阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

「1995年1月17日 阪神淡路大震災の記録-震災の中の人々」    第一回/全五回

2022年01月16日 | 1995年1月17日 阪神淡路大震災の記録 

シリーズ「1995年1月17日 阪神淡路大震災の記録━震災の中の人々━」
全画像を撮影されたのは報道写真家の栗田格さんです。  ©Kaku KURITA


「取材者の記憶」
あの日は、神戸の地震のニュースを息子の電話で知りました。「大きな地震らしい」というのが第一報でした。それを聞いて即座に行動を起こしました。

まずは、現地へセスナで行くために飛行場へ向かいました。東京はあの日は一面の青空で、とても暖かい日でした。スライドのフィルムをカメラにつめて、

美しい富士山を眺めてから伊丹に向い、伊丹を過ぎると2分もしない間に空は、真っ黒になりました。
急いで高感度のネガフィルムをカメラに詰め替えました。それまでの青空が突然真っ黒な空に変わったのです。
神戸上空に入り風上にまわると、無線で低空飛行の禁止が出て パイロットに緊張がはしり、安全な方向からの撮影となりました。

下を見ましたが消防車は見えなく、人と炎が見えました。消防車は道が通れなかったのですね。また消火したくとも水も無いのが現状だったのです。








上空からの撮影を終えて大阪の八尾飛行場に向かいましたが、着陸希望の飛行機が多すぎて、降りられませんでした。
やむなく名古屋の小牧に向かいましたが、その時は、全員がトイレに行きたくなっていたことを思い出します。
名古屋から、新幹線で東京に着いたのが、夜の9時すぎ、現像所にフィルムを入れて、それをスキャン、

そしてパリに伝送(デジタル送信のスタート時代でした)が終わったのが明け方でした。そのまま再び、始発6時の新幹線で大阪に向かいました。
  「取材者の記憶」は次回へ続く

☆ 災害現場には東京、大阪はじめ日本全国のテレビ局・新聞社は勿論、全世界から取材の報道カメラマンが阪神、神戸に入りました。
しかし彼らの多くは被害を受けた市民から撮影を拒まれたそうです。なぜなら彼らは、被害者に声をかけずに、了解もなくシャッターを切ろうとしたからです。
栗田さんは、画像に残る人びと全員と言葉を交わし、写真を撮ってもいいよと了解をもらった場合だけ撮影されたそうです。

  翌日撮影の画像

倒れた阪神電車の高架

絶対に倒れないと建設省が言っていた阪神高速道路

壊れた家屋

昼ごはんを食べる応援者
 
栗田格報道写真家のインタビュー記事はこちら
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「1995年1月17日 阪神淡路大震災の記録-震災の中の人々-」    第二回/全五回

2022年01月16日 | 1995年1月17日 阪神淡路大震災の記録 

 (初出 2010年5月18日

○トップの写真は、1985年、地震の10年前に神戸の上空1930mから撮影されたもの(国土地理院の提供)
 神戸大震災から既に15年経過した今(初出掲載当時)、何故このようなシリーズを開始したか?
撮影された報道写真家の栗田格さんとブログ運営者の間に、次のような交信があったことをご参考までに記します。全写真©Kaku KURITA
 栗田さんから頂いた文面を何度も読んで、私は、栗田さんは報道カメラマンという一般名詞では捉えられない方だとあらためて思いました。
つまり従事する仕事の使命(Mission)・本質を腹の底に入れ込んだ生身の固有名詞の「栗田報道カメラマン」なんだと。

 以下相互の交信です。

阿智胡地亭:『震災の記録写真は地元の神戸新聞や神戸市役所の撮影のものなど相当見て来ましたが、この画像ファイルで、

これまで見た事がないアングルや状況を見る事ができました。もう15年も経ったとはとても思えない臨場感でした。 

あらためてプロフェッショナルの写真家が撮影した報道写真の重みや凄みをこれらの映像で知った思いです。そしてなにか不思議な思いになりました。

15年前、置かれた状況は全く違っていたけれど、同じ空間、時間に栗田格さんと私ども家族はいたのだと!  

