行ってみると孫文の生誕150周年記念の展示会がオープンしたばかりでした。
天気が良ければこんな夕焼けの中に。(ネットのHPから借用)
記念館は明石大橋のたもとにあります。舞子駅から15分くらいです。松林の中を歩いていきます。
中の展示。
館を出ると大橋の基部が見えました。
根上げの松
孫文(号は中山、字は逸仙)は、中国、清末・民国初期の革命家、政治家です(1)。台湾では国父、中華人民共和国では革命の父と呼ばれていますが、その長い革命活動の中で、多くの日本人と関わりを持ち、数度の亡命も含めて何度も日本を訪れています。この時の記録をアジ歴で見ることができます。
孫文は、1866年に広東省香山県(後に孫文の号をとって中山県と改称、現在は中山市となっています)に生まれ、1878年に華僑として成功した兄を頼ってハワイに渡り、ホノルルのイオラニ・ハイスクールを卒業しました。また、1892年に香港の西医書院(現在の香港大学医学部)で中国人として初めての博士の学位を取得しました。こうした体験が彼に国際性を備えた視野の広さをもたらしたと言われています。
彼は1894年にハワイで清朝の打倒を目指す革命団体興中会を結成し、以後、生涯にわたって革命運動に従事します。ハワイで資金を集めた孫文は、1895年1月に武装蜂起を目指し帰国しますが、その計画は清朝側に漏れ、蜂起は失敗に終わります。こうして、孫文はお尋ね者となり、世界を渡り歩いて革命運動を行うことになりました。
孫文を有名にしたのは、ロンドンで発生した一つの事件でした。1896年に日本からハワイ、アメリカを経てロンドンに入った孫文は、清国の公使館に連れ込まれ、監禁されます。しかし、この事件を知ったイギリス政府が孫文の解放を求めたため、孫文は間もなく釈放されました。(2)は、この事件を伝える報告書です。資料にある「孫逸仙」とは孫文のことです。なお、(2)には記されておりませんが、この時孫文が釈放されたのは、香港西医書院で彼を教えたイギリス人の教師カントリーがイギリス政府や新聞社に政治犯の不当な監禁が行われていると訴えたためと言われています。
その後、釈放された孫文は、日本の横浜を訪れます。(3)の資料は、神奈川県知事より外務大臣に宛てられた公文書で、横浜在留時の孫文の動向が報告されています。ここでは、後に首相となる犬養毅との手紙のやりとりがあったことが書かれています。
1905年には、これまで革命活動を行ってきた興中会・華興会・光復会が結集して、東京にて中国同盟会が結成され、孫文は総理となり、革命運動をさらに推進することとなります。
1911年、辛亥革命が勃発し、中華民国臨時政府が成立すると孫文は臨時大総統に就任しました。しかし、孫文らの勢力はなお弱く、まもなくその地位を清朝の実力者であった袁世凱に譲ります。政権を掌握した袁は孫文らの勢力を圧迫し、孫文はふたたび革命を起こしますが敗れて日本に亡命します。
1913年から1916年までの約3年間、日本に亡命した孫文は1914年に中国国民党の前身である中華革命党を東京で組織しました。(4)は、その模様を報告した文書です。
そしてその翌年の10月25日、孫文は宋慶齡と東京で結婚したと言われます(山田辰雄編『近代中国人名辞典』霞山会、1995年)。(5)は、その日の孫文の動静がまとめられた資料です。
(5) には、午前10時5分に孫文の結婚の立会人を務めた和田瑞が来訪し、その後、午後4時30分に孫文は宋慶齡を伴って外出し、彼の晩餐の招待を受けたことが記されています。ここで結婚式の手続きを行ったのではないかと推測されます。なお、後ろから6行目にある「同宿の宋慶林を伴ひ」とあるのが、宋慶齡のことです。
中国へ帰国した後の孫文は、第一次国共合作を成立させ、中国国民党を改組、革命軍を組織し北京政府を打倒するための準備を進めていました。1924年11月、北京で政変が起こると孫文は北上を決断し、その途上神戸に立ち寄り、11月28日に「大アジア主義」に関する有名な講演を行っています。
(6)によると、講演会場となった神戸高等女学校では、2千人の席はたちまちにして満員となり、通路等までも観客が充満し、ぞくぞく詰めかけたため、同校の雨天体操場を第二会場とし、約1千人を収容しました。孫文の講演は一句ごとに拍手をもって迎えられ、相当の感動を与えた模様だと伝えています。
(7)のページ以下では、孫文の講演の内容を次のように伝えています。孫文は、ヨーロッパの侵略によって衰退を続けたアジアが、日本による不平等条約の撤廃をきっかけに復興へと向かったこと、アジアの諸民族は日露戦争の日本の勝利によって勇気づけられ、独立運動を起こしたことを指摘します。その上で欧米の文化を物質的且つ武力的とし、東洋の文化を精神的道徳的であるとの対比を行い、東洋民族が一致団結して欧米と対抗することを呼びかけたと書かれています。