っ白な灼熱の空気が強く流れてくる。

そこで映画は何も語らず終わる。

この映画は始まるとすぐ、画面に文字だけが出た。

人間は私の父と母のように、霧のように空中に消されていいものだろうか
(長崎の被爆体験者の証言から)

 3)結果的に「父と暮らせば」、「美しい夏キリシマ」、「TOMORROW/明日」という制作年度の若い順とは逆の順番で3本を見たことになった。

どの映画も二十歳前の黒木監督自身の戦時体験が映画を作るモチベーションになっていて、見る順番は関係なくどれも胸のどこかに沁みこんでいく。

人間は突詰めれば 他者に対する想像力を育て、想像力を持つ者だけが人間となり、それを持たぬもの

持てぬ者は人間の形をした一哺乳類のままのような気がするが、黒木監督はきっと人間の行動に感度の高い想像力があり

、自分が生まれた時代に意味を求め、生きる意味をこれらの映画作りに託したのだと思う。

何事もなく過ぎていくと思っていても、次の日には何が起こるかわからない。それは自分の明日にも。

こんなことが通るようではおかしい、変だと言うことを、自分がそのままにしておくとその結果は必ず間違いなく誰の上にも例外なく来る。

黒木和雄と言う人は日本人だけではなく、地球上の人間にそういう強いメッセージを送り続けて生きてきた、ような気がする。

黒木和雄監督 戦争レクイエム4部作予告編

  2006年8月12日 ブログ『阿智胡地亭の非日乗』に掲載

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長崎原爆の爪痕を残していた浦上天主堂。  解体されてしまった理由は?

2024年08月09日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

一部引用・・・長崎市北部に位置する浦上地区は、戦国時代末期にイエズス会領になっていたこともあり、カトリックの信者が多い地域だった。

その後、江戸幕府のキリシタン禁教令によって、4度に渡る「浦上崩れ」という激しい弾圧を受けるが、地元住民はキリスト教への信仰を捨てなかった。

「潜伏キリシタン」として明治時代まで信徒が存続していた。

 江戸末期から明治初期に起きた「浦上四番崩れ」が欧米から批判されたことを受けて、ようやく1873年に明治政府がキリスト教の信仰の自由を認めた。

釈放された浦上の信徒たちの間で、天主堂の機運が盛り上がった。1895年にフレノ師が設計、ラゲ師に引き継がれ、20年後の1914年に完成した

これが、石とれんが造りのロマネスク式大聖堂「浦上天主堂」だ。高さ25メートルの双塔の鐘楼を備え、「東洋一の大聖堂」と謳われるほどだった。

しかし、1945年8月9日午前11時2分、米軍が長崎市の上空に投下した原爆「ファットマン」によって、浦上天主堂は、一瞬にして崩壊。一部の外壁だけが残された。

西田三郎、玉屋房吉の二人の神父と、奉仕作業をしていた信徒十数人が天主堂と運命をともにした

 画像をクリックすると本文のサイトに飛びます。

 

原子爆弾投下で破壊される前の教会

アメリカ軍撮影の長崎投下後のキノコ雲

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2024年08月09日 追記

長崎原爆の爪痕を残していた浦上天主堂。解体されて「幻の世界遺産」になった理由は?⇒こちら

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 天皇陛下が靖国参拝を中止されるようになった理由は?   富田メモ      隠居の茶話  その六   

2024年08月01日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

  2006.07.22作成、メルマガ発信。

売れない落語家の 阿智胡地亭辛好 が今日も今日とて、楽屋横の隠居部屋に上がりこみ、席亭のご隠居と毒にも薬にもならない話で盛り上がっております。
 
辛 好:先代の天皇はんが「私が靖国神社を参拝しなくなった理由」をお話になったちゅう富田メモが出てきたようですな。


それにしても、この今のタイミングで、しかも日本経済新聞のスクープちゅうカタチで出たのはおもろいでんな。

隠 居:ほう、オマエさんでもそんな風に考えるか。富田元宮内庁長官の遺族からそのことが明らかになったと書いてあるが、

そんな手帳があってその中にそういう記載があることは、昔から知る人ぞ知るやったはずやわな。

それが今なんで公表されたかはなんか意味があると思うわな。いずれにせよ、この記事を新聞のトップ一面に掲載するには

新聞社の役員間でも相当な激論があったやろうちゅうのは想像できるな。

辛 好:そらまたなんでです?これは一大スクープやさかい、ごちゃごちゃ言うことなく載せたんちゃいますの?