正直、(現地であの震災を体験した者としては)直視したくない非情な画像が沢山ありますが、日本列島で生きている限り、

どこに住んでいても誰の身にも起こりうるということを示していると思いました』

栗田報道カメラマン:『1995年の3月に神戸地震を上空から見た時の青いテントが京都、奈良に 向かって線上に並んでいる事に強い印象を受けました。
これは地震の断層なのだと感じました。
 写真を送った時に阿智胡地亭さんのメールに、「目をそむける写真があります」と言われた時に自分の報道写真を目指した時を思い出しました。
自分が18才の時、サクラフィルムの主催で写真の講演会があり、当時著名な評論家であった秋山さんが、報道写真について語りました。

彼は、1954年に起こった洞爺丸事件の話をされた。アマチュアの投稿写真が大きく読売新聞に掲載された。それに対する読者の反応は批難ごうごうで、

読者はシャッターを切る暇があれば、どうして人を救助しなかったのかと言う抗議であった。秋山氏の言葉は、今も自分の脳裏には残っています。


あの写真がなければ、洞爺丸事件を何万語の文章で書いても、あの一枚の写真が語る現状に、勝るものは無かった。文章で表現出来ないものを 写真一枚で表現出来る。

これは、私が報道カメラマンになりたいと思った原点です。カメラマンは、第三者です。非難を受けて、ぐらついていては報道カメラマンは、勤まりません。

信念をもたなければ、シャッターは、切れません。目を背ける写真と言われた時のカメラマンの心情は、並大抵ではありません。

神戸地震に関わらず、事故の写真など、まず手を合わせる。自分に手を合わせます。現象面を見て、シャッターを切ってはいません。

第三者に写真を撮られる側の心情を理解しなくては、自分は、写真を撮れません。腕章(看板)をつけている(日本の大手マスコミの)カメラマンと、

我々海外メディアのカメラマンとは、原点が違うと思っています。
 腕章を付けているのは、水戸黄門の印籠の役目があります。非難ごうごうされたことに対して、説得できなければ、報道カメラマンには、なれません。

よく報道カメラマンは、他人の不幸でメシを食っていると言われます。
 非難を受けて、自殺したカメラマンもいます、最近の話では、オランダの“BEST OF THE YEAR”に選ばれた、ハゲ鷹に狙われている子供の写真がありました。

何故、子供を助けなかったかと世界から非難を受けて、彼は自殺しました。では、あの写真が強く訴えるアフリカの現状をどのように言葉で伝えられますか?
他人に見せなければ伝わらない、何万語の文より言語、文化を超えて 人間であれば、伝わる基本があれば、写真の役割は、大きいと思っております。
 地震、事件。写真は、文化も伝えます。自分の自信は、世界の人が見て分かる写真を根底にしています。報道写真家と名乗るカメラマンは、沢山います。

自分は、アーティストでは無く、真実を写真で伝える。写真の中に自分がいる。栗田格の写真を撮って行きたいと思ってシャッターを切っております。』
○1995年1月20日 高度1,700m 焼けた長田町

○1995年1月17日
手前、震源地の淡路島 右遠方、煙の神戸方面
 
○1995年3月18日 青いテントが並ぶ長田

○1995年3月18日 青いテントが並ぶ長田区 池田

○1995年1月19日 長田 焼け跡から家族のお骨を拾い手を 合わせる人々

○1995年1月19日 長田 焼け跡からお骨を拾う自衛隊の隊員たち


「取材者の記憶」第一回の続き・・京都で下車しました。JRが甲子園口まで運行していました。そこから歩き、どこを見ても、

すごい状況で夢中で撮影している間にフィルムが無くなりました。現場の人たちから、新聞は、ないかと聞かれましたが、

現場ではなんの情報も無く人々は、なにがどうなったのか知りたかったのです。翌日は、新聞を沢山買いました。

その日も又、東京にもどり原稿をパリに送りました。
 3日目は、朝の始発の新幹線で京都まで行き甲子園口まで移動。外人の記者は、自転車で駆け回っていました。

知り合いのカメラマンは、バイクを持ち主から、譲り受けて現場へ入りました。
 甲子園口からは歩いて、芦屋方面に行き 小学校や避難現場で取材をしました。その日は、大阪のホテルに泊まっている、

