阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

恋歌 「葉 月」 阪田 寛夫

2024年12月30日 | 音楽・絵画・映画・文芸
 

                        

こんやは二時間も待ったのに

なんで来てくれなんだのか

おれはほんまにつらい

あんまりつらいから

関西線にとびこんで死にたいわ

そやけどあんたをうらみはせんで

あんたはやさしいて

ええひとやから

ころしたりせえへん

死ぬのんはわしの方や

あんたは心がまっすぐして

おれは大まがり

さりながら

わいのむねに穴あいて

風がすかすか抜けよんねん

つべとうて

くるしいて

まるでろうやにほりこまれて

電気ぱちんと消されたみたいや

ほんまに切ない  お月さん

----お月さん やて

あほうなこと云いました

さいなら わしゃもうあかん

死なんでおれへん

電車がええのや

ガーッときたら

ギョギョッと首がこんころぶわ

そやけど

むかしから

女に二時間待たされたからて

死んだ男がおるやろか

それを思うと恥ずかしい

   ---詩集『わたしの動物園』

*阪田 寛夫は童謡「サッちゃん」の作者でもある詩人。

こんなに さむい

おてんき つくって

かみさまって

やなひとね

   「カミサマ」 こんな愉快な歌もある。

宝塚歌劇団のトップスターだった大浦みずきは次女。

☆茨木のり子著「詩のこころを読む」岩波ジュニア新書p53・54から引用

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[わたしが一番きれいだったとき]      茨木のり子

2024年12月27日 | 音楽・絵画・映画・文芸
 
わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落してしまった 

わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年取ってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのようにね
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河合曽良の俳句      奥の細道を芭蕉翁のお供をして歩いた曽良も俳人。    

2024年12月12日 | 音楽・絵画・映画・文芸

病僧の 庭はく梅の さかり哉 

行き行きて 倒れ伏すとも萩の原

侘しさや 大晦日の 油売り 

終宵(よもすがら) 秋風聞や うらの山 

春に我 乞食やめても つくしかな

河合曾良 - Wikipedia

 芭蕉の奥の細道の旅のお供に最初に決まっていた弟子ではなく、代わりに曽良が選ばれた史実から 

曽良は幕府の奥州査察の密命を帯びた芭蕉の警護に選ばれた侍だったという説がある。

 阿智胡地亭は 諏訪に行ったあるとき 信州諏訪出身の曽良の彼の二つ目の墓を従兄に連れられてお参りしたことがある。

本来の曽良の墓は亡くなった壱岐の島にあるが ⇒ 史跡について | 壱岐市勝本浦ご案内

 後に生地の諏訪のお寺にも墓が作られた。  ⇒ 諏訪⑤正願寺と曽良の墓 | ここはいいところ

 諏訪地方では町人職人など町方の暮らしにも俳句が定着しており 諏訪の祖父は近所の仲間たちと月に何日か日を決めて 自分の仕立て屋の二階など持ち回りで句会をやっていたそうだ。

 昭和33年発行 祖父の俳句集「岱風句抄」から 六句 - 阿智胡地亭のShot日乗

松尾芭蕉は忍者だった?/ホームメイト

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詩『 汲む~Y.Yに 』 作:茨木のり子

2024年12月11日 | 音楽・絵画・映画・文芸

 汲む~Y.Yに  

             茨木のり子

 大人になるというのは

 すれっからしになることだと

 思い込んでいた少女の頃

 立ち居振舞の美しい

 発音の正確な

 素敵な女のひとと会いました

 

 そのひとは

 私の背のびを見すかしたように

 なにげない話に言いました

 

 初々しさが大切なの

 人に対しても世の中に対しても

 人を人とも思わなくなったとき

 堕落が始まるのね 堕ちてゆくのを

 隠そうとしても 隠せなくなった人を

 何人も見ました

 

 私はどきんとし

 そして深く悟りました

 

 大人になっても

 どぎまぎしたって いいんだな

 ぎこちない挨拶 醜く赤くなる

 失語症 なめらかでないしぐさ

 子供の悪態にさえ傷ついてしまう

 頼りない生牡蠣のような感受性

 それらを鍛える必要は少しもなかったのだな

 

 老いても咲きたての薔薇 柔らかく

 外にむかってひらかれるのこそ 難しい

 あらゆる仕事

 すべてのいい仕事の核には

 震える弱いアンテナが隠されている きっと

 

 わたくしも

 かつてのあの人と同じくらいの年になりました

 たちかえり

 今もときどきその意味を

 ひっそりと汲むことがあるのです

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 青梅街道
 
              茨木のり子

 内藤新宿より青梅まで

 直として通ずるならむ青梅街道

 馬糞のかわりに排気ガス

 いきもきらずに連なれり

 刻を争い血走りしてハンドル握る者たちは

 けさつかた がばと跳起顔洗いたるや

 ぐずぐず絆創膏はがすごとくに床離れたるや

   くるみ洋半紙
   東洋合板
   北の誉
   丸井クレジット 
   竹春生コン
   あけぼのパン

 街道の一点にバス待つと佇めば

 あまたの中小企業名

 にわかに新鮮に眼底を擦過

 必死の紋どころ

 はたしていくとせののちにまで

 保ちうるやを危ぶみつ

 さつきついたち鯉のぼり

 あっけらかんと風を呑み

 欅の新芽は 梢に泡だち

 清涼の抹茶 天に喫するは誰(た)ぞ

 かつて幕末に生きし者 誰一人として現存せず

 たったいま産声をあげたる者も

 八十年ののちには引潮のごとくに連れ去られむ

 さればこそ

 今を生きて脈うつ者

 不意にいとおし 声たてて

   鉄砲寿司
   柿沼商事
   アロベビー
   佐々木ガラス
   宇田川木材
   一声舎
   ファーマシイグループ定期便
   月島発条
   えとせとら

