日本丸の船内見学@神戸港新港第一突堤、2013-06
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進水式は本ブログに 5,6回掲載していますがclick 下記は2006年5月19日のブログに掲載エントリー
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2006年 5月17日にあった進水式の模様です。
やや雨模様のもと、大型コンテナー専用船の進水式がありました。
この船の発注者は世界でも有数のコンテナー船運用会社である台湾の会社「Evergreen Marine Corp.」です。
船名の[Ever Spring]は1975年に同社が就航させた第一号のコンテナー船から取った記念すべき船名のようです。
このあたり一帯は、奈良時代から大輪田の泊と言われ、平清盛の時代には宋の国との大型交易船が何艘も何艘も、もやっていたところです。
大輪田泊:「潮待ちの港の中で、これ程歴史的内容のある、また戦いや戦争、そして災害により廃墟と化しては復興を繰り返して来た港は珍しい。
古くは日本書紀に出てくる神功皇后伝説の時代に始まり、奈良時代から”大輪田泊”と呼ばれる良港として栄えた。
特に平安時代には平清盛による大輪田泊の修築と中国宋との貿易、福原遷都、そして源平合戦による焼却。鎌倉時代には重源の大輪田泊の修築により、
国内第一の港として"兵庫津"と呼ばれるようになった。南北朝時代には湊川合戦の戦場となって再び廃墟と化した。江戸時代には朝鮮通信使や北前船、
尾州廻船など瀬戸内海運の拠点として栄えた。 1868年1月1日日米修好通商条約により、神戸港が開港され、交易の拠点としての地位を神戸に譲り、
明治以降兵庫津は産業の拠点として発展して来た。太平洋戦争による戦災と復興、そして阪神淡路地震による震災復興と発展している」。webより引用。
日本海事協会におられた安田さんから頂いたメールをご参考に
⇒船は、傾斜のついた陸上の船台で製作されます、積み木のブロックみたいに積み重ねて建造しますが、
一般の陸上構造物とことなり、船は海に浮かばさねばならないので、
ある程度船体(どんがら)が完成した時点で、傾斜の台を滑らせて海に浮かべます。これが進水式です。
進水式後は、岸壁につないで内装などの工事をして完工となります。
しかし、船が大きくなりますと船台でつくるわけにはいかず、最近の新しい造船所ではドックの中で直接建造しております。
この場合船は傾斜をすべらないので、ドックに 注水して浮上させております。
今日本の大型船を建造する造船所はほとんどドックで建造しておりますが、神戸の三菱重工と川崎造船は非常に古い造船所で、
昔風の方法で船台で建造し、進水して完成しております。
いまや神戸以外の大都市では進水式をみることはできず、神戸市民はこれをみる恵まれた環境にあります。
さて、川崎造船の場合は昔ながらのヘット(油脂)を使用した方法で進水させております。
三菱重工は、船体をすべらせるのに、船台の滑り面に鋼ボール玉をソロバン状に敷き詰めて進水させております。
進水作業は簡便ですが進水時はガラガラととても大きな音がいたします。
一方、川崎造船は昔からの方法で滑り面にヘット(油脂)を敷き詰めて進水させます。この方式による大型船の進水は日本では非常に珍しくなっています。
いまでは非常に珍しい進水式です。
進水式の日時:進水式は進水後船体を傷つけ無いように、大潮の時間に行い、日取りも大安の日に行います。
進水式では、進水の前にまず、命名式をするのが普通です。
この後、支綱(ロープ)を切断ー>進水作業ー>進水となります。
なお、昔より進水は造船所にとって子供の出産であり、支綱(しこう)は母親と子供をつなぐ臍帯にみたてて、
この綱を切断するのは、必ず女性ときまっております。
今回も船主の奥さんが斧で切断し、ロープの先にあるお神酒が割れ、進水します。
また、このロープは安産のお守りとして寸断され関係者に配布されます。
セレモニーそのものを内部の当事者の目で見た進水式の模様を教えてもらいました。
☆ 進水式は予行演習ができません。
成功するか(100%)、失敗するか(0%)のみで大体OK(50%OK)はありません。担当者にとって、まさに緊張の連続です。
1)まず、支綱切断
進水式のハイライトで、大観衆が注目しております。
女性が切断することになっていますが、事前に予行演習しているとはいえ、あせると一回で切れない場合があります。一回で切れないとますますあせり、細い紐でもなかなか切れません。
2)お神酒が割れるか
支綱がきれて、お神酒が予定どおり割れてくれるのかどうか
3)クス玉が割れるのかどうか