ニューヨークタイムスの記者と通訳に合流、朝、4時にタクシーで神戸に向い、神戸市内を取材。記者たちは、ハイヤーで回りました。

芦屋を取材して、自分は、甲子園 口より電車で大阪へ、ホテルに着いたのは、11時、ハイヤーの記者達は、朝の4時半にホテルに着いたそうです。

国道が動かないのですから。
 芦屋を取材している時、道路の真ん中で大人の人達が、何かをしている 場面に出会いました。水道管が破裂したのか、道路の真中より、

出ている水を 皆さんが入れ物に入れていました。水が出ないのですから、貴重な泉になります。地球上どこに行っても貴重なものは、水である事を実感しました。まず、水です。

 その時、鮮明に思い出したのが1964年6月の新潟地震です。当時トヨペット自販の社内報の仕事をしていました。

品川の事務所に行くと、全員がコカコーラの中味をすて、真水をつめて栓をしていました。大変な数でした。新潟に運ぶそうです。

コカコーラが勿体ないと思いま したが水が、もっと、貴重だったのです。今は、ペットボットルがあり。水 は、すぐに手に入りますが、

当時のなによりも貴重なのは、水であった事を思い出 しました。
 神戸地震、都市型地震で、沢山の出来事、現実に出会いました。普通の 人の必要なもの、行政の考える援助のずれ、神戸地震でも避難所には、

山の様に カップ麺や、インスタントラーメンがありました。お湯も無いのに、どうして食べるのだ。欲しいのは下着なのに、そのような品は無く、

全国から送られる品が積まれているだけの場面がどこにもありました。  続く。


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「1995年1月17日 阪神淡路大震災の記録-震災の中の人々-」     第三回/全五回

2022年01月16日 | 1995年1月17日 阪神淡路大震災の記録 

(初出 2010年5月30日。)

報道写真家・栗田格さんの記録シリーズ第3回です。全写真©.Kaku KURITA


 地震の翌日、大阪から電車で甲子園口に向いました。鉄橋を挟んで大阪側は、何も変わらない風景、鉄橋を渡った西宮側は、全く別の風景でした。
甲子園口から歩き出すと、家がつぶれていて、別世界に入りました。
○どんどん歩いて行くとあちこちに避難のテントが出来ていました。避難のテントのまわりに子供達が普段と同じ状態で遊んでいる。
まるで、キャンプを楽しんでいる様子に出会いました。後ろでは、大人達が茫然自失の状態でぼんやりしていました。
大人達は、現実に呆然、子供達の周りは、明るくにぎやかな空気がありました。
(トップの画像)
***
ハイウエーから落ちたトラックが炎上して、積んでいた飲料水などサイダーや、カンが路上に散らばっていました。30時間以上そのままで
散らばっていたのです。1人の子供がカンをひろって飲みました。大人 達は、目の前にある現実にもどり、2分後には、何も無くなりました。
外国の記者が「日本はすごい、海外ならば 自販機なども、壊して中味 は、直ちに略奪される」と言いました。それだけ地震のショックに大人達は思考力を
失っていたと思いました。カンを拾う人々は見ましたが、写真は撮りませんでした。
日本人には、他人様のものをと言う意識があります。子供の力は、すごいものだと感じた一瞬でした。
***
○地震の次の日、最初に自分が声をかけた人は、壊れた家の中に入る人でした。中を見てくれと、こんなになったんだと招き入れてくれた人は多分家族は
助かったのだと感じました。印象的だったのは、被災者にもかかわらず、表情が穏やかだったのです。人間、極限状態になると、反対におだやかになれる
事が驚きでした。