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吉良町の宮崎医院と詩人茨木のり子さん - 阿智胡地亭のShot日乗

茨木のり子の伝記「清冽」を読んでいます。    2011年02月13日(日)「阿智胡地亭の非日乗」掲載 - 阿智胡地亭のShot日乗

さくら      茨木のり子 - 阿智胡地亭のShot日乗

    「癖」      詩集「自分の感受性くらい」から  茨木のり子 - 阿智胡地亭のShot日乗

自分の感受性くらい     茨木のり子詩集「自分の感受性くらい」から - 阿智胡地亭のShot日乗

 

 

 

 

 

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小沢昭一さんが12年前の今日 2012年12月10日に亡くなった。  

2024年12月10日 | 音楽・絵画・映画・文芸

長年 フアンだった小沢昭一さんが亡くなった。寂しい。click☟

小沢昭一の「わた史発掘 戦争を知っている子供たち」を読んでいます。 - 阿智胡地亭のShot日乗

「道楽と仕事」について。小沢昭一の「道楽三昧―遊びつづけて八十年」を読んだ - 阿智胡地亭のShot日乗

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小沢昭一  Wikipediaから引用 画像引用元。

来歴・人物

小沢 昭一(おざわ しょういち、本名:小澤 昭一(読み同じ)、1929年(昭和4年)4月6日 - 2012年(平成24年)12月10日)は

日本の俳優、俳人、エッセイスト、芸能研究者、元放送大学客員教授。日本新劇俳優協会会長。俳号は小沢変哲。劇団「しゃぼん玉座」主宰。見世物学会顧問。


東京府豊多摩郡和田堀町大字和泉(現在の京王線代田橋付近)生まれ[1]。

父は現在の長野県長野市の出身で、新潟県高田市(現・上越市)で写真屋修行時代に結婚し東京に出てきた[1]。

昭一2歳の頃、父親が写真館を始めたため日暮里へ引っ越し[1]、4歳のときに蒲田に移り住む。

「当時の蒲田は、松竹映画の撮影所があるモダンな街で、また寄席もあり、その独特の雰囲気がのちの小沢の後の活動に影響を与えた。

旧制麻布中学を経て海軍兵学校第78期生として1945年4月に入校(第703分隊)するが、終戦の為に退校。早稲田大学文学部仏文科卒。

麻布中学の門をたたく前は、府立一中受験で失敗しているが、口頭試問の控え室で水晶の標本を面白半分で頭にのせて割ってしまったためだと自嘲気味に述べている[2]。

同中学時代から、演芸評論家・作家である正岡容の知遇を得て弟子になる。桂米朝、大西信行、加藤武らとは正岡門下の兄弟弟子の関係。

さらに、大西信行、加藤武らと演劇部を立ち上げた。

また、フランキー堺、仲谷昇とも同級だった。早大在学中にはやはり、大西信行、加藤武らと共に、日本で初めての学校での落語研究会

厳密には、名称は「寄席文化研究会」としたかったが、大学に認めてもらえず「庶民文化研究会」とした)を創設する。

1949年、大学在学中に俳優座付属俳優養成所の二期生となり、千田是也に師事する。卒業後、俳優座公演で初舞台をふむ。

1960年には演出家の早野寿郎と「劇団俳優小劇場」を結成。1966年に新劇寄席『とら』で芸術祭奨励賞を受賞した(俳優小劇場はのち、1971年に解散)。

以降、舞台、ラジオ、映画、テレビなどで芸能活動を行う。1966年のNHKのラジオドラマ「ゆびぶえ」など優れた作品を残している。

映画俳優としては、早稲田の同窓である今村昌平の紹介で、1954年に映画デビュー。今村が、日活に移籍したのをきっかけに自身も日活と専属契約をした。

ここで、小沢の心酔することになる川島雄三と出会う。

川島の『愛のお荷物』、『洲崎パラダイス赤信号』、そして『幕末太陽傳』で、わき役ながらその存在感を示した。

その後、今村の『エロ事師たちより・人類学入門』で主役を務め、1966年「キネマ旬報」の主演俳優賞、「毎日映画コンクール」男優主演賞など多数の賞を獲得した。

しかしながら、小沢は川島雄三に傾倒するところがあり、日本経済新聞に掲載された『焼け跡派のこころ』(2004年連載)では、

川島監督に演技開眼してもらったと述べている。

なお、プログラム・ピクチャーにも多数出演しているが、怪しいなまりの言葉を話す「中国人役」などが多かった

個性派のバイプレイヤーとして、200本以上の映画に出演している。