隠 居:せっかく、珍しくええ切り口から入ってきたとおもたのに、やっぱりな~んも考えてないなあ、オマエさんは。

ええか、こないだ経済界は経済同友会を先兵にして、政府自民党に首相の靖国参拝を中止するよう意見具申したんや。

それに対して自民党幹部から、「愛国心のカケラもないガリガリの金儲けしか考ん野郎どもが何抜かす」みたいな大反撃をくろうたんや。

要は政府自民党は経済界の言い分には聞く耳もたんちゅうのがはっきりした訳や。

そんなことも背景にあって、このままでは一方向に傾きすぎるさかいバランスを取らんと、貿易立国日本の経済活動に支障が出ると


う懸念が経済界にかなり強なってるはずや。

しかし記事掲載については、オマエさんが言うたように、問題は、元ネタが個人のメモやちゅうことと、掲載のタイミングや。

そら、トップ記事のスクープ扱いがすんなり内部決定したとはとてもおもえんで。

新聞社にも内部には右から左、言論人から営業部門までいろいろおって1枚岩ではないはずや。

これを載せるちゅうことはある意味、コイズミはんを見捨てて、しかも次の後継者にもあるメッセージを出すことやわな。

つまりは靖国問題に対して旗色を鮮明にするわけや。それをやると踏み切ったんは新聞社だけの判断やないでこれは。

辛 好:ワタエのダチの「陰謀好き」の伝八やったらすぐに言いまっせ。「これは、アメリカの陰謀や、アメリカがバックで糸引いとるで」て。

隠 居:いや意外とそうかも知れんで。こないだのコイズミはんの訪米の時、プレスリー詣でまでさせてやって

「コイズミの首相任期中の(アメリカ一辺倒の協力)へのお礼は終わり。

これ以上、中韓と日本の関係が悪化すると、これからますます拡大する中近東、イスラエル・レバノン問題に注力したい


アメリカにとって不利益やから、まず日中韓の喉に刺さった靖国問題ちゅうホネを抜いたろ」とアメリカが思うたかもしれん。

いくら財界の広報紙と言われる日経でも、日経の考えだけでこの記事はよう載せんやろからなあ。

そう言うても、これはどこにも証拠のない話やけどな。

まあしかし、結果としては、日本の民間産業界というか経済界が、外交ルートでは出来へんさかい、日経と言う新聞を使って、

中韓2国に対しこんな考えを昭和天皇は持っていた、小泉さんの考えは必ずしも日本を代表するものではないよと言うことを伝えたのは間違いないやろ。

辛 好:「陛下が参拝を取りやめるのは陛下の心の自由、私は私の心の自由で参拝をやめるつもりはない」とコイズミさんが

言いはったらしいけど、わしら庶民からすると、コイズミはんて天皇さんと自分を同じ位置においてるみたいで なんやこの発言なじめまへんなあ。

隠 居:いや、亡くなられても日本人の心象には昭和天皇はんの存在はいまだに大きいなあとワシもおもたわ。

あの記事読んだ後からコイズミさんには悪いけどが、コイズミはんがなんぼモノ言うても、

エエシの我がままお坊っちゃんが駄々こねてるようにしか聞こえんようになってしもたもんな。

遠い昔から日本では「錦の御旗」に立ち向かうと逆賊・逆臣やと言われたもんやが、

さすがに平成の御世やからそんなことにはならんやろけど。

ところでアメリカの陰謀はさておいて、一国の首相を一夜明けたら突然ピエロみたいな状態にするやなんて

冗談にしては結構キツイ冗談やで、今回のこの一連の動きは。

辛 好:いや、コイズミはんはコイズミはんらしうゅに、心の自由は誰にでもあると最後までガンバリはると思いまっせ。

そら、お役目ご苦労さんと他国に首相がピエロにされて終わるようでは、情けないもん。

隠 居:ところで話が長ごなったが、今回の茶話はこれでオチもお笑いもなしで、「しょうことなし」に終わるんかいな。

辛 好:そら本線が 「証拠のない」話しやから仕方おまへんワ。

           お後がよろしいようで。


参考:富田メモ Wikipediaから部分引用

公開された富田メモの一部は以下の通りである。

靖国神社についての発言は1988年4月28日(昭和天皇の誕生日の前日)のメモにあった。一連のメモは4枚あったとされ、

そのうちの4枚目にあたる。

「前にもあったが どうしたのだろう 中曽根の靖国参拝もあったが 藤尾(文相)の発言。

=奥野は藤尾と違うと思うがバランス感覚の事と思う、単純な復古ではないとも。

私は或る時に、A級が合祀され その上 松岡、白取までもが

筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 

易々と

 松平は平和に強い考えがあったと思うのに 親の心子知らずと思っている

だから 私あれ以来参拝していないそれが私の心だ」

※「易々と」の左側の位置から「そうですがが多い」「全く関係者も知らず」の2行が縦書きで書かれている。

メモは、「私は或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」と記している。

松岡は日独伊三国同盟を締結し、A級戦犯で合祀されている元外務大臣の松岡洋右、白取はこれもA級戦犯で合祀されている

元駐イタリア大使の白鳥敏夫、筑波は1966年に旧厚生省からA級戦犯の祭神名票を受け取りながら合祀しなかった

靖国神社宮司の筑波藤麿とみられる。

昭和天皇は、筑波宮司がA級戦犯合祀に慎重であったのに対し、筑波が退任後、A級戦犯が合祀されたことに懸念を表明し、

その中でも松岡洋右と白鳥敏夫までもが合祀されたことに強い不快感を表明した。

メモは、さらに「松平の子の今の宮司がどう考えたのか」「松平は平和に強い考があったと思うのに」と記している。

「松平」は終戦直後の最後の宮内相の松平慶民。「松平の子」は、長男で1978年にA級戦犯を合祀した当時の靖国神社宮司・松平永芳とみられる。

「親の心子知らずと思っている」として、松平慶民は合祀に慎重であったのに、

その子供である松平永芳が、「易々と」合祀してしまったことに対して昭和天皇は強い不快感を表明した。

末尾には「だから 私あれ以来参拝していない。それが私の心だ」と記述されている。

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 神戸市東灘区から兵庫県揖保郡の「綾部山の梅林」を見に行った。     2002年3月            日本あちこち記から  その6  

