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真冬の旧中川に水鳥が群れていた。 250119
近くのコミュニティ会館の健康麻雀の例会に参加したあと、いつもの旧中川の遊歩道に行った。
杭に並んでとまるユリカモメはずっと以前から見かけてきたが、群れで泳いでいるシーンは今回初めて見ることが出来た。
ちなみに健康麻雀は5時間ほど参加して四戦したが 三着2回 トップ2回で トータルはプラスだった。
このところ三回続けてトータルプラスは嬉しい。
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真冬の旧中川に水鳥が群れていた。 250119
近くのコミュニティ会館の健康麻雀の例会に参加したあと、いつもの旧中川の遊歩道に行った。
杭に並んでとまるユリカモメはずっと以前から見かけてきたが、群れで泳いでいるシーンは今回初めて見ることが出来た。
ちなみに健康麻雀は5時間ほど参加して四戦したが 三着2回 トップ2回で トータルはプラスだった。
このところ三回続けてトータルプラスは嬉しい。
三日に地元のこじんまりした「諏訪神社」に初詣にでかけた。
諏訪神社にはご縁があって 両親の実家はそれぞれ代々信州・諏訪の諏訪大社の氏子で
私がたまたま生まれた三重県の四日市市は父親の当時の勤務地だが、四日市には鎌倉時代に諏訪から勧請されたclick諏訪神社が街の中心にある。
そして生まれてからこれまでに摂津・筑前・伊予・下総・常陸・安芸など各地で引っ越しを重ね
直近の神戸からの19回目の引っ越しで 終の棲家になりそうな江戸川区の当地には江戸時代に諏訪から勧請されたお諏訪さんがあった。
いつまでお賽銭を納められるかわからない歳になったので お賽銭今年は例年より張り込みました。
神社のサイトから引用:
神田神保町の「満留賀」から御茶ノ水駅に登る道筋の秋2412
昭和50年代に神田美土代町に通勤していた当時は このルート全くを知らなかった。まだ中央大学法学部などのキャンパスがあった時代だが
そのキャンパス跡には 現在MS海上火災の巨大なオフィスビルが建っている。
この道を登るとニコライ堂の対面に「駿台予備校」の一号館があるが、この道を歩き出してそのことも知った。
関西の高校生時代 東京で予備校と言えば知っている名は「駿台予備校」だけだったから 「ああお宅ここやったん!」と名前を懐かしく感じるのが可笑しい。
坂を上り詰めて御茶ノ水駅に辿り着くと「喫茶店 穂高」に突き当たる。店はまだ営業している。
昭和30年創業だそうだが 昭和50年代の13年間の美土代町勤務時代に入店した記憶はない。
動画の中の聖橋の上から同時に見えた赤い車両は東京メトロ丸の内線、向こうからくる黄色い車両は中央快速線 右手前はJR御茶ノ水駅ホーム。
左にパンして見えるのは紅葉が落ちた「湯島聖堂」 聖橋の下の川は神田川 YouTube画面の右下の拡大アイコンを押して大画面で走行する電車をどうぞ。
ニコライ堂から聖橋へ 年末の神田明神を訪ねた241229
押し迫ったある日 久しぶりにココナッツカレーを食べに神田小川町に出かけた。
⇒Click チャントーヤ ココナッツカリー (CHANTOYA COCONUT CURRY) - 新御茶ノ水/カレー | 食べログ
カレーのココナッツ風味とトッピングのパクチーフレーバーを十二分に堪能したあと、ニコライ堂の横を通って駿河台を登り聖橋の上で一休みした。
聖橋から見る走行する電車や神田川のシーンは外国人観光客にもよく知られているらしく何組ものグループや家族ずれが橋の上にたたずんでいた。
⇒Click 明治大学、竹むら、聖橋にニコライ堂—— NHK朝ドラ『虎に翼』の舞台、御茶ノ水・神田駿河台・神保町散歩 | i4U(アイフォーユー)