1973年には、現在も続く人気番組、TBSラジオの『小沢昭一の小沢昭一的こころ』を放送開始。

また、1969年、不惑の年に、それまでの新劇を基点とした活動に限界を感じ、またもともと落語好きだったこともあり、

「芸能の原点」を求めて日本の伝統的な芸能に憧れを抱き、著書『私は河原乞食・考』を刊行。

また、この年から、早稲田大学演劇科の大学院に特別入学して、郡司正勝教授のもとに5年間通い、芸能史の研究を行った。

その流れで、放浪芸の収集、発掘に深い関心を寄せ、記録、保存、著述を行うようになる。1971年には全国を廻って収集した音源を元に制作した

レコード『日本の放浪芸』LP7枚組を発売し、1971年度の第13回日本レコード大賞企画賞を受賞。

続編の『又・日本の放浪芸』は、1974年度の芸術選奨新人賞を受賞。以降も、次々と続編を制作する。

また他にも、古くからの芸能の研究活動のため、1975年から研究誌「季刊藝能東西」を創刊・編集。

またその雑誌を刊行する出版社「あたらしい芸能研究室」も創立。

「藝能東西」以外にも、芸能関係の書籍を刊行し、2001年まで出版社として活動した(現在は「しゃぼん玉座」の付属機関として小沢関係のCD等を企画)。

また、小沢自身も、伝統芸能や、ストリップなどの猥雑な芸能を、取材・研究した本を、刊行し続けることになる。

また、その「芸能史研究の実践活動」として、1975年から1980年まで劇団「芸能座」を主宰。

1982年には「俳優が小沢一人」の劇団「しゃぼん玉座」を創設し、現在も活動を行っている。

「引退興行」と称して『唐来参和』(井上ひさし原作)の一人芝居を各地で、1982年から18年間続け、公演660回を数えた。

他に野坂昭如、永六輔と「中年御三家」を結成し、1974年の武道館でのコンサートはビートルズ以来と言われるほど盛況であった

(2003年に「帰ってきた中年御三家」コンサートをNHKホールで行ったが、野坂は病気のため不参加)。

小沢はまた、俳人でもあり、「小沢変哲」という俳号を持っている。1969年に入船亭扇橋を宗匠にして、永六輔、江國滋酔郎らと共に「やなぎ句会」を発足。

句集など俳句関連の出版物もある。

父が修業した新潟の写真館の建物が収蔵されていることから、博物館明治村の村長も務めている。

1994年に紫綬褒章、1999年に坪内逍遥大賞、2001年に勲四等旭日小綬章及び徳川夢声市民賞、2003年に東京都功労者。

2004年に早稲田大学芸術功労者。2005年に朝日賞。元放送大学客員教授。2008年したまちコメディ映画祭in台東において、『第1回コメディ栄誉賞』を受賞。

☆日本の滅びゆく大道芸を、重いテープレコーダーを持って日本各地に探索・記録した。この人はそれらをまとめて文献や映画、ビデオに残している。

日本の大衆あるいは民衆芸能史の恩人という一面を持っている

添田唖蝉坊・金々節 / 土取利行(唄・演奏)

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Wikipediaから引用☟

小沢昭一の小沢昭一的こころは、1973年(昭和48年)1月8日に開始した小沢昭一のモノローグ冠番組。長寿番組の一つ。

テレコムサウンズ(現・TBSプロネックス)の制作で、TBSラジオをキーステーションに、JRN加盟各局で平日にネットされ、放送時間は全国各地で異なる。

概要 [編集]『森繁の重役読本』(1962年(昭和37年)3月~1969年(昭和44年)4月)の後継番組として企画された[3]。

小沢が“口演”と称し、週代わりのテーマ(「○○について考える」)に沿って、軽妙な話術で物語る。扱うテーマは時事問題から下ネタまで幅広く、永年の固定ファンが多い。

2011年(平成23年)5月13日に放送10,000回を迎えた。毎週月曜日に翌週分の収録が行われていた。

「宮坂さん」なる架空の人物が、概ねストーリーの主人公を務める[4]。番組初期には「昭和ヒトケタ」の働き盛り、かつ悲哀漂うサラリーマンの設定[5]が多かった宮坂さんも、

小沢が年輪を重ねるに従い「宮坂お父さん」「宮坂薬局店長の宮坂さん」等、第一線から退いた事を伺わせる表現が用いられるようになった。

坂本勝正プロデューサーを揶揄した「能天気プロデューサー」、宮坂さん行きつけのバーの「れいこママ」と「詩人のヒモ(タロウ)」、子供「とおる」「ななえ」等、

固有名詞を持つ脇役も登場するが、宮坂夫人は「奥方」或いは「お前」で特に名は無かったが、2010年(平成22年)5月19日放送分で夫の宮坂さんに「アリコ」とよばれ、