2024年07月31日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

このところ、綾部山(兵庫県揖保郡御津町)の梅林のことを神戸新聞が盛んに紹介するので、

かなり前に行った事がある同じ御津町の室津やその先の赤穂御崎にももう一回行くことにして梅を見に出かけました。

43号線のセルフのスタンドで給油をした後、阪神高速でなくそのまま国道2号線を走りました。

須磨を過ぎると、山と海の間の狭いゾーンにJR山陽本線、私鉄の山陽電車、国道2号線の3本だけが隣り合って走っている個所があります。

外には何も通る余地はなく狭いエリアにこれしかありません。戦時、交戦相手国がここに爆弾を落とせば、一発で日本の東西の物流の大動脈を

ぶちきる効率のいい場所だとここを走るたびに思います。

暫く走ると明石ですが、明石ではいつもなら「魚ん棚(ウオンタナ)」に行き、昼網のトレトレの魚か鯨専門店で鯨肉を買って帰るのだが

今回は寄り道なので断念し、これも外したことはない駅前から浜側へおりた「きむらや」の<玉子焼>をテイクアウトで買い、車の中で食しました。

やはりウマイ。カカーナビも私も大満足で折りの中身を変わりばんこに食べました。


この他所でいう「タコ焼き」を漬け汁にひたして食べる<明石の玉子焼>は「明石浦の地タコの生きのよさ、つけ汁の珍味、卵白と黄身の

ミックスには元祖としてきむらやの貫禄十分で名物としての舌覚味あり。」と包み紙に地元紙の昭和初期の記事が印刷されている惹句どうりで、

これまで一回も裏切られたことがない。

この店の大ダコの足のおでんも軟らかさと味の良さで外では食べられないが、今回は遅い朝飯で家を出てきたため、無念ながらパスした。

明石からは県道718号とそれに続くR250を行きました。

沿線にはダイセル、日本触媒、多木肥料、アースなどの工場があり、仕事で昔行ったことがある会社も出てきました。

この沿線は百年ほど前までは白砂青松の海岸だったのでしょうが、今は工場と住宅、マンションと畑、たんぼが無秩序に連なり

川端康成の「美しい日本である私」はどこやねんという感じです。

会社同期の友人野本夫妻の在所の高砂/曽根を通る時にメーターを見たら丁度家から60kmで、新日鉄広畑の正門前が80kmでした。

結婚式でよく謡われる謡曲の「高砂や、尾上の松の・・・」は高砂あたりが舞台で、高砂市を通過する時に大きく

「ブライダル都市高砂」と看板が出ていたので、市も頑張ってるやんと思いましたが、今日びどれだけの人がわかるんやろうとも・・・。

昔の街道跡の道を、山陽電車のレールと平行して走ったり、古い商店街を注意して走ったりして国道250号を姫路、網干をすぎ新舞子の綾部山の梅林に着きました。

一目2万本という宣伝文句をあまり信じてなかったのですが、行ってみて一山全て梅林というスケールの大きさとむせ返る梅の芳香に驚きました。

ここまで凄い梅林は始めてでした。


◎梅林は 幹の太い沢山の古木が良く手入れされていて、てっきり江戸時代からの梅林かと思ったら昭和43年に農林省の何かの補助金をうまく利用して、

土地の人たちが、梅の実を採集する組合をつくり梅の植林からスタートしたとのことでした。ゴルフ場で使われているカートのレールが斜面に張り巡らされ、

手入れの道具、肥料などの運搬に使われ、良く見ると給水パイプも全山に敷かれていました。


「桜切るバカ、梅切らぬバカ」といわれるとおり、よく手入れがされていて枝がバランスよく裁断され、また高さも低くトリミングされていて斜面に立つと丁度目の高さに、

白や紅やピンクが織り込まれた絨毯が見渡す限りひろがっていました。

知らなかったが、相方によると実がなるのは白い梅とのことで、なるほど 8:2くらいの割合で白梅が多かった。

山の下から上まで梅の芳香に包まれて上っていくと、黒崎の市街地や塩田あと、そして新舞子海岸のある瀬戸内海が視野に入ってきて春霞の中に雄大な眺めが広がりました。

充分堪能して、 ここで取れた梅で作られたウメ缶ジュースをサービスでもらい、おいしく飲み干し、室津に向かいました。

2002年3月記。画像は全てネットから蒐集

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「戦争とマスコミ」   「ジャーナリズム」の本質

2024年07月30日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

2006年07月28日(金)ブログ「阿智胡地亭の非日乗」掲載

▼「ジャーナリズム」の本質

 従来、日本では「マスコミは、政府から何の規制も受けずに報道している」というのが「常識」で、その常識からすると、

日本のマスコミが政府の意を受けてレバノン戦争のニュースの扱いを小さくしていると考えるのはおかしい、ということになる。

だが、911以来、日本にとっての「お上」であるアメリカが戦時体制を続けていることから考えて、今では日本のマスコミの上層部が、

日本政府から何の「アドバイス」も受けていないとは考えがたい。

 世界的に見ると、ある国が戦争を始めたら、その国のマスコミが戦争に協力した報道を行うことは、半ば義務である。

マスコミが政府の戦争に協力しなければならないのは、公的な組織として、抵抗しがたいことである。

 マスコミ業界の世界的な中心地であるアメリカでは、マスコミは、開戦後に戦争に協力するだけでなく、

政府による戦争開始の策動に協力してきた。


アメリカのジャーナリズムの賞として世界的に有名なものに「ピューリッツァ賞」があるが、この賞を作ったジョセフ・ピューリッツァは、

1898年にアメリカとスペインの戦争(米西戦争)が始まる原因を作った人である。

 米西戦争は、当時スペイン領だったキューバに停泊中のアメリカの戦艦メーン号が何者かによって爆破沈没され、

これをピューリッツァの新聞「イブニング・ワールド」などのアメリカのマスコミが「スペインの仕業に違いない」と煽り、開戦に持ち込んだ戦争である。

メーン号が沈没した理由が、故障による自損事故だったことは、後から判明した。

 この米西戦争開始の経緯を見ると、アメリカのマスコミが政府の肝いりで「イラクは大量破壊兵器を持っているに違いない」と煽って開戦に持ち込み、

後で、実はイラクは大量破壊兵器を持っていなかったことが分かったという、105年後の2003年に起きたイラク侵攻と、ほとんど同じであることが分かる。

 ピューリッツァとその後の同志たちが巧妙だったのは、自分がやっていた扇動ジャーナリズムを、

洗練された知的で高貴な権威あるイメージに変えることを企図し、成功したことである。

ピューリッツァは、ニューヨークのコロンビア大学に巨額の寄付を行い、ジャーナリズム学科を創設した。

今では、コロンビア大学のジャーナリズム学科は、ジャーナリズムを学ぶ場所として世界最高の地位にあり、ピューリッツァ賞は、世界最高の賞となっている。

「ジャーナリスト」は、世界中の若者があこがれる職業になった。

 しかし米西戦争からイラク侵攻まで、「人権」などの一見崇高なイメージを使って敵方の「悪」を誇張し、

自国にとって有利な戦争を展開することに協力しているアメリカのマスコミのやり方は、巧妙さに磨きがかかっただけで、本質は変わっていない。

(ベトナム戦争では例外的に、アメリカのジャーナリズムが自国の政府や軍を批判したが、これは、米政界内で、冷戦派と反冷戦派が暗闘していたことと関係している)