4)進水するかどうか
この1)2)3)4)の全てがスムースに連続100%成功しなければならず、担当者にとって緊張の連続です。
☆そして昔の進水式の体験者から次のようなお話も:
進水式には「支鋼切断」と言うハイライトの動作があります。これが進水式の中で一番厳粛な行事です。
当時は、この支鋼切断は若い女性(処女)が行うものと決まっていました。
(進水して艤装した後の航海を処女航海と云いいます) 特設された式場の中心部に式台を設け、三宝の上に乗せた銀の斧で進水する船に結び着けた紐を切断します。
この紐が繋船したロープを切り、船尾の一升ビンを割って船が船台から滑り下りる。楽隊が勇壮なマーチを演奏する。
港に停泊している船舶がお祝いの祝笛を鳴らす。船の行足のまま船は滑って行く。夢を見るような一瞬でした。
朝食のグリーンベリーは初めてだったそうです。👇元町大丸の3階にある昔からあるラ・ポンペール。
三宮の山手の老房
元町大丸のレストラン街にある大衆割烹の安さん
JR三宮・ダイエー近くのオオバコのコーヒーチエーン店・グリーンベリー
それぞれ十分に楽しんで江戸川区に帰ってきたそうです。
パストラミポークとトマトのカスクート
フレンチトースト・サレ
そんな理由で「民生」の有名メニュー、「イカのてんぷら」もあり、やはりおいしかったそうです。
水餃子 旨しとのこと。
カレーラーメンは昔ながらのカレー粉の香りが素晴らしく何回も食べたくなる味だそうだ。SNSで紹介されて現在のこの店のウリは
このカレーラーメンとライスカレーで、学食のカレー風ながらしっかりした中華出汁を使っているのでおいしいと評判だとのことです。
店内は観光客のことなど一切考えていない近所の人が普通使いする全くの街の中華屋さんの雰囲気。
学生時代の後半に引っ越した家から5分のところにあった臨済宗妙心寺派の祥龍禅寺。鈴木商店のお家はん、鈴木よね刀自の胸像もある。鈴木よねさんは本寺の再興に大きな役割を果たした。この写真を撮影したとき住んでいた東灘区の家からも歩いて20分ほどで行けた。
学生時代は禅の研究会にいた友人二人がこの寺に下宿していて彼らに誘われて時々座禅させてもらった。
この撮影をした時期は社会人の座禅会が寺であったので時々座りに行っていた。
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手術や治療のため何度入院したかわからない。
この日はお願いしていた紹介状と全てのデータが入ったCDを頂いてお礼の挨拶をして先生にお別れした。
2か月後の冠動脈の定期検診と投薬は新しい病院を探すことになる。
昼食はいつもの蕎麦屋さんにした。
寒かったのでザルそばは止めて初めてカレーうどんを頼んだ。やはり特段に旨かった。この店ともこの日でお別れだ。
恒例の新年の最初の講演をされたのは今年93歳になられる新野幸次郎先生だ。
演題:「資本主義が生き残る条件」は今の時世にぴったりのお話で、
AIが社会にもたらした変化に人間はどう対処できるのかあるいは出来ないのか
一筋縄ではいかないお話だった。
楠公会館は湊川神社の境内にある。今年は喪中なので湊川神社の参詣は控えた。
2008年から通ったこの店も今回が最後になりそうだ。店の人にお礼とお別れの挨拶をして店を出た。
☆この店にお世話になる前はドイさんにずっとやってもらっていた。
床屋のドイさんにサヨナラを・・・ 2003.5.08記
4月も終りのある日 昼休みが終って事務所の席に座ると 床屋さんから
お電話ですと言われた。床屋から電話をもらうとは誰からで、何だろうと首をひねりながら受話器を取った。
「ビルの床屋のドイです。えらい急な話やけどワタシ4月一杯でココ止めますねん。
今日来はったHさんから阿智胡地亭さんの会社の電話番号教えてもろたんで電話したんですわ。
長い事お世話になったお客さんも仰山いてはるから、黙って止めるんもなんやし、社長に言うて5月21日まで勤めさせてもらうことにはしたんです。
そやからそれまでに来られるんやったら前日に電話して、時間を言うてください。」
と言って電話は切れた。
いつもは当日電話で予約して行くのだが、今回は連休前に電話を入れておいた。
堺筋本町から淀屋橋までは、20分ほどで歩くのにちょうどいい距離だ。
ドイさん担当の椅子に座ると「来てもろて有難うございます。電話で言いましたけど、急やけど
やめる事になったんですわ」と言った。「始めあれば終りあり、ですか」と返すと「そうなんですわ」
と言って、こうなった経緯や今後の事を、しかし散髪の手は休めず話し出した。
ドイさんにはもう16年の間、髪を切ってもらっている。何も言わずに椅子に座れば、
後は寝込んでもちゃんとやってくれる。夏季、汗かきの私が入室するとさりげなく