○広い道を歩いていたら、道ばたに老夫婦が休んでいました。24時間前に被災して駅に向かう途中の様でした。
二人の後ろは、何も変わらない家がありました。途方に暮れた感じでした。


○もう、6日後ですが、近所の人にささえられている男性に出会いました。彼は、家の中に息子がいると信じて、目を離すと家に入ろうとするのです。
 近所の人達が 連れ戻す日々だそうです。ご近所の人達のやさしさです。今の東京では、隣りの人が誰かも知らないですが、
古い町は、人々のつながりの優しさがありました。当たり前の連帯感です。最近は、困った時に助け合う、当たり前が無くなりました。


○家族は無事であることを聞いてから、金沢からかけつけた大学の先生が、屋根の上で家がなくなったと驚いている姿にであいました。
古い家の 瓦は、重いので、そのまま家が沈み屋根が残るのが日本の家屋です。彼は、金沢大学の先生で、屋根の上で呆然としていました。


○周りが崩壊している中、いつもの様に立ち話をするおばさん二人に出会いました。
まるで昨日と同じです。極限を超えてお互いの安全を語り合っていたのでしょうね。


◎人間が極限を超えた時の 人々のすばらしさに沢山出会いました。それとは逆にカメラを向けると、後ろを向いて行ってしまうのは、他地方からの
泥棒さんだと、後で新聞報道で知りました。
◎取材をしていたとき、自分が最初に長野から東京に来た昭和22年の戦後を思い出していました。
子供には、見る物が、珍しく大人達は、これからどうしようと言う悲壮感と呆然自失がありました。戦時中の記憶と、神戸地震の人々の様子が重なりました。


写真を見ると、自分と家族が27年前のあの日以降に体験した記憶は、その歳月の間にかかなり薄れていることに気がつきました。
人間はどうしても思い出したくないことは、無意識に記憶から削除する能力?があるそうですが、そういう部分が私にもあったのだと思います。


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「1995年1月17日 阪神淡路大震災の記録-震災の中の人々-」      第四回/全五回

2022年01月16日 | 1995年1月17日 阪神淡路大震災の記録 

(本エントリーの初掲載は2010年6月13日です。文章中の年数は当時の年数です。)
報道写真家・栗田格さんの記録シリーズ第4回です。©Kaku KURITA


地震から4~5日たった頃の写真です。これらの写真を見直すうちに、被災者と外部の人間の地震の様な天災への感じ方の違いの大きさを考えました。
自分の様な外部の人間は、同情の言葉はかけられます、しかし被災者との心のギャップは大きいです。地震の次の日は、人々は、呆然としていて、
まともな会話は、出来ませんでした。


4~5日たった日、30代の女性から声をかけられました。自分が建てたばかりの家が半壊してしまった、その前で記念写真を撮って欲しい
と頼まれました。写真は、自分の親しい喫茶店に預けて欲しいと言いました。この写真は、後ほど本人宛に喫茶店気付で送りました。
彼女の 現実の言葉は、「ローンで建てたばかりの家が数ヶ月で半壊してしまった、これからどうすれば良いか」。
 不安一杯の被災者に自分は、返す言葉がありませんでした。


人災ではないこの様な天災に対して行政は、どのような対策を取っているのだろうと、15年たった今、考えます。多分見舞金くらいの
援助はあったと思います。勉強不足ですが、今、行政、国の対策への疑問が消えない日々です。


最近、日本全国の子供達が幸せにと子供手当の支給が始まりました。自分の過失でなく、天災にあった人々への対策は、どうなっているのか、
この15年間、新潟地震や、山間部の地震がありました。何度もおきている地震、天災へ 国は、どのくらい保証をかけているの でしょうか?
国が保険をかけていなければ、個人の負担は、大きすぎます。個人には、何の落ち度もないのです。 実際に将来が見えなくて自殺した人が多いと聞いています。
この避けられない出来事へ 人は安心がなければ生きら れません。
一つ、思い出しました、高級車が建物に押し潰されている所に出会いま した。現場にいた男性は、自分は、修理工場でこの押しつぶされた車は、お客さんの車で
どうすれば良いのか途方にくれていました。
自分が被災しているに拘らず、お客の車を心配する。日本人の律儀さ、商人根性を感じました。天災では、被災者側と外部の人との間のギャップは、大きすぎます。
世界中で地震、竜巻などの天災が多々あります。その時人々の不安へ対 する国の対策は、大丈夫なのでしょうか? その時の報道があっても、後の報告は見た事がありません。


