(初出 2010年5月18日)
○トップの写真は、1985年、地震の10年前に神戸の上空1930mから撮影されたもの(国土地理院の提供)
神戸大震災から既に15年経過した今(初出掲載当時)、何故このようなシリーズを開始したか?
撮影された報道写真家の栗田格さんとブログ運営者の間に、次のような交信があったことをご参考までに記します。全写真©Kaku KURITA
栗田さんから頂いた文面を何度も読んで、私は、栗田さんは報道カメラマンという一般名詞では捉えられない方だとあらためて思いました。
つまり従事する仕事の使命(Mission)・本質を腹の底に入れ込んだ生身の固有名詞の「栗田報道カメラマン」なんだと。
以下相互の交信です。
阿智胡地亭:『震災の記録写真は地元の神戸新聞や神戸市役所の撮影のものなど相当見て来ましたが、この画像ファイルで、
これまで見た事がないアングルや状況を見る事ができました。もう15年も経ったとはとても思えない臨場感でした。
あらためてプロフェッショナルの写真家が撮影した報道写真の重みや凄みをこれらの映像で知った思いです。そしてなにか不思議な思いになりました。
15年前、置かれた状況は全く違っていたけれど、同じ空間、時間に栗田格さんと私ども家族はいたのだと!
正直、(現地であの震災を体験した者としては)直視したくない非情な画像が沢山ありますが、日本列島で生きている限り、
どこに住んでいても誰の身にも起こりうるということを示していると思いました』
栗田報道カメラマン:『1995年の3月に神戸地震を上空から見た時の青いテントが京都、奈良に 向かって線上に並んでいる事に強い印象を受けました。
これは地震の断層なのだと感じました。
写真を送った時に阿智胡地亭さんのメールに、「目をそむける写真があります」と言われた時に自分の報道写真を目指した時を思い出しました。
自分が18才の時、サクラフィルムの主催で写真の講演会があり、当時著名な評論家であった秋山さんが、報道写真について語りました。
彼は、1954年に起こった洞爺丸事件の話をされた。アマチュアの投稿写真が大きく読売新聞に掲載された。それに対する読者の反応は批難ごうごうで、
読者はシャッターを切る暇があれば、どうして人を救助しなかったのかと言う抗議であった。秋山氏の言葉は、今も自分の脳裏には残っています。
あの写真がなければ、洞爺丸事件を何万語の文章で書いても、あの一枚の写真が語る現状に、勝るものは無かった。文章で表現出来ないものを 写真一枚で表現出来る。
これは、私が報道カメラマンになりたいと思った原点です。カメラマンは、第三者です。非難を受けて、ぐらついていては報道カメラマンは、勤まりません。
信念をもたなければ、シャッターは、切れません。目を背ける写真と言われた時のカメラマンの心情は、並大抵ではありません。
神戸地震に関わらず、事故の写真など、まず手を合わせる。自分に手を合わせます。現象面を見て、シャッターを切ってはいません。
第三者に写真を撮られる側の心情を理解しなくては、自分は、写真を撮れません。腕章(看板)をつけている(日本の大手マスコミの)カメラマンと、
我々海外メディアのカメラマンとは、原点が違うと思っています。
腕章を付けているのは、水戸黄門の印籠の役目があります。非難ごうごうされたことに対して、説得できなければ、報道カメラマンには、なれません。
よく報道カメラマンは、他人の不幸でメシを食っていると言われます。
非難を受けて、自殺したカメラマンもいます、最近の話では、オランダの“BEST OF THE YEAR”に選ばれた、ハゲ鷹に狙われている子供の写真がありました。
何故、子供を助けなかったかと世界から非難を受けて、彼は自殺しました。では、あの写真が強く訴えるアフリカの現状をどのように言葉で伝えられますか?
他人に見せなければ伝わらない、何万語の文より言語、文化を超えて 人間であれば、伝わる基本があれば、写真の役割は、大きいと思っております。
地震、事件。写真は、文化も伝えます。自分の自信は、世界の人が見て分かる写真を根底にしています。報道写真家と名乗るカメラマンは、沢山います。
自分は、アーティストでは無く、真実を写真で伝える。写真の中に自分がいる。栗田格の写真を撮って行きたいと思ってシャッターを切っております。』
○1995年1月20日 高度1,700m 焼けた長田町
○1995年1月17日
手前、震源地の淡路島 右遠方、煙の神戸方面
○1995年3月18日 青いテントが並ぶ長田
○1995年3月18日 青いテントが並ぶ長田区 池田
○1995年1月19日 長田 焼け跡から家族のお骨を拾い手を 合わせる人々
○1995年1月19日 長田 焼け跡からお骨を拾う自衛隊の隊員たち
「取材者の記憶」第一回の続き・・京都で下車しました。JRが甲子園口まで運行していました。そこから歩き、どこを見ても、
すごい状況で夢中で撮影している間にフィルムが無くなりました。現場の人たちから、新聞は、ないかと聞かれましたが、
現場ではなんの情報も無く人々は、なにがどうなったのか知りたかったのです。翌日は、新聞を沢山買いました。
その日も又、東京にもどり原稿をパリに送りました。
3日目は、朝の始発の新幹線で京都まで行き甲子園口まで移動。外人の記者は、自転車で駆け回っていました。
知り合いのカメラマンは、バイクを持ち主から、譲り受けて現場へ入りました。
甲子園口からは歩いて、芦屋方面に行き 小学校や避難現場で取材をしました。その日は、大阪のホテルに泊まっている、
ニューヨークタイムスの記者と通訳に合流、朝、4時にタクシーで神戸に向い、神戸市内を取材。記者たちは、ハイヤーで回りました。
芦屋を取材して、自分は、甲子園 口より電車で大阪へ、ホテルに着いたのは、11時、ハイヤーの記者達は、朝の4時半にホテルに着いたそうです。
国道が動かないのですから。
芦屋を取材している時、道路の真ん中で大人の人達が、何かをしている 場面に出会いました。水道管が破裂したのか、道路の真中より、
出ている水を 皆さんが入れ物に入れていました。水が出ないのですから、貴重な泉になります。地球上どこに行っても貴重なものは、水である事を実感しました。まず、水です。
その時、鮮明に思い出したのが1964年6月の新潟地震です。当時トヨペット自販の社内報の仕事をしていました。
品川の事務所に行くと、全員がコカコーラの中味をすて、真水をつめて栓をしていました。大変な数でした。新潟に運ぶそうです。
コカコーラが勿体ないと思いま したが水が、もっと、貴重だったのです。今は、ペットボットルがあり。水 は、すぐに手に入りますが、
当時のなによりも貴重なのは、水であった事を思い出 しました。
神戸地震、都市型地震で、沢山の出来事、現実に出会いました。普通の 人の必要なもの、行政の考える援助のずれ、神戸地震でも避難所には、
山の様に カップ麺や、インスタントラーメンがありました。お湯も無いのに、どうして食べるのだ。欲しいのは下着なのに、そのような品は無く、
全国から送られる品が積まれているだけの場面がどこにもありました。 続く。
☆Kaku Kurita Photo Salon はこちら☆