 人々が、マスコミによるイメージ作りに簡単にだまされてしまう状況も、105年間、ほとんど変わっていない。

むしろテレビがお茶の間を席巻した分、昔より今の方が、人々は世界的に、より簡単にだまされてしまう状況になっている。

上記は「田中 宇」clickの7月25日付同題の記事からその一部を引用しました。 

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2024年7月30日追加

ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングは、ナチス・ドイツの政治家、軍人。ナチ党の最高幹部で総統アドルフ・ヒトラーの後継者であった。

ドイツ空軍総司令官であり、軍における最終階級は全ドイツ軍で最高位の国家元帥 。 第一次世界大戦でエース・パイロットとして名声を得る。

 ウィキペディア

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松坂選手の会見に見る、日本とアメリカのスポーツ記者の質問の仕方の真逆            

2024年07月29日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

 (2007年04月22日(日)のブログ「阿智胡地亭の非日乗」に掲載)

MLBの日本版のコラム(2007年4月19日付)でこのタイトルの興味深い記事を読みました。書いたのは<ジェフ・ゴールドバーク>という人です。

・・前略・・

その日、松坂の会見は日米のメディアが合同で行った。マリナーズ戦のときは最初が米国、次に日本と分けられていた。

だから松坂にとっては、日米の両メディアから黒星について訪ねられたのは、あのときが初めてだ。

そして偶然というか、両国のメディアが興味を示したのはただひとつ、押し出しを含む3四球を与え、2点を失った4回のピッチングについてだった。

この件については、私を含む2人の米国人記者が質問をした。

一方、日本人メディアの質問の大半は、松坂が好投した部分に集中していた。

 我々、米国のメディアは、批評することを重視している。

それに対し、我々以上に松坂と親しく、話す機会の多い日本のメディアは、選手の批評や批判は好まないのだろう。

または、会見はそういったことを聞く場ではないという認識なのかもしれない。・・後略・・


「日本のメディアは、選手の批評や批判は好まないのだろう」

この表現はいまの日本のメディアの本質を現している言葉だと思った。

 スポーツだけでなく政治家、議員、行政など全ての取材に批評や批判の視点がない。

米飯や山食パンでなく砂糖とチョコレートをかけたケーキやお菓子などジャンクフードの記事で満足している我々日本の読者と、

固くて辛い記事を望むアメリカの読者の差が日米のメディアの差を作っているのかもしれない。

つまり取材する側とされる側の一種の談合結果の記事が蔓延しているのは芸能記事だけではないと思う。

日本のメディアそのものも「新聞宅配制度」の維持などで業界談合をしているし、

この島国では「シマ」うちに入らない・入れない人間は談合の食いものにされる対象にしか過ぎないのかも。

「談合国家日本」ではどの分野、業界でも“シマウチ”に入ることでしか生存の保険はかからない?

アメリカにdice-Kの取材で出かけている各社のエリート記者さんも取材の舞台がアメリカであっても取材の中身を知ると、

日本の「野球業界のシマウチ」から一歩も出ていないのがおかしい。

   

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大阪・九条の茨住吉神社の祭礼で、獅子舞が「伍久楽」にご祝儀躍り込み!!   11年前の今日 2013年7月25日の本ブログに掲載

2024年07月25日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

動画で大阪の下町の祭礼の雰囲気をどうぞ。

 獅子舞が躍り込んだ大阪市西区九条の「伍久楽」のハモ料理はおいしかった。このあたりは昔日は松島遊郭で鳴らした場所ですから、

吉原などと同じで旨いものを喰わせる店が多くあったのだと思います。「伍久楽」はその伝統を引き継いでいる店かもしれません。冬はフグ鍋もいいそうです。

 ハモシャブは初めて食べました。






 

トップの画像は松島料理組合のネームプレートが掲げられている、昭和30年代以前の松島新地の雰囲気を残す街中に消えていく、

もとい、通り過ぎていくだけの大椎会の会員たち。

九条は元々、長田駅で近鉄線と相互乗り入れで奈良と大阪市内をつなぐ地下鉄中央線の駅があり、

最近になって神戸と大阪の難波をつなぐ阪神なんば線の駅も出来たことから人口も増えているようです。

 私は九条には映画館のシネヌーヴォに映画を観に行く時の、阪神御影から尼崎で乗換えて九条へのルートで神戸から往復しました。

梅田回り本町乗換で行くより時間も短縮、交通費も安いというありがたいルートです。

「伍久楽」へ案内してくれたのは、大椎会の会員で水耕栽培のプロ作田光水こと野本さん。

 「水耕栽培による家庭菜園」はこちら

◎ 京阪神交通路線図

阪神なんば線

大阪市営地下鉄中央線

◎松島遊郭とは。(Wikipediaから部分引用)

松島遊廓(まつしまゆうかく)は、明治時代に築かれた遊廓、赤線。通称は「松島新地」。江戸時代の新町遊廓に代わる大阪の新たな遊廓として、

木津川と尻無川 の当時の分流点である寺島(現在の大阪市西区千代崎1丁目・2丁目)に明治に成立した。

以後、市電の便もよい松島は歓楽街として繁栄し、周囲の九条新道も都心有数の商店街として栄えたが、戦争と大空襲でその面影も消えたが、戦後はいわゆる赤線として復活した。

同じ松島とよばれているが位置は若干異なり、現在の西区九条1丁目・本田2丁目が中心となった。しかし1958年の売春防止法施行で名目上は廃止された。

 「松島」の名の由来は当時そこに樹齢300年とも言われた松の木があり、それが寺島の先(現在の松島公園の北端あたり)にあったことから「松が鼻」と呼ばれていた。

また当時の名前の寺島の一文字ずつを取って「松島」と命名された。(『松島新地誌』松島新地組合・1958年)

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北山杉と聖者が街にやってくる。その2    2002年8月        日本あちこち記から  その5      