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注)本文と画像には直接の関連はありません。

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「1995年1月17日 阪神淡路大震災の記録-震災の中の人々-」     第五回/全五回

2022年01月16日 | 1995年1月17日 阪神淡路大震災の記録 

(本エントリーの初掲載は2010年6月27日です。文章中の年数は当時の年数です。)報道写真家・栗田格さんの記録シリーズ第5回です。全写真 © Kaku KURITA


☆終戦の時、長野県の叔父の家に疎開していました。お盆は、子供達には一番楽しい時期で、ウキウキしていましたがご馳走等はなくて、
大人は、シ~ンとしていました。終戦の年の8月15日のことです。


 その後、2年して小学校3年生の時に家族は、東京に移りました。長野は、戦前も戦後も同じ風景でした。東京に着いた時は、一面焼け野が原でした。
今も覚えていますが、バラックが沢山ありました。その前を子供達は、元気に遊び回っていました。
○神戸地震の時、子供たちが焼け跡を自転車で楽しげに走っているのを見た時に、終戦で東京に戻ってきた時を思い出しました。自分の子供時代と同じでした。


○倒壊した家の前の道路でぼんやりしているおじさんがネコといる写真も、戦後を思い出しました。


あの当時は、おじさんと犬の前には、空き缶がありました。乞食ですね。


○避難所の家族の写真は、母親と子供たちがカップ麺を食べています。戦後の東京では、雑炊がありました。

長野では、家畜のエサだったトウモロコシの粉やくず米を人が食べている事にびっくりしました。


○ 先日神戸の山間部を若い連中がカーレースをしている姿をテレビで見ました。多分、神戸地震の時は、10才くらだったのでは、ないでしょうか?
15年経つと人間は、それぞれ、昔の事を忘れるのですね。震災のあと、何度か、神戸に取材で行きましたが にぎやかで 震災の時歩いた、傷口
も見当たりませんでした。
〇自分は、じーちゃん、ばーちゃん、父から、戦時中の話は、沢山聞きました。我々の役目として若い世代に 神戸の震災を伝える事は、大切だと思います。
自分の出来る事は、写真で見てもらう亊です。阿智胡地亭さんの文章と自分の写真で、体験者の話を伝えるのは、意味ある役目と思います。
天災は、忘れられるのですね。人災は忘れては、いけませんが。
                                栗田 格 記
☆栗田 格 様
 15年前の取材写真を提供して頂き、取材時のご記憶と現在の思いを、五回に亘ってまとめて頂きましてありがとうございました。
自分でも殆ど思い出すこともなくなっていたあの震災のことを、お陰さまであらためて振り返り、その結果、また現在の日常を見直すことができました。
心の準備も物的な備えもあの当時、神戸・阪神間・淡路に住む誰にもなかったと思います。「神戸には地震は起きない」という神話を、誰もが暗黙の了解としていたのです。
しかし、皆が知らなかっただけで、実際は須磨寺などには過去の大きな地震の記録が文書や絵で残っていました。
ああいう震災後の悲惨な事態が、明日にでも自分と家族に起こりうると想定しておくことは、例えそれが心の準備だけであっても違うと思います。
送って頂いた震災の記録のCDを見せて頂いて、子や孫の代にはあのような状況を出来るだけ作らないようにしたいと強く思いました。
つらいことは、忘れるから生きていけるという一面もありますが、戦争のより悲惨な事実と、自然災害の被害も、繰り返し次の世代に伝えていくべきだと思います。
幸い、昔はなかったHPやブログなどを使い、無名の個人やグループが体験や記憶を次の世代や、震災を体験していない人たちに伝えていくことができるようになりました。
あの大震災から15年後の今年に、栗田様とのコラボレーションにより、このような企画が実現しましたことを感謝しております。ありがとうございました。


