軽四に新鮮な朝獲れの魚類を載せて、近所に週一回回って来る行商の魚屋さんがいい品を揃えているそうだ。なるほどイワシも牡蠣も旨かった。 楽屋ネタ。
弓弦羽神社とサッカーの御縁の事
当社は1200年程前にこの地で熊野大神をお祀りしたのが始まりです。
八咫烏は、昔から熊野大神様のお使いとして知られておりましたが、近年は日本サッカー協会のシンボルマークの方が有名になってしまいました。
サッカー協会の方は3本目の足でサッカーボールをつかんでいます。
当社の八咫烏は弓弦から放たれた矢に乗って一直線に目標を向かう 導きの八咫烏です。ゴールに向かって一直線です。
御影の地は、日本サッカーの発祥の地と言っても過言ではありません。
阪神御影駅の北側、今のクラッセと西側の御影中学校の所に、御影師範学校がありました。師範学校とは学校の先生を養成する学校で、ここで日本初のサッカーチームができました。
その後、大正時代から始まった日本フットボール大会で、御影師範は初会より連続7回を含み11回も優勝をなしとげております。
又、六甲アイランドに拠点を移した、INAC神戸レオネッサも平成26年1月に必勝祈願の参拝にこられました。
そして御影は御影石でも有名ですが・・・このサッカーとのご縁をもって御影石でサッカーボールを作りました。このボールにも矢に乗った八咫烏がいます。真中にステンレスの軸が入っていて横にグルグルと回り、まさにピッチの中で、全方向にチャンスを窺がうかの様です。引用元。
舞茸の炒り煮
モロキューならぬ「ぎばさ・キュー」
フキノトウ味噌豆腐
女将の土産にナダシンの赤飯を持って行った。
2016.04.10 ~ 2016.04.16
閲覧記事数:20388 PV、訪問者数: 2186 IP、ランキング: 2063 位 / 2470030ブログ
アジフライも旨かった。↑
寄せ豆腐に身欠きニシンと空芯菜のスプラウト。漬物はミニキュウリの塩麹漬け。
ご飯は十八穀ご飯
居酒屋Eの女将から「ホッピーとキンミヤ焼酎が入ったよ~」と連絡があったので久しぶりに訪ねました。
東京を中心として関東の大衆居酒屋ではどこにもあるホッピー。近頃ようやく神戸の元町でも出す店が出てきました。
ホッピーには甲類焼酎がよく合いますが、なかでも三重県四日市市楠町の宮崎本店の「キンミヤ焼酎」が関東一円で人気です。
焼酎もグラスもホッピーも冷蔵庫で冷やしてもらって黒ホッピーと5:5のハーフ&ハーフで飲みました。う~ん、美味し!ホッピーとは こちら。
ただし四日市の友人から宮崎本店やキンミヤ焼酎の話は聞いたことがありません。彼らは四日市市と合併した楠町を我が町だと認識していないからでしょうか?
楠町については、<諏訪十郎貞信さん> 2005.06.01メールマガジンで発信。
先週、2泊3日のあいだ三重県四日市市の四日市弁に、たっぷり漬かってきました。卒業した港中学のクラス会が湯ノ山温泉であったので四日市へ行きました。
四日市市も最近の市町村合併の動きの中で、隣町の「楠町」と合併したそうで、その記念モニュメントでもあるのか、この4月半ばに「四日市市楠歴史民俗資料館」をオープンさせていました。 知人も新聞で知ったばかりで、行ったことはなく、東洋紡の楠工場の近くにあるという記事の記憶を頼りに訪ねました。彼女の奮闘で車はまだ木の香がぷんぷん匂う純日本家屋の資料館に無事に到着しました。
4,5人の見学者が初老の男性にパネルの説明を受けていたので、勝手に壁にかかっているパネルで、楠の中世の歴史から読み始めてすぐに、おおげさではなく飛び上がるほどびっくりしました。
「楠城の初代城主は信濃の国諏訪の豪族、諏訪十郎貞信で・・・」と書いてあったのです。
正平24年(1369)に貞信が城主になってそれから3代続き、応永19年(1412)に楠 正威の楠一族に替わったと書いてあります。(聞いてナイヨ)と思いました。ほぼ六百年前とは言いながら、ここ伊勢の国、楠にわが家のルーツの地である信濃の諏訪出身の城主がいたなんて知りませんでした。
前の組の説明が終わり、こちらに向き直った説明員(ボランテイアでやっていますとのことだった)に、私は親が信濃・諏訪の出なので、城主の初代が諏訪出身と知って驚いていますと言うと、彼もエエツ、それで今はどこに住んでいるのですかと、ちょっとビックリされてました。後で考えれば見学者は各地から来るだろうから、驚くことはないのですが、私が感激していたのに影響されたのかも知れません。
庄屋をやっていたこの地区の岡田家の家屋敷が市に寄付されて、この資料館が建設されたことはさておき、私は長年の疑問が、この諏訪十郎貞信の名前のせいでまた頭の中に湧いてきました。 それは四日市言葉の語尾には、「~で」、「~でね」という言葉が多用される事なのですが、これは信州の諏訪地方も全く同じ言い方をするのです。
「明日も忙しいでね、帰る時間がおそくなると思うで、晩御飯はいらねえわさ。」と言うような具合です。
これは今でも結構日常的に普通に使われている言い方です。(と今回の四日市で改めて思いました。)確か、名古屋地方ではこの言い方はあまり聞きません。(と思います)
さて、600年前に諏訪からきた殿サンとその家来連中が喋っていた言葉が、その後もこの地に残ると言うことがありえるのでしょうか?それとも私が知らないだけでこの「~で」、「~でね」と言う言い方は三重県各地では普通の言い方で、諏訪とは全く関係ないのでしょうか?
もう一つ、「それは違うに」の「に」と同じくらい、語尾に「それは違うわさ」と「さ」が多用されるのも名古屋弁と違うところだと思うのです。若い連中がテレビの東京弁に影響されて日本各地で言う「~さ」ではなく、年配の我が同級生が今も自然に語尾に、「さ」をつけて話します。これも関東方言圏の信州では普通の言い方です。
兵庫県の出石の「出石蕎麦」のルーツは、江戸中期に信州上田藩の仙石政明が出石藩に国替えになり、そのとき上田の旧国許から蕎麦職人を連れてきたのが始まりで、平成の今も信州ソバ系の「出石ソバ」で残っていますが、食べ物でもない信州・諏訪の「物言い」が四日市に600年後の今も残るでしょうか?
旧市内の真ん中にある四日市の諏訪神社をインターネットで調べると、「鎌倉時代の建仁2(1202)年、信濃の諏訪大社より勧請した神社で、うんぬん」とあり、この城主とは直接の時代の関わりはないようです。
世間様に何のお役にも立たない極私的疑問をいつか晴らすべく、あちこち渉猟するヒマネタがまた出来ました。 了
追記
ある時期の父親の勤務地だった四日市は、阿智胡地亭には地縁も血縁もない土地ですが、阿智胡地亭はたまたま当地で生まれました。
しかし偶然とはいえ、四日市には信濃の諏訪大社から勧請された諏訪神社があり、この神社をセンターにして四日市は江戸時代から市が立ち、町が栄えました。
そんな四日市の隣の町にある楠城の初代城主が、諏訪からきた武士だったと知ると、四日市が縁もゆかりもない土地とはとても思えなくなりました。