2024年07月22日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

ペンションに行くには8年ほど前に行った 藁葺き屋根の家屋が多く残され今は里山の伝統的農村として維持されている

美山町へ入る直前に27号線で和知町を通る。

 この27号線は由良川に沿って走るが、道沿いの4、5キロにわたってなだらかな山の斜面に大小さまざまな農家がいい間隔で点在し、

甲州か信州を中央線の車窓から見るような風景だった。

走行する車も少なくゆっくりこの空間を楽しみながら走ったが、京都府にこんなところがあるとは知らなかった。


道の駅「和ーなごみ」で昼飯にした。

蕎麦定食と鮎の塩焼きを頼んだ。期待した以上の味で殆ど満員の席の理由がわかったような気がした。

「道の駅」というものの存在は、今から5年ほど前に、兵庫県と鳥取県の県境に近い新戸倉スキー場にある友人の野本君の山荘に誘われて、

中国道の山崎インターで下りて一般道を北上して走った時に知った。

要は一般国道のサービスエリアにあたり、当時の建設省の補助金を受け、市町村が事業主体になって建設、運営をしている車の旅人のための休憩所である。

パーキングエリアとトイレ設備に地元産品の販売店と食堂が併設されている。

最近は殆どの「道の駅」は業者に丸投げ委託で運営されるようになり、売っているものも野菜や果物の

農家直売品以外はいかにも土地のもののように見えるが、実際は大量生産の業者品が多くなっている。

ところが、この地の「和」という「道の駅」はレストランも土地の女性たちが勤め、店の産物も垢抜けないが

この町で作られた物が多く、鮎の甘露煮、黒豆羊羹、蕗の薹の佃煮などつい沢山買物をしてしまった。

ここは、いままで中国、四国、近畿地区を含めて訪れた「道の駅」の中でベストの駅だった。

◎ペンションからそう遠くないところに「北山杉資料館」があった。

北山杉の植樹から育成、伐採、床柱までの製品化の過程がパネルや実物で展示してある。

主として数寄屋造りの磨丸太や茶室などに使われた高級床柱も、今は需要がどうなんだろうと思いながら見てまわった。

室町時代から全国の分限者、御大尽、旦那衆が珍重した日本文化の粋の一つだったのだろうが、

戦後の嫉妬の税制のお陰で世界で唯一の社会主義国家となった日本で、そのユーザー層が数少なくなり、

こういう製品を購入する需要がどれだけあるのかと思ってしまった。

10数年前まで多くの皇族が見学されたようでそのおりの写真も沢山置いてあった。

江戸時代からこのあたりの村の人達は男女共に分業化し、このブランド化した製品で日本全国へ

販路を広げていたようだ。 京都ブランドは当時から価値があったのだろうと思った。

◎帰りは周山街道を次に高雄へ走り、何十年かぶりに神護寺に参拝して「嵐山・高雄パークウェイ」に入った。




途中の展望台から保津峡を眺め、嵐山に下りて渡月橋をわたってしばらく走ったところで、街の中を「舟」が動いているのが見えた。

保津川下りの舟が終点につきトラックに三杯ほど重ねて載せられ、また亀岡の出発点まで運ばれるているのだった。

話には聞いていたが、京都の狭い街中を舟が移動していくのは不思議なみものだった。トップの画像。


◎帰りは名神が混んでいるかもわからないので171号線(西国街道)に乗った。

そのお陰で、山崎付近を走行中に「大山崎山荘美術館」がこのあたりにあるはずと思い出した。


アサヒビールが「荒廃していた元加賀家の洋館」を買い取って復元したこの美術館は、戦前の関西のブルジョア資産家の一典型の御屋敷かと思う。

天王山の南麓にありテラスから木津、宇治、桂の三川が合流して淀川になるのが見えて驚いた。

 まあ、本当に戦前の金持ち、資産家というのはヨーロッパの貴族階級とまではいかないにしても凄いもんやと実感する。

芦屋の六麓荘の広大な御屋敷街も田園調布の比ではないらしいが、ここも戦後の相続税制のため、大正時代当初の所有者の係累はもはや誰も住んでいないと聞いた。

 ◎171号線に戻って道路情報を携帯で聞くと、名神の下りは渋滞はないのがわかったので茨木インターで名神に乗り、阪神高速の魚崎ICで下りて家に帰った。

   トリップメーターは382キロになっていた。 2002年8月記。  

画像は全てネットから蒐集。

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北山杉と 聖者が街にやってくる  その1。       日本あちこち記から その4     2002年8月