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「1995年1月17日 阪神淡路大震災の記録 補遺」      記憶の交換 その1

2022年01月16日 | 1995年1月17日 阪神淡路大震災の記録 

(本エントリーの初掲載は2010年5月31日です。文章中の年数は当時の年数です。)
 同時に現地で震災を体験した栗田さんとメールの交換を続けています。

『第三者として、写真を見るのは、感慨深いです。
老夫婦が一休みしているショットがありますね。奥さんは、きりっとしています。
ご主人は、ぼんやりとしていました。
奥さんは、背中に何をしょっているのでしょうか?
着物? お二人とも着ている服装は、きちんとされているので、
良いお屋敷に住まれていたのではと思いました。

15年たっても、自分の歩いた神戸地震の空気は、忘れられません。
半壊の家の間を歩いている間の余震は、恐かったです。
被災された人々も 余震は、恐怖だったと思います。』

阿智胡地亭:
『余震の事ですが、震災後に出社してお客さんの所へ行く車が高速の渋滞で
高速道路上で停止すると、高速道路が振動していることを体が感知しました。
即、無意識のうちに恐怖で体が硬直しました。

同乗の人は平気な顔をしているので、悟られないようにしてましたが
やはり私の異様な雰囲気を感じて、どうかしましたか?と聞かれました。

それほど本震のあとの余震(2ヶ月以上、毎日かなりの頻度で
大きいのもありました) に恐い思いをしたことを思い出しました。
身体がまず反応するということがあることを 知りました。
 
その高速の振動は心臓が本当に止まるかと思うほどの恐怖でした。

○噂では暗闇でいろいろな不祥事があったと流れましたが、
幸い身近では実際にそういうことはありませんでした。
外国の取材者が驚くのも無理はないと思います。

 一つの理由に当時の日本は、欧米社会ほど階層社会が分化してなかったので
お互いおんなじやという気持ちがあって、略奪とか人のものに手を出さない
ということがあったような気がします。
あれから15年たった今の日本はどうなるでしょうか?

○それにしても、公共交通機関の始発が動き出す午前6時前にあの地震が起こったこと、
真夏ではなく寒い冬だったので汚物の臭いや腐敗の臭いがまだましだったこと
などは、不幸の中の幸いでした。

もし出勤、登校時間帯にあの地震が起きていたら大変な数の人が
亡くなっていました。

私自身も出勤途上の六甲道駅で圧死していた可能性が高いです。
おそらく夫や子供や息子、娘などの家族の安否を訊ねて多くの人が
狂乱状態で右往左往したと思います。

あのような、ある種の平静さがなんとかあったのは
そういうめぐり合わせのお陰がありました。

もし、首都圏などの大都会で、真夏の通勤、通学時間帯にあの規模の地震が
起こったことを想像すると恐ろしいです。

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「1995年1月17日 阪神淡路大震災の記録 補遺」      記憶の交換 その2

2022年01月16日 | 1995年1月17日 阪神淡路大震災の記録 

(本エントリーの初掲載は5年前の2010年6月13日です。文章中の年数は当時の年数です。)

 栗田様 シリーズ第4回のご寄稿ありがとうございました。
あらためて、不意をつかれ ただ呆然と過ごすしかなかった当時を思い出します。
つい「平時に最悪に備える」という意識が、今また自分から抜け去っていることに気がつきました。

 神戸の大震災の当時は、国には全く個人補償の考えはありませんでした。

別途、取り上げる予定ですが、シベリヤ抑留者57万人に対する補償問題に対する官僚の方針、「国は個人財産・生命の補償はしない」と言うのが、
明治以来、日本国を動かしてきた中央官僚の考え方でした。そのことに手をつけたら“パンドラの箱を開けることになり、収拾がつかなくなる”と。
 中央官僚には、「まず国民ありきではなく最初に国家財政あり」でした。