ナレーションで「有子(ユウコ)」という名前であることが明かされた。ナレーションも含め、これら全員を小沢が独演する。

猛妻の尻に敷かれ子供らに疎んじられる「中年男の悲哀」を基本に、「愚痴を交え、斜に構えた蘊蓄を世事に傾ける」

「落ちと言った落ちが無い(その都度テーマを変え、次回に期待を抱かせつつ延々と続く)」路線は、前身の『森繁の重役読本』からそっくり承継されたものであった[3]。



 ◎小沢昭一さんは、映画「幕末太陽伝」の予告編にはわずかしか顔を見せないが、

昭和32年制作のこの映画(シネマ旬報・歴代日本映画第4位)の頃から、芸達者な俳優として知られていた。

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久しぶりに実に面白い【今の時の純文学小説】を読んだ。 松永K三蔵が書いた「バリ山行き」と言う小説だ。 

2024年12月02日 | 音楽・絵画・映画・文芸

30数年ほど前 「文芸春秋」という雑誌を4年間ほど毎月定期購読していたことがある。

しかしどうもこの雑誌には偏った胡散臭い連中が巣食ってしまい まっとうな社員グループを隅においやったなぁと感じる号が続いて読むのを止めた。

 それからは芥川賞や直木賞も雑誌を売るための販促ツールの一つと思うようになり 賞を取った小説が単行本になってもすぐ手を出さず

数年たっても時折興味深い書評が絶えない本だけを たまに読んだ。

 しかしこの「バリ山行き」と言う小説は 六甲山の山登りの小説だと新聞記事で目にして興味を持った。

自分が六甲山の麓のエリアで通算すると40年ほど暮らしていたからだ。

図書館でネット予約を入れたら 単行本は40人待ちほどだったので 掲載号の文藝春秋の雑誌で申し込んだら即借り出し可能の状態だった。

 読みだすとすぐに阪神御影や住吉川、ロックガーデンなどの活字が目に飛び込んできた。そして情景が目に浮かんだ。

主役の人物は社員50人ほどの工務店に転職して3年ほどの会社員だ。そしてもう一人の主役は❝妻鹿-めが❞という苗字の職人肌の先輩社員だ。

 請負の建物修理工事の進捗や現場の段取りから引き渡しまで リアリティそのものの描写だ。

そして山行きの書きようが凄い。危険な状況に満ちた山行きの臨場感を猛烈に味わいながら読み進めた。

 そのうちに書き手はほんまもんのプロの物書きだなと思うようになりながら読み進めた。

この作家は自分でも登山路ではないバリエーションルートを登る「バリ山行」をよくしている人だと思った。

 そして彼が勤めている会社生活の不条理とその中で生きる日々は 阿智胡地亭が予測する展開を裏切り続けた。

まさに今の世の工事現場で働く人の日本と言う娑婆がこの小説の中にあった。

  ラストの描写が不思議に清々しいのがいい。

 作家本人が目指す『オモロい』小説が世に出たと思う。私の大好きな❝ハラハラドキドキ❞は 純文学とも両立するのだ。

CLICK ☟

芥川賞・松永K三蔵さん「家族が一番です」家庭人、会社員だからこそ書けた「バリ山行」 小説家になりたい人が、芥川賞作家になった人に聞いてみた。|好書好日

純文学山岳小説『バリ山行』が芥川賞を受賞! 松永K三蔵さんインタビュー【山と溪谷2024年10月号】 - 山と溪谷オンライン

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映画「PERFECT DAYS」を見ました。  同じように過ぎる毎日でも 生きていくのに同じ日は一日もない

2024年11月06日 | 音楽・絵画・映画・文芸

Pale Blue Eyes - Velvet Underground // Perfect Days Edit

都内の公園内の公共トイレを清掃することを仕事にしている初老に差し掛かっている男、平山の日々を描く映画。彼はスカイツリーが見える長屋に一人で住んでいる。

 何ときっちり仕事をする人間なんだ。誰も見ていない、誰のチエックもない。しかし彼は彼の仕事を隅から隅まで完全にやり上げる。全くの当然の我が身のおこないとして。

朝の缶コーヒーも昼のコンビニのサンドイッチも 行きつけの銭湯も 風呂上がりで行く上野の地下の居酒屋の一杯も 毎日全く判で押したように同じ。そういう毎日。

人は群れの動物だが 人間としてはただの群れの一員だけでは生きていない。彼は彼なりの好き嫌いや していいことや してはいけないことの物差しを持って生きる。

 それを持っている個だけが 動物ではなく人間として生きる。 彼には口をきいたことはないが目で挨拶する同じ時空を共有する知り合いが何人もいる。

平山は毎日公園の木を見あげる。木漏れ日があるとフィルムカメラを取り出してそれを撮る。その時の彼の嬉しそうな表情が何とも言えない。

(私も時々同じことをしてブログにアップするので驚き嬉しかった。)

彼は自分の毎日の生活の中で 小説やエッセイの読書の時間を欠かさない。そして車に乗っている間 ずっとカセットテープで英米の懐しい曲を聞く。

 少しずつ彼の個人史が明らかになっていく。

生きていく中で彼は自分と誰かを比べるということは全くない。そして彼は彼の日々を今日も他の誰でもない平山として生きていく。

 

 映画を見終わったとき 映画の題名の意味が分かったような気がした。  

映画は隅田川にかかる高速道路を俯瞰したドローン画面で捉えた平山の軽四輪が走る場面が何回も出てくる。

阿智胡地亭が暮らしている中で見たり歩いたりするエリアにも重なるが、高速道路の上空からの 

東京の東部のあちらこちらの街並みのシーンは初めて見るアングルが新鮮だった。

 