2024年07月21日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

京都の北山杉を見に行くことにした。

京都府の北の京北町にある北山杉林の中の「愛宕道」というペンションに到着して、車を降り荷物を持ち、

玄関へ歩き出すとジャズバンドの生演奏らしい大きな音が聞こえてきた。

山中の一軒家のペンションだから、ここから聞こえてくるしかないが、静かなペンションと思い、

予約したのにこれは一体なんだろうと近づくと、女主人らしい人が玄関先で心配そうに待っていた。


彼女の話では立命館大学のジャズ倶楽部のOBが20数名ここで合宿しているとのこと。

中を覗くと食堂で、50代に見えるリラックスした格好の男連中が、ビッグバンドを組み、いい緊張感でかなりうまく演奏している

女主人が心配そうに、やかましいと思われるようだったら、今晩の宿泊はキャンセルしてもらって結構ですと言う。

人出も少なくなると見はからって8月17、18日の2日間、京都府の北部をまわることにしたのだった。

神戸から名神を使って京都に入ると、まだ混んでいるかも知れないので、逆ルートで福知山から美山町を経由して京北町に入り一泊。

翌日、周山街道を走り北山杉を見て嵐山高雄パークウェイ経由で京都市内に入ることにした。

 福知山へは中国道経由高速道路の舞鶴道に乗れば早いが、六甲トンネルを抜けて三田から無料かつ走りなれている地道のR176を走った。

時折舞鶴道の橋脚の下を通りながら丹波篠山地域を通過し丹南町、柏原町を道の両側の濃い緑の山並みに包まれて走る。

福知山の手前で三和町に右折し,田舎道や山道をあっちだ、いやこっちのはずと例のごとくカカーナビと争いながら何とか目指すR27に入った。

車に滅多に会わないどんな田舎を走ってもきれいに舗装された鏡のような広い道路があるので、田中角栄さんの「土建国家日本」政策の成果を実感する。

どの農家も大きく立派で瓦屋根が光り、日本の農家は残った長男が戦前と違い相対的に余裕のある生活をしているようにも見える。

それもこれも都会へ出て遠距離通勤で苦労したり、劣悪な住宅条件で都会に住む、サラリーマンになった次、三男から源泉徴収された税金が、

地方優先で使われていることにあるのかも知れない。

いまさら、別のところを紹介されてまた、でかけるのもしんどいし、聞くとある水準の演奏レベルみたいだしジャズは嫌いではないので、

予定どおりこのペンションに泊まる事にした。

予定通り泊まることにするとペンションの女主人に言うと彼女は喜んだ。そして彼女の娘さんが二階の部屋に案内してくれた。

部屋は候補が二つあって、一つは川に面したいい部屋らしかったがホール(食堂)の真上というのでこれは断って、ホールから一番遠い山に面した部屋にした。

食事は合宿メンバーと一緒で賑やかだった。リーダーらしい人から、メンバーが飲んでいたポートワインを大きなグラスにたっぷりついで回してきた。

ご迷惑をかけているのでと。ありがたく頂いたがおいしい。聞くとポルトガルで2週間前に買ったものだとのこと。

女主人との会話やみなの話を食事をしながら聞くともなく聞いていると、高松や和歌山など結構遠方からも参加しており、

まだ現役の銀行の支店長や商社マン、商店主などが年に一回こうしてOB合宿しているようだった。

駐車場の車も軽四、ボックスカー、クラウンから外車までバラエテイに富んでいた。

卒業して20数年たってはじめ、今年が4回目とのことで、最初はハチ高原のスキー宿でやっていたそうだ。

学生の音楽関係の夏季合宿は、殆どが信州のスキー場の宿屋や民宿を使う、

周囲に大音声が響いてもどこからも文句が出ないし、安くて涼しいからだとのこと。

30年近く前にジャズバンドを大学のクラブ活動ではじめて、いまだにこうして集まって楽しんでいる。

心底いいなあと思った。ほぼ同世代の人達が自分達のアマ演奏を楽しんでいるのを見て、日本も一面いい国になったなあと思った。

楽器を演奏できる人がほんとに羨ましい。いずれピアノに挑戦と先日も「オジサンのピアノ独習」だったかのNHKテレビのテキストを

本屋でみかけ衝動買いしたところだ。

質量ともに文句のつけようのない夕食(市内の下手な京料理よりはるかにおいしかった)を済ませて部屋に戻ると、下から調子合わせの音が聞こえてきた。

時計を見ると8時で夜錬がはじまったらしい。

心配したほど音はやかましくなく、メンバーに適度にアルコールが入って、気持ち良くスイングしている「聖者が町にやってきた」が、ボーカルつきで流れて来た。

持ち込み禁止のウイスキーを、旅行の時はいつも持ち歩いているスキットルからコップについで飲む水割りが一段とうまく感じられた。

まあ、ある技量の人が残っているのだろうが、年に1回必ず三宮の国際会館ホールへ聞きに行く、

「北野タダオとアロージャズオーケストラ」の演奏まではいかないにしても、プロに近い腕前のビッグバンドジャズの生演奏を何曲も、

京都の北山杉の山中できかせてもらうとは思ってもみなかった。

昨夜は随分遅くまで練習をやったと言っていたが9時には演奏も終り、こちらは専属運転手としての疲れもあって知らない間に寝ていた。

その2へ続く。 2002年8月記。

    画像は全てネットから蒐集。

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 神戸から兵庫県宍粟市の「福地渓谷」へドライブ旅行。    日本あちこち記から  その3 2002年7月。

2024年07月18日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

7月のある週末、兵庫県宍粟郡一宮町の福知渓谷}clickに行きました。赤目四十八滝に遜色ない美しさでした。


田辺聖子さんが30年前から所有するという山荘のすぐ横にある「清流山荘」という所で一泊し、にじマスの刺し身、ヤマメの煮付けなど食べました。

以前 瀬戸内海がある近畿では川魚を殆ど食べないと書いたことがありましたが、兵庫県は瀬戸内海と日本海の二つの海に面した地域以外の

真ん中の地区は殆どが山岳、森林地帯です。鮎やヤマメ、アマゴなどを昔から産し、良く食べられているので訂正します。


翌朝、細い山道を走り高原に出て、しばらく走ったら大河内町というところへ出ました

ここに上流の太田ダムと下流の長谷ダムの二つのダムが有り、道が関電の大河内発電所clickというところに入り込みました。

山の中腹の洞穴の中に発電所の心臓部の見学コースがあり参加したら、構内の天井に大きな天井走行クレーンが2基設置されていました。


吊り上げ能力375トンという大型天井走行クレーン2基で銘版に大きく見慣れた文字がありました。

 発電機を据え付けるための工事とメンテ用のクレーンです。

港湾クレーンなら屋外なので見かけますが、天井クレーンは屋内に設置されるので、縁があった会社の納入機を見るチャンスは滅多にありません。

しかもこのような大型天井走行クレーンの納入機を見たのは初めてです。

これを受注、納入した川上さんや青井さんの顔を思い浮かべながら、

あいかたに、昔 席を置いた事がある部門の製品だよと自慢しながらビデオにしっかり納めました。


帰りは佐用インターまで足を伸ばし、南光町で今売り出しの「大ひまわり畑」を見ました。

まあすごい規模で一見の価値有り。あれだけひまわりが揃うと恐ろしいくらい。

2002年7月記。☆画像はネットから蒐集。

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神戸から徳島県・脇町と淡路島ドライブ旅行。   2002年1月。 日本あちこち記から  その2

2024年07月07日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

奈良の橿原に今井町という豪商の住んだ街並みがありますが、今もほとんど江戸時代当時
そのまま残っており、人が生活しています。
ここは一種の宗教武装都市で堺と同じ堀をめぐらした自治都市でした。

山口県の柳井市にも江戸時代からの豪商の家が並ぶ白壁通りが保存され、その中でも有名な
国森家は10何代目かの当主が学校の先輩で、今柳井市に協力して観光客誘致の中心人物
として頑張っておられます。
前に訪ねた折り、運良く国森さんが在宅で屋敷の隅々まで案内をしてもらいました。
家の構造や防火や防犯の構造も詳しく教えてもらいました。