神田明神はOh散歩会の仲間と年初に参拝したので今年2回目の参拝だ。以前三が日を過ぎてから来たらその日が初出勤日だったので
会社関係者が何十組もグループで参拝待ちしており 相方と何とか門の近くまで来たがあまりの人波に恐れをなして退散してしまった。
従い彼女は今回初めて境内に入ったことになる。
境内は思ったより人は少なかったが 何組もインバウンドのグループもいて、皆 鳥居の前で軽く頭を下げてから境内に入るのが見えて感心した。
12月某日 牡蠣釜めしが食べたいとネットで総武線沿線の店を探していた相方が神田神保町の「するが台下 満留賀」を検索で見つけた。
JR御茶ノ水駅の御茶ノ水橋口で降りて神田神保町の古書店街をぶらぶらして途中の横丁に店を見つけた。
神保町の「満留賀」で釜めしと蕎麦を楽しんだ241212
13時過ぎの店内は常連さんらしいお客さんで満員だったが相席ですぐに座れた。店は家族らしい3人の女性がてきぱきと丁寧に運営していた。
牡蠣釜めしは残念ながら来週からと言われ彼女は「五目釜めし」を頼んだ。充分に時間をかけて出てきた釜めしに満足していた。
私は天せいろを頼んだ。天婦羅も神田の蕎麦そのものの蕎麦も丁寧な拵えの旨い品だった。
神保町にはなぜ古本屋が多いのか 神田神保町が古書店街になった訳
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両国のクルーズ船船着場から隅田川を眺めた
博多ラーメンで両国界隈の一番人気店が 回向院の前の交差点の対面にある。
ラーメンの中では博多ラーメンが一番すきなので12月の某日 その店で久しぶりに博多ラーメンをおいしく食べた後
両国国技館の前にある船着き場の待合室でクルーズ船のタイムテーブルを貰って一休みした。
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晩秋の東京駅241210
ポークシュニッツエル(わらじトンカツ)が食べたくて 新丸ビルの5階にあるレストラン「フランツクラブ」に行きました。
久しぶりに降りたった東京駅前に広がる風景は晩秋の装いでした。
東京中央郵便局ビルの旧局長室から
図書館に期日のきた本の返却と準備出来たとメール連絡があった予約本の受け取りをすませてから
京葉道路に出て中川新橋を渡って江東区にある回転ずしの「銚子丸」まで歩いた。
行きに中川新橋の上からみると水鳥がいた。
帰途は橋の袂から旧中川の遊歩道へ降りてふれあい橋まで歩いた。ふれあい橋のたもとで相方が「カワセミ」を見つけた。
遊歩道でカワセミを見たのも写真に撮ったのも初めてだ。
旧中川に水鳥がたくさんいた241216
「銚子丸」の寿司とアラ汁は相変わらず旨かった。
相方はセットの「亀戸五貫」を
私は「今月の五貫」をオーダー。
ランチタイムのアラ汁は自分でお椀によそって持ちかえる。無料なのが嬉しい。
歩行数 7281歩 歩行距離 4.4km
神田駅に近い鯨料理専門店『一乃谷』を出た後 御茶ノ水駅まで歩いた。聖橋から見る湯島聖堂の紅葉が美しかった。
駿河台を上がってお茶の水駅へ241130
上野国立博物館にハニワ展を観に行った241204
ハニワの説明は⇒東京国立博物館 - 1089ブログ
ところで日本列島で暮らしてきた現生人類の時代区分は日本の歴史上で次のようになっている。
そしてユーラシア大陸東部には 日本の古墳時代の600年前に作られた始皇帝陵と兵馬俑がある。現生人類は時と場所を変えて見れば実に多様性に満ちている。
「中国史上初の皇帝となった秦の始皇帝が自分の墓として紀元前3世紀に築かせた始皇帝陵は、エジプトのクフ王のピラミッド、日本の伝・仁徳天皇陵とならび、世界三大墳墓の一つに数えられます。