 映画を見た日比谷のTOHOシネマズシャンテは既に一日一回だけの上映になっていたが それでも20人ほど観客がいた。

ブログ「 神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)」(click)  さんのこの映画のエントリーを見てあっそうだと慌ててネットで上映館を探して見ることが出来た。

見るつもりでいた映画だったのに うっかり見過ごすところだった。

PERFECT DAYS 公式サイト

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映画コムサイトから引用

解説

「パリ、テキサス」「ベルリン・天使の詩」などで知られるドイツの名匠ビム・ベンダースが、役所広司を主演に迎え、

東京・渋谷を舞台にトイレの清掃員の男が送る日々の小さな揺らぎを描いたドラマ。2023年・第76回カンヌ国際映画祭コンペティション部門で

役所が日本人俳優としては「誰も知らない」の柳楽優弥以来19年ぶり2人目となる男優賞を受賞した。

東京・渋谷でトイレの清掃員として働く平山。淡々とした同じ毎日を繰り返しているようにみえるが、彼にとって日々は常に新鮮な小さな喜びに満ちている。

昔から聴き続けている音楽と、休日のたびに買う古本の文庫を読むことが楽しみであり、人生は風に揺れる木のようでもあった。

そして木が好きな平山は、いつも小さなフィルムカメラを持ち歩き、自身を重ねるかのように木々の写真を撮っていた。

そんなある日、思いがけない再会を果たしたことをきっかけに、彼の過去に少しずつ光が当たっていく。

東京・渋谷区内17カ所の公共トイレを、世界的な建築家やクリエイターが改修する「THE TOKYO TOILET プロジェクト」に賛同したベンダースが、

東京、渋谷の街、そして同プロジェクトで改修された公共トイレを舞台に描いた。

共演に新人・中野有紗のほか、田中泯、柄本時生、石川さゆり、三浦友和ら。カンヌ国際映画祭では男優賞とあわせ、キリスト教関連の団体から

人間の内面を豊かに描いた作品に贈られるエキュメニカル審査員賞も受賞。また、第96回アカデミー賞の国際長編映画賞にノミネートされた。

2023年製作/124分/G/日本
配給:ビターズ・エンド
劇場公開日:2023年12月22日

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映画『PERFECT DAYS』役所広司演じる“平山”のカセットテープコレクション【劇中曲リスト】

【こんなふうに生きていけたなら】映画『PERFECT DAYS』PLAYLIST

全ての歌詞の和訳はこちら。

映画「PERFECT DAYS」平山のカセットテープコレクション | 自ら学ぶ力を育てるための情報を更新 | 名古屋で自己学習力を高める塾をお探しなら寺子屋塾

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「PERFECT DAYS」 撮影地19箇所、映画ストーリーをそのまま再現: フィルム写真とThe Tokyo Toiletプロジェクト

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日本橋の三井ホールでいままでにないかたちの美術鑑賞を経験した。   その二  モネ&フレンズ アライブ

2024年09月21日 | 音楽・絵画・映画・文芸

会場には11時入場のチケットで入ったが かなりの混雑だった。入場者を男女の比で言えば女性95人に男性5人という感じだった。

ウイークデイの午前中とは言え、あまりの男女差数に何となく侘しい心持になった。

240919日本橋三井ホールの催し モネ&フレンズ アライブ

日本初上陸【モネ&フレンズアライブ】世界を魅了した没入型展覧会 イマーシブ体験 印象派の世界 クロード・モネ、カミーユ・ピサロ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、ポール・セザンヌ、エドガード・ドガ

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小説『火垂るの墓』  著者 野坂昭如さんの あとがき

2024年08月15日 | 音楽・絵画・映画・文芸
 
君たちの生まれる前、戦争があった。
 
たくさんの人が死んだ。
 
そして、日本は、もう二度と戦争をしないと決めた。
 
だが今、戦争を迎え入れつつある。いつ戦争に巻き込まれてもおかしくない状態なのだ。
 
君たちはこれをどう考える。
 
君たちの周りには食べ物が溢れている。
 
けれど、そのほとんどが、輸入の産物。
 
戦争が起きれば、食べ物は入ってこなくなる。
 
そうなれば、たちまち日本国中、餓死して当然。
 
ぼくが子供の頃、この国は農業が盛んだった。
 
身近に、作る人の努力を感じることができた。
.
物を食べる時、作った人や、その収穫物に感謝する気持ちがあったし、大地の恩、水、天の恵みを有難く思っていた。
 
「いただきます」という言葉には、そういった気持ち、すべてが込められていた。
 
食べ物を大事にしてください。
 
戦争中、そして戦後、餓えて死ぬ人を何人も見た。
 
戦争は嫌だ。戦争は決してしてはいけない。
 
君たちに同じ思いをさせたくいない。
 
君たちが大人になる頃、戦争を経験したぼくたちはもういないだろう。
 
この本を読んで、戦争を考えて下さい。
 
戦争について、語りあって下さい。語り合うことが大事です。
 
そして、ここに書かれなかった戦争の真実を、君たちの力で自分のものにしてください。
 
* 野坂昭如『火垂るの墓』 あとがきより
 
「火垂るの墓を歩く会」に参加しました。その1
「火垂るの墓を歩く会」に参加しました。その2
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詩   「姥イーツ」  作  堀口すみれ子