クーラーの温度も操作してくれ、濡れタオルを出してくれる。整髪料は私が家で使っている
のと同じものをキープしてくれている。広島時代も月に一回の大阪での会議の日にやって
もらって結局ほとんど16年間毎月続けてやってもらった事になる。
この理髪店は先代が店の社長の時にこのビルに入り込んで、昭和43年に私が新居浜から
転勤で来た頃は広い面積をとって営業していた。今回ドイさんに聞いたら当時は理髪椅子が
12台あり理容師が15人居たという。それでも一日中フル回転だったそうだ。ドイさんは昭和
44年に入店したとのことで、それから34年ビルの地下の職場で働いた事になりますと言った。
昭和62年に転勤で東京から大阪に戻り、再度、ビルの理髪店に行き出した頃は理容師は
5、6人になっていたが、行き出してすぐドイさんを指名するようになった。理由ははっきりは
覚えてないがこちらの状態を見て、床屋政談をしたり、眠りたい時はずっと眠らせてくれたり
と色々あったが、やはりウデが良かったのだ。口八丁手八丁で客あしらいもうまかったけど。
本人の自慢は「カットした後の最初の一週間は、職人の誰がやってもおんなじやけど、
それからが違いまんねん。そっからのモチ(持ち)が違うんですわ。ワタシは一人一人の頭の恰好を
見て全部カット変えてますから」という事で、私はそれはその通りだと実感していた。
退職するにいたった大きな理由は「この仕事はやっぱり刃物を使いまっしゃろ、まだまだ自信は
ありまっけど、もしこっちが手えでも滑って怪我でもさしてから止めるのはいややし。」
という事だったが、それは自分が納得するため自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
ドイさんの話しから推測すると、理髪室はここのところ3人の理容師でやってきたが、ビルの就業
人口の減少から、来店客数が減り続け、いまや理容師は二人で充分という事になり、店の社長から
ドイさんに退職勧奨があったようだった。 ドイさんの話しに、何で私がやめないかんねん
という思いが時々覗いているような気がした。彼は負けん気の強い、ずうっと自分の仕事に誇りを
持っていた男だった。
頭を黒く染めているのは知っていたが、肌の色はピンク色で艶々しており、顔にはしわ一つ無い。
自分よりちょっとくらいは年上かと想像しながら散髪が終って椅子をたつ直前に、
「若こうに見えるドイさん、時においくつになったん?」と聞いたら、67歳ですわとの答えだった。
とてもその年には見えない。頭のサエもなんら変わらず、腕もまだまだやれると思った。
後は家ででも床屋やるんと聞くと、ハサミはもう握らないと言った。
昭和44年頃は名前は知らなかったが、なんとなくその頃から彼に見覚えがあり、
昭和62年からは毎月一回はバカ話や床屋政談や居眠りをさせてもらった。また彼は
元の勤務先のOBや知人の動向の情報センターでもあった。
にしても長い付き合いになっていたものだ。
そんなことで阿智胡地亭さんには長いことお世話になりました。
いや、こちらこそお世話になりました。私もちょうどこの6月で会社終りです。
そうでっか、このビルに来たんは阿智胡地亭さんが一年違いの先輩で退職が
一緒の年やなんてまあご互いご縁があったちゅうことですわな。
そういうことや。ほなお元気で。
お元気で。ご縁があったらまたどっかで会えまっしゃろ。
こんな会話を交わしたあと、用意していった気持ちだけの餞別を渡して店の外に出た。
夕方牛乳と豆乳と惣菜を買いに阪神御影の市場と御影クラッセまでウオーキングしました。家から歩いて25分の距離です。
途中御影中学の西にこの松があります。
目指した御影旨水館市場のとり鉄さんは臨時休業。やむなくクラッセで焼き鳥を購入。
バス乗り継ぎのJR六甲道のコープこうべで煮野菜パック、牛乳と豆乳を購入して帰りました。
早く家を出たので六甲道でお茶にしました。駅前のロータリーはバスステーションになっています。
先輩に芦屋で会いました。芦屋の駅前は阪神淡路大震災のあと別の街に変わりました。
駅前のホテル竹園の9階はバー&カフェになっており、ランチタイムにはおいしいビーフカレーが食べられます。
56,7年前芦屋にある高校に通っていたころホテルは竹園旅館といい読売巨人軍の関西遠征時の定宿でした。
9階から見た芦屋の街並みと六甲山。トップの写真も。
今からデコレートされるようですがその前にどれほど大きいのかバスに乗ってみてきました。近くのバス停から市営バスに乗るとメリケンパークには
乗り換えなし110円の料金で行くことが出来ます。
久しぶりにメリケンパークに来ました。周囲に比較するものがないのでツリーの大きさはそうかなぁというのが正直なところでした。