元首相の池田勇人が出た広島県の竹原にも小京都といわれる一画が保存され、
(山口県の萩と同じように)武家屋敷がそのまま沢山残り、頼山陽の生家やニッカの
創業者竹鶴さんの生家(今は竹鶴醸造という造り酒屋)がその中にあります。
このエリアには昔は侍階級しか入れなかったのだろうと思いながら、歩いたものです。

いずれも以前に機会をみつけて訪ねましたが、今回年が明けて徳島県の脇町という
江戸時代の「うだつが上がっている町並み」を見に行きました。

1)六甲山トンネルを抜けるとすぐに阪神高速北神戸線の唐戸ICがあり、
ここで高速に乗ると家から30分で明石大橋に入ります。
淡路島を縦走し、鳴門大橋をわたり鳴門ICで一般道に下り、脇町へ行く前に板野郡土成の
「たらいウドン」で昼飯にすることにしました。高速の徳島道に入らず地道を行くので、頼りはいつもの
カカーナビしかありません。このナビは音声指示と手の指示が正反対だったり、音声装置に
気分によりバラツキが出たり、指示に従わないと言って怒ったりして道中結構大変ですが、
いまさら最新の機種に買い替えはしたくても出来ませんので、素直に従うしかありません。

2)途中、泉谷という地名があったり、6番、7番、8番の巡礼のお札所を過ぎ、細い道や裏道を走り、
カカーナビのお陰で土成の「松乃家」というガイドブックに出ている店に何とか辿り着きました。
時期が時期だけに客は近隣の家族連れと見える人達だけですいていました。
シーズンには沢山の観光客が来るようで、広い座敷がある棟がいくつも川に面していました。
残念ながらお目当ての「たらいウドン」は讃岐高松のウドンに完璧にはまっている私には
コシもツユも、もう一つでした。

3)ここで一休みして、途中の阿波町の「土柱」も見ていく事にしました。古い砂礫層が長い間の
雨、風に侵食され何十本の土の柱状になっていました。案内によるとロッキー山脈、
チロル地方とここだけに見られるとありましたが、そう大した規模ではなく「ああそうでっか」
という感想です。

土柱は高速徳島道の阿波PAから歩いて7分のところにありますが、これを見てから
高速には帰りに乗ることにして、脇町までは節約してまた地道を走りました。

4)脇町は今は町の中心から離れていますが、江戸中期は阿波藍の集散地として発展した
城下町の藍商人の町でした。城主は蜂須賀家の第一家老の稲田氏です。
今は吉野川から300mほど離れているが、当時は脇町の豪商の家のすぐ裏が川で、船が
直接つく船着き場が残っています。通りは両側に本瓦葺、漆篭め壁の商家が軒を連ね、隣の家との
境の二階には「うだつ」という火よけ壁をつけている家が多くあります。


この「うだつ/卯建」を設備するには、かなり金がかかるものだったらしく、「うだつ」がない家を
「うだつ」が上がらん家と言ったとか。

知らなかったけれど司馬遼太郎が脇町を訪れ「街道をゆく」シリーズの中に取り上げていることが
案内されていました。

町はおそらく「うだつ」のおかげもあって大きな火事もなく今に残ったのでしょう、思ったより細い
大通りは江戸時代そのままという感じでシンと続いていました。

重要伝統的建造物群保存地区に指定され、大きいが暗くて寒そうな昔のままの家を見ると
今もここに住む人達の日常の生活の大変さを思いましました。
木曽の馬篭宿に行ったときにも同じ事を感じましたが。
ほんま今の若い人でヨメさんの来てがあるんかいなという感じです。勿論家の中は今風に
変えているでしょうが、出来てから250年もたった家に住むのはヨーロッパの都市では
当たり前だけれど、日本の木造建築のイエの概念で言うとエライことやろなと思うしかない。


はじめて訪れた土地の印象はその日の天候、空の色に大きく左右されます。
1月の寒空の下で観光客も数えるほどということで寂しい町やなあと思いましたが
春か秋にくればまた、違うかも知れないと相方と話しながら車をスタートさせました。

帰りは薄暗くなった脇町ICから徳島道に乗り、がら空きの高速を今夜一泊の淡路島
南淡町を目指しました。

次回は福良港で養殖されているフグ(これが抜群にうまかった)と黒岩水仙郷の
丁度見どきの水仙群落と南淡町から洲本市への海岸沿いの素晴らしい景観を・・・

阿波ナビのサイトから:
  うだつが上がる白壁のまち
江戸中期より、一世一代の夢をかけ藍に沸き、繭に栄えた商いの町・南町通りは、吉野川の水運に恵まれ、その積出し港として栄え、
一時は百を超える藍商人たちが栄華を極めた。連なる家並みは、ありし日の豪商たちが家運の隆盛を顕示する象徴としての「うだつ」
(本瓦葺き塗り込み壁の重厚な表構えに、隣家との境に2階の壁面から突出して作られた袖壁で、瓦を連ねて葺き、家紋入りの豪勢な鬼瓦をのせたもの。
隣家の屋根との見切りや防火に役立つが家格の象徴ともなり、「うだつが上がらぬ」といった言葉がある)が風雅な格子戸や白壁の土蔵と相まって、
今なお当時の隆盛を物語っている。この町並みが、昭和63年12月16日に全国で28番目の重要伝統的建造物群保存地区に選定された

 ☆画像はネットより引用。

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神戸から奈良・吉野へのドライブ旅行。   2001年8月      日本あちこち記から  その1

2024年07月03日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

 ◎この夏休みに、奈良の燈花会(とうかえ)を見に行きました

奈良には家から湾岸高速線経由大阪市内を高速道路で抜け、生駒トンネルをくぐり、神戸から一時間で行けることがわかったので

このところ、すっかりナラフリークになりました。

燈花会は今年で3年目だそうですが、夕方6時半頃から春日大社や浮見堂、

猿沢の池など4ヶ所をキャンバスにして沢山のロウソクを灯した静かな光の絵画でした。

(手を打てば 鯉は餌と知り 鳥は逃げ 女中 茶と聞く 猿沢の池)