2024年08月10日 | 音楽・絵画・映画・文芸

「かまくら春秋 2024年 8月号」 No.652

6,7ページから引用

 ◎ほまち ー 帆待ち :  臨時の収入 へそくり

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映画「父と暮らせば」  「夕凪の街 桜の国」  今から79年前の今日広島の街で アメリカが使った核兵器が虐殺した人間たちの二つの話

2024年08月06日 | 音楽・絵画・映画・文芸

阿智胡地亭便り#74「映画 父と暮らせば  宮沢りえと役者の力」    2005年1月31日記 

神戸朝日ビルデイングの地下にある映画館に「父と暮らせば」という映画を見に行きました。


ピカの爆風で倒れた屋根の下に父親が埋まり、猛火が迫る中、彼を必死で救おうとして逃げない20歳の娘を叱咤して、逃げさせた父親。

傷ついた父親を見殺しにして自分だけが助かったと自分を責め続ける娘。


うちはしあわせになったらいけんのじゃ」と彼女のセリフにありました。
 
そのシーンを見ると同時に、10年前に神戸のあちこちで同じような目にあった人が沢山いたことが頭に浮かびました。

元々がもう何度も上演された舞台劇の映画化であるということや、出演者がほぼ親子二人だけと言うこともあり、

セリフは一つ一つが長くて緊張感がありました。それを宮沢りえは美津江という役柄の人に成り切って喋りました。

スクリーンの上には美津江しかおらず、宮沢りえはどこにもいませんでした。

映画が始まってすぐに、私の前から俳優そのものは消えて、今このような人達が目の前にいると思って見ていました。

勿論プロデユーサーと監督がいなければ、また原作と脚本がなければ映画は出来ませんが、引き込まれる映画や舞台には

役者の力も本当に大きいと強く思いました。

広島で勤務していたある夏の暑い日に、たまたま通りかかったビルの壁に銅板がはめ込まれているのに気付き、何気なく読んだら、

「この場所の真上560mの高さで原子爆弾が炸裂しました」と書いてありました。思わず青い空を見上げました。

「その瞬間、爆心地の温度は太陽の表面温度6,000度の2倍の12、000度になりました」とも。

声高に言うこともなく、何も押し付けることもない。ただ自分と同じような人たちがあの瞬間まで生きていて死んだ。

そしてその経験を伝えずにまだ生きている人もいることを映像で伝える。映画というメデイアも凄いけど、

そのことを全身で伝えきる役者というのも凄い職業だなあ、そしてあの役柄になりきった宮沢りえという役者は、どうやったらあんなことが出来るのだろうと思いました。


今回見た映画の主演女優は宮沢りえでした。「たそがれ清兵衛」という映画を見てから、彼女はタレントではなく役者だと思うようになっていました。

そして今回「父と暮らせば」の彼女を見て、前よりもっと強く、この人は凄い役者になっていると思いました。

「たそがれ清兵衛」を見た後、彼女の事はそれまでは、芸能三面記事的なことしか知らなかったなあと思いました。

それはリエママと言われている母親のいうままに操られているタレントであるとか、何かのストレスで大痩せしたとかいうようなことです。

「たそがれ清兵衛」での彼女は役に成り切っていて、その役柄の人間そのものがスクリーン上で動いていました。

吉永小百合という映画女優は随分息が長い女優さんですが、彼女はどんな役を演じても、スクリーンに映っているのはやはり吉永小百合です。

しかし宮沢りえはスクリーン上で宮沢りえではなく、その役柄の人でした。

「いい映画だったから、見て来たら」と相方に言われて、「父と暮らせば」という映画を殆ど予備知識がないままに見に行きました。

登場人物はたった3人で、父親役の原田芳雄とその娘の役の宮沢りえ、もう一人大学助手役の浅野忠信という俳優さんでした。

時代と場所の設定は昭和23年の広島市内です。

映画の初めから終わりまで父娘のセリフは、全部広島弁と言うことは事前に聞いていました。広島言葉も私が好きなことを知っているので、

そのこともこの映画を薦めてくれた理由の一つのようでした。たった3年間広島で単身生活をしただけの私の耳ですから、

判別能力は大したことはありませんが、私には役者の使う広島言葉は何の違和感もなく、広島に生まれ育った人が終始喋っているように思えました。

アクセントも、そしてセリフにはもっと重要だと思うリズムも完璧でした。

(最後に流れるクレジットタイトルで確認したら、広島方言指導になんと3人の人の名前が出ていました。

監督がセリフ回しに完璧を期し、役者もそれに応えたなと思いました。)

  解説  引用元

 原爆投下から3年後の広島を舞台に、生き残ったことへの負い目に苦しみながら生きている娘と、そんな彼女の前に幽霊となって現れた父との心の交流を描いた人間ドラマ。

監督は「美しい夏 キリシマ」の黒木和雄。井上ひさしによる同名戯曲を基に、黒木監督と池田眞也が共同で脚色。撮影監督に「Spy Sarge. スパイ・ゾルゲ」の鈴木達夫があたっている。