 その後、新潟地震や各地の台風災害や洪水災害などで、多くの被害が発生し、地方行政が動かざるを得なくなり、個人補償が必要であるという概念が各地で
作られ始めました。中央の官僚には迷惑なことだったと思います。

そして平成10年に「被災者生活支援法」が制定されました。まだまだ不十分な
内容ですが、日本という国を官僚国家から国民国家に舵を切り変えるため、各地のくにたみが奮闘努力した一つの成果だと思います。


その間の個人復興支援の立法化の動きの一部を神戸新聞の記事でご覧ください。
こちら

 ☆震災当時の神戸新聞の社説「被災者になって分かったこと」を引用します。1995年1月20日朝刊1面に掲載された社説です。


「被災者になって分かったこと」

 あの烈震で神戸市東灘区の家が倒壊し、階下の老いた父親が生き埋めになった。
三日目に、やっと自衛隊が遺体を搬出してくれた。だめだという予感はあった。

だが、埋まったままだった二日間の無力感、やりきれなさは例えようがない。 
被災者の恐怖や苦痛を、こんな形で体験しようとは、予想もしなかった。

あの未明、ようやく二階の窓から戸外へ出てみて、傾斜した二階の下に階下が、
ほぼ押し潰されているのが分かり、恐ろしさでよろめきそうになる。
父親が寝ていた。いくら呼んでも返答がない。

怯えた人々の群が、薄明の中に影のように増える。軒並み、かしぎ、潰れている。
ガスのにおいがする。

家の裏へ回る。醜悪な崩壊があるだけだ。すき間に向かって叫ぶ。
何を、どうしたらよいのか分からない。電話が身近に無い。
だれに救いを求めたらよいのか、途方に暮れる。公的な情報が何もない。

何キロも離れた知り合いの大工さんの家へ、走っていく。
彼の家もぺしゃんこだ。それでも駆けつけてくれる。

裏から、のこぎりとバールを使って、掘り進んでくれる。
彼の道具も失われ、限りがある。いつ上から崩れてくるか分からない。
父の寝所とおぼしきところまで潜るが、姿がない。
何度も呼ぶが返事はなかった。強烈なガスのにおいがした。
大工さんでは、これ以上無理だった。

地区の消防分団の十名ほどのグループが救出活動を始めた。
瓦礫(がれき)の下から応答のある人々を、次々、救出していた。
時間と努力のいる作業である。頼りにしたい。父のことを頼む。
だが、反応のある人が優先である。日が暮れる。余震を恐れる人々が、
学校の校庭や公園に、毛布をかぶってたむろする。
寒くて、食べ物も水も乏しい。廃材でたき火をする。
救援物資は、なかなか来ない。 いつまで辛抱すれば、生存の不安は薄らぐのか、
情報が欲しい。

翌日が明ける。近所の一家五人の遺体が、分団の人たちによって搬出される。
幼い三児に両親は覆いかぶさるようになって発見された。こみ上げてくる。
父のことを頼む。検討してくれる。とても分団の手に負えないといわれる。
市の消防局か自衛隊に頼んでくれといわれる。われわれは、消防局の命令系統で
動いているわけではない、気の毒だけど、という。

 東灘消防署にある救助本部へいく。生きている可能性の高い人からやっている、
お宅は何時になるか分からない、分かってほしいといわれる。十分理解できる。
理解できるが、やりきれない。そんな二日間だった。

これまで被災者の気持ちが本当に分かっていなかった自分に気づく。
“災害元禄”などといわれた神戸に住む者の、一種の不遜(ふそん)さ、
甘さを思い知る。 この街が被災者の不安やつらさに、どれだけこたえ、
ねぎらう用意があったかを、改めて思う。


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阪神淡路大震災22年

2017年01月17日 | 1995年1月17日 阪神淡路大震災の記録 
2017年1月17日神戸新聞夕刊
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