という仏教のありようをある高僧が喩えて詠んだという歌を思い出しながら
猿沢の池に逆さに映った興福寺を眺めました。

沢山の観光客の中に外国人が多いのには驚きます。

 夜なのに小鹿を連れた鹿も人に交じり一族総出演で参加していました。

大仏殿がライトアップされ、南大門から大仏殿をあおぐと、大仏様のお顔が、
そこだけ窓のようにくり貫かれた空間に浮かび上がり、

彼はなるほど美男におわすと実感しました。

 ◎奈良に一泊した翌日、榛原町、明日香村を経由して吉野へ回りました。

吉野川の河原はえんえんと続く鮎の釣り人とキャンプ、水泳の人達で賑わっていました。

途中、マップで見つけた店で天然鮎のさしみと焼き物を食べましたが、絶品でした。

吉野山の金峰山蔵王権現や吉野神社にお参りし、役の行者や南朝の皇族方のゆかりの建物をあちこちまわりました。

桜の季節を外れているので観光客も少なく、ゆっくりと見てまわりました。

ここでもう一泊し、宿の露天風呂で吉野山の夏の緑を堪能しました。

◎吉野川から紀州に入って名前が変わる?紀の川沿いに下って粉河寺、根来寺に寄りました。共に立派な荘厳さを感じる古刹でした。

根来寺に往時の鳥瞰図がありましたが、僧坊が六千近く描かれており壮大な規模だったようです。

この根来寺一帯も秀吉の紀州攻めで、数日にして一山灰塵と帰してしまいました。

思うに雑賀衆がこの地に独立国をつくったかっこうになり、この寺が一国の首都であり、行政府の中心であり僧兵軍はこの国の軍隊であったのでしょう。

全国統一を目指した秀吉から見るとそのまつろわぬ独立性は許せなかった。

焼き尽くし殺し尽くされた後はもう復興できず、紀州徳川の時代には廃虚に近いものになっていたようです。

ジンギスカンの軍隊が通り過ぎた砂漠の王国に今は白骨が残るだけと同じように

銃を持った数十人のスペイン人に国自体を消され、今遺跡となったインカ帝国のように。

自らになびかぬ集団を地上から抹殺せずにはおれない・・人間にとって一番恐い動物は人間なのかもしれません。

それにしても奈良、京都の豪壮な寺々、根来寺や粉河寺などを見ると、昔の仏教は、支配階層の道具立ての一つとしか思えないくらい凄いものです。

ヨーロッパのあの多くの大聖堂も同じなのでしょう。

代が下るにつれ宗教の(組織の、集団の)創始者が目指したものと全く違うものに変質する・・のでしょうか。

葬式宗教に落ちた今の大多数の日本のお寺さんはまた、別物ですが。

◎その後、泉南インターで阪和道にのり、湾岸線に入り関西空港を横目にしながら120kmで飛ばし家に帰りました。

神戸→大阪経由→奈良→吉野→和歌山県→大阪府→神戸 と285.4kmのドライブでした。   2001年8月記。

 1997年に中古で買ったトヨタのコロナ。価格は100万円丁度でした、1995年製のこの車の最初の所有者は島根県のお医者さんと聞きました。
 買ってから走った距離は地球を二回りした88000キロでした。20年間一回も故障なしに高知、広島、信州富士見町などまでよく走ってくれましたが
いよいよ廃車処分にしました。親しい個人タクシーの運転手さんもこの車はまだまだ乗れると言ってくれていたので惜しい気もしますが
事故を起こす前にと思い決断しました。1964年(昭和39年)に取った免許証は失効するまで所有しようと思います。
 この車に感謝を込めて過去のドライブ旅行を含めて国内旅行の記録をシリーズで掲載します。   2017年10月記



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瑞應寺、 四国・新居浜市にある禅の専門僧堂 その三 (了)     16年前の今日 2008年6月26日の本ブログに掲載

2024年06月26日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

寺の域内には隅々までピーンと張った空気が流れていました。
















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 本国のインドでもう長く途絶えた仏教は、数十年前に日本の僧がインドに住み着いて再興の布教活動をしています。

インドから達磨大師が中国に伝えた禅宗徒の生き方は、ベトナムと日本に伝えられ、仏教各宗派の中で、

唯一日本化されないオリジナルの仏陀の教えとして今も続いています。

さらにベトナムの禅僧ティク・ナット・ハン師はフランスに住んで座禅を続け、彼の語る言葉は欧米人に影響を与えています。こちらにも。

 学生時代から一年365日、毎朝の座禅を続ける富田林市の山内さんから、私も毎日の座禅を勧められて長いのですが、

思い出したように時折座るだけの縁なき衆生で終りそうです。

【お寺で対談⑥】ティク・ナット・ハン師からの一言 / 坐禅のやり方、指導の変化 | 禅僧 藤田一照師・臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

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瑞應寺、 四国・新居浜市にある禅の専門僧堂 その二。        16年前の今日 2008年6月24日の「Shot日乗」に掲載

2024年06月24日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

この寺から僧が近所に托鉢に出ると、どの家も用意しておいた食べ物をお布施としてありがたく捧げるのだそうです。

お寺には幼稚園もあって地域密着で世間様のお役にも立っているようでした。大きな木を見るのが大好きですがこんなイチョウの木がありました。



江戸時代の神仏神仏混淆のなごりでしょうか、域内に金毘羅神社がありました。





このモニュメントの謂れがありましたが撮るのを忘れました。


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中国民航の団扇   機中のプレゼント        15年前の今日 2009年6月23日「Shot日乗」に掲載  

2024年06月23日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

CAAC・中国民航と書いてある団扇が一本あります。暑くなってきたので出してきました。

 記録を見ると最後に中国へ行ったのは1983年(昭和58年)です。9月18日に出国して北京、天津、黄舗に行き、10月20日に帰国しています。

この出張の時に中国民航の機内でもらったとすると26年前のものです。(2009年当時)

(中国へは都合6回、通算95日間出張しました)まだ劣化せずに充分使えますが、これからは一応「記念のお宝」として置いておくことにしました。

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