主演は、「たそがれ清兵衛」の宮沢りえと「HARUKO ハルコ」の原田芳雄。第17回日刊スポーツ映画大賞監督賞受賞、エキプ・ド・シネマ発足30周年記念、

芸術文化振興基金助成事業、文部科学省選定、厚生労働省社会保障審議会特別推薦、青少年映画審議会推薦、日本PTA全国協議会推薦、日本映画ペンクラブ特別推薦、

東京都知事推奨、広島県知事推奨、長崎県知事推奨、長崎県教育映画等審議会特別推薦、日本原水爆被害者団体協議会特別推薦作品。


ストーリー
1948年夏、広島。原爆によって目の前で父・竹造を亡くした美津江は、自分だけが生き残ったことに負い目を感じ、幸せになることを拒絶しながら生きている。

そんな彼女の前に、竹造が幽霊となって現れた。実は、美津江が青年・木下に秘かな想いを寄せていることを知る竹造は、ふたりの恋を成就させるべく

あの手この手を使って娘の心を開かせようとするのだが、彼女は頑なにそれを拒み続けるのだった。しかし、やがて美津江は知...

スタッフ
監督
黒木和雄
脚色
黒木和雄
池田眞也
原作
井上ひさし
企画
深田誠剛
キャスト
宮沢りえ  福吉美津江
原田芳雄  福吉竹造
浅野忠信  木下正

父と暮せば(予告)


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2007年08月09日(木)[阿智胡地亭の非日乗]に掲載。

映画「夕凪の街 桜の国」

相方に誘われて「夕凪の街 桜の国」を見ました。

遠い昔の出来事ではなく、いまこの同じ時間を生きている人にも原爆のことはつながっている・・・そのことをこんなに自然に教えてくれる。

黒木和雄監督の映画「父と暮らせば」で印象が残る「うちは幸せになってはいけんのじゃ」という言葉がこの映画にも出てきてドキッとしました。

真の被害者が我が身を責め、ケロイドの残る身を人から異形の人と差別され、人の目の立たない裏通りで生をつなぎ、やがてこの世から姿を消していく。

生きた証もなく。


それらのことを加害国に気を遣ってか、見てみない振りしてきた62年間。

映画が終わって、本屋で原作の漫画を買いました。 自分が知らないだけで世にスグレモノは仰山おられる・・ とまたまた思いました。

嬉しい?

十年たったけど 原爆を落とした人は私を見て「やった!またひとり殺せた」 とちゃんと思うてくれとる?

こんな言葉を考えつく作者の[こうの史代]さんとはどんな人でしょうか。

名前を見てふと、代々歴史を語り継ぐということからつけたペンネームかと思いました。


広島という所は凄い漫画家を生んだものですね。

前段と後段のそれぞれのヒロインを演じた麻生久美子、田中麗奈さん、それ以外の出演者も肩に力をいれず、

淡々とありのままに映画の中で生きていました。

10数年前、わずか3年間とはいえ自分が住んだことがある広島の街の言葉がスクリーンに流れ、戦争当時と現代の広島の街並みが映る。

漫画が原作の映画かと軽く見ていましたが、今や小説では描けないものを漫画家が表現してくれることがあると知りました。

誘ってくれなかったら見なかったかも知れないけど、今年これまでに見た映画の中ではBESTの映画でした。

8月6日が、今日9日が、それぞれ広島と長崎に62年前 アメリカという国が、人類の上に史上初めて核兵器という大量無差別殺戮爆弾を落とした日です。

この映画は62年が経過したからこそ出来た映画だと思いました。

次の62年やそれ以上をこれから生きるであろう、今年地球上に生を受けた人類の赤ん坊を守るのは自分たちしかいない。

 映画を見終わった時そう思いました。

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ロートレック展で斬新な構成と色遣いと精妙さに❝北斎❞を感じ続けた。

2024年06月28日 | 音楽・絵画・映画・文芸

今月の散歩会も西新宿野村ビルの「響」での昼食の集まりになったが 事前にすぐ近くにあるSONPO美術館のロートレック展を

観賞することになった。

 サイトより

{19世紀末フランスを代表する画家、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(1864年―1901年)の展覧会です。

ロートレックによる紙作品の個人コレクションとしては世界最大級のフィロス・コレクションより、約240点をご紹介します。

フィロス・コレクションの最大の特徴である素描作品に始まり、ポスターを中心とする版画作品、雑誌や書籍のための挿絵、

ロートレックが家族や知人にあてた手紙、ロートレックの私的な写真など、画家に肉薄した作品と資料で構成する展示です。}

 

 

 

 明治の中ごろにフランスでこのような作品を生み続けたロートレックの幼時からの膨大な素描を見ていると

北斎画を見ているような気になってきた。帰宅後調べるとロートレックは北斎が亡くなってから15年後に生まれている。

 洋の東西にほぼ同じころ 天才が二人それぞれの創造活動を続け それが 世に受け入れてられていたんだと思った。

二人の構図の大胆さと視点の独自性は当時としても 日本でもフランスでもなかったものだと思う。

人が凄い!!と感じいる創造物は時空を超えて こうして人を撃つのかとあらためて感じた。

 ランチタイムの予約時刻には今回は5人が揃った。よく食べよく飲んでよく喋った。

大谷翔平賛辞や小池論争や体のアチコチの傷みなど健康話などなど・・

 