付近の地下の「兵馬俑坑」からは、秦の軍団の兵馬の姿をまるごと写した等身大のひとがた数千体が1974年に発見され、世界を驚かせました。」
上野国立博物館にハニワ展を観に行った241204
何体ものハニワと対面するうちに 粘土をひねって ハニワを作っている当時の陶工の貌や表情や掌がハニワの向こうに浮かんできた。
彼らの貌や手の動きや考え込むシルエットは 今の現代人と寸分もたがわなかった。
考えてみればこの間の1500年とか1600年くらいのわずかな年月差で、日本列島に住むホモサピエンス・現生人類の精神性が変わるわけがない。
(3万8000年前に日本列島に上陸
現生人類が、アフリカからユーラシア大陸に進出したのは、約5万年前、後期旧石器時代のことです。その後、インドからオーストラリアへと向かう南のルートと、
ヨーロッパやシベリアなどの北のルートを通って拡散し、日本列島に到達しました。日本列島への拡散ルートは、琉球列島経由、朝鮮半島経由、サハリン経由がありますが、
これらのルートが列島内で合流したのかもしれませんし、現在の中国あたりでまず合流し、日本列島にやってきたのかもしれません。実は、その点はよくわかっていません。
いずれにしても、日本列島にある最も古い遺跡は、3万8000年前に出現しています。また、3万8000年前に位置づけられる遺跡が、東北から琉球半島までの広い範囲に分布していますから、
この時期に現生人類の日本列島への植民が果たされたのは確実といえます。
日本列島に最初に渡来した現生人類とは? | 夢ナビ講義 | 夢ナビ 大学教授がキミを学問の世界へナビゲート)
ハニワや大刀などの説明は⇒東京国立博物館 - 1089ブログ
市ヶ谷駅の傍にある釣り堀はがらがらだった。
「市ヶ谷の杜 本と活字館」からの駅までの帰途は、行く時と違うルートを通ったが その途中のビル建設現場で 見たことのない洒落たデザインの建築クレーンを見かけた。
クレーンの操縦室キャビンのデザインがとてもモダンで この業界も日進月歩で変化しているんだなと時間の経過を実感した。
「本と活字館」では大日本印刷が印刷を請け負った出版物のコレクションも見ることが出来た。
平凡パンチの表紙絵を創刊号から担当した大橋歩clickさんは 阿智胡地亭が一年生の一学期だけ在学した三重県立四日市高校の先輩だ。
リーダース ダイジェストは 昭和20年代に父親が定期購読していたので 自分は小学生ながら毎号興味深く読んでいたので懐かしかった。
発行元がアメリカのインテリジェンス機関もかかわっていたのか 毎号必ず濃い反共記事が数本掲載されていた記憶がある。
Wikipediaから引用⇒ 「リーダーズ ダイジェスト日本版」
日本版は1946年6月に創刊された。戦後、貧相なカストリ雑誌が氾濫する中で、アメリカから輸入された紙で印刷された誌面は高級さを感じさせるものであり、
1949年頃には140万部を売り上げた[21]。誌名は『リーダーズ ダイジェスト』だが、「リーダイ」の略称で親しまれた。
当初はほとんど全体がアメリカ版の翻訳だったが、1970年代中頃から日本語版オリジナルの記事が3割ほどになっていた。通信販売の広告が非常に多い雑誌でもあった。1986年に休刊となった。
広辞苑は右上の発売されている本の二倍の大きさの紙に印刷し それを撮影し半分の大きさのページに縮小したものを印刷して製本されたそうだ。
理由はあの小さな活字を作ることが困難だからだそうだ。知らなかった。
中庭でコーヒーを飲んで一休みした。
市ヶ谷駅から館に行く途中に寿司屋があることを相方がネットで調べていたのでその店でランチにした。
まったくもって旨い鮨だった。
この寿司屋は生前の「野村克也監督」の行きつけの寿司屋だったとネット情報にあり、なるほどそのせいか
店の案内に「丹後宮津寿司」というのが張り出してあった。気持ちのいいオーナー板前さんの店だった。