49階からの新宿の混沌の街並みの眺めは良くも悪くもまさにアジアでそれなりに面白い。

コメント (1)
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「没後15年 庄野潤三 展」が 神奈川近代文学館でスタート 8月4日まで。 「庄野潤三さんの小説を20代の頃からずっと読んできた」

2024年06月10日 | 音楽・絵画・映画・文芸

 

画展「没後15年 庄野潤三展――生きていることは、やっぱり懐しいことだな!」 | 神奈川近代文学館 (kanabun.or.jp)

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「庄野潤三さんの小説を20代の頃からずっと読んできた」

作家とその作品と、それを読む人間にはどうも相性ということがあるような気がする。

 例えば村上春樹さんの作品は私には向いていないと言うか 読んでも面白いと思えない。ただ彼のエッセイは好きだ。

庄野潤三という人の作品には最初の一冊「明夫と良二」から彼の世界に没入してしまった

   庄野潤三という人と出会ったのは私の人生の中の大きな僥倖だと思っている。

庄野さんが書いた本との出会いのおかげで、私は社会生活と家庭生活の中で何とか精神のぐらつきを支えてもらってこれまで生きてこられたような気がする。

§ 庄野潤三さんはどういう作家だったか 2009922日配信 毎日新聞の訃報から

「静物」や「夕べの雲」など日常生活を静かな筆致で描き、「第三の新人」を代表する一人として活躍した作家。

1955年、平凡な暮らしにひそむ危機をとらえた「プールサイド小景」で芥川賞受賞。

詩情豊かに生活の細部を描いて、安岡章太郎氏や吉行淳之介、遠藤周作らとともに「第三の新人」と呼ばれた。

夫婦の亀裂を描いた「静物」(60年、新潮社文学賞)は戦後文学の名作に数えられる。その後も「夕べの雲」(65年、読売文学賞)、

「絵合せ」(71年、野間文芸賞)、「明夫と良二」(72年、毎日出版文化賞)など人生の機微を追求する家庭小説を書いた。

一方で「浮き燈台(とうだい)」「流れ藻」など見聞に基づいてストーリーを構成した作品も好評に迎えられた。

「ガンビア滞在記」(59年)、ロンドン紀行「陽気なクラウン・オフィス・ロウ」(84年)、

脳内出血後の記録「世をへだてて」など、随想にも秀作が多い。

90年代後半からは自身の日常生活を題材に「貝がらと海の音」「庭のつるばら」などを主要文芸誌に書き継ぎ、健在ぶりを示した。

それは06年3月刊行の「星に願いを」に至っている。

「庄野潤三全集」(全10巻・講談社)がある。

§ どういうような小説か

◎例えば「ザボンの花」

舞台は昭和三〇年代初頭の東京の郊外、小田急生田駅近くの丘陵地に建つポツンと一軒家。あたりは麦畑や雑木林が広がっている。

その家には数年前に大阪から越して来た若い夫婦と三人の子ども、そして一匹の犬が暮らしている。

そんな一家の日常生活スケッチがこの本の内容だ。

大阪から東京に引越した著者一家がどんなふうにして暮らしているかを、大阪のお母さんに知らせるつもりで書いたという。

山中に住むようになった家族の日常生活のあれこれ、子供たちそれぞれの学校の友達のエピソード、地元のお百姓との付き合いや買い物の店の事。

文章はたんたんとして特に山場もない。

◎大阪の兄から送られた庭木の話、庭に植えた植栽の育っていく経過の話、小田原に住む長女からくる毎年の誕生日祝いの手紙の内容、宝塚歌劇の観劇の話、

大阪にある両親・縁者の墓参りの話、

その折に泊まるグランドホテルと中にある竹葉亭で鰻を食べる話、友人とのたまの飲み会の話、奥さんと二人で食後に奥さんのピアノ演奏で合唱する話、

子供たちが森にしかける鳥のワナの話などが繰り返し繰り返し出てくる。

 

◎須賀敦子さんという人が『夕べの雲』をイタリア語に訳している。『夕べの雲』を訳した理由をこのように語っている:(中井教授の著作から引用)

「この小説は読んで以来ずっと私の頭を離れなかったし、読んだ時すぐにこの本をイタリア語に訳せたらと思った。この中には、日本の、ほんとうに一断面がある。

それは写真にも、映画にも表せない、日本のかおりのようなものであり、ほんとうであるがゆえに、日本だけでなく、世界中、どこでも理解する普遍性をもっている。」

神戸大学医学部名誉教授中井久夫さん(文化功労者)は、その著でこう述べている。

庄野潤三の日本語は明瞭で、骨格があり、肌がきめこまかく膩(あぶら)がのって、気品とユーモアがある。

(中略)庄野が身辺を描いてなお私小説というラベルを拒むのは須賀さんのエッセイと同じ理由ではないか。

主人公は決して自己主張せず、むしろ状況を照らしだす。それが須賀さんに翻訳への心躍りをさせた力の一つだったのではないか。

§ 簡単な経歴

大正10年生まれ 平成21年死去 享年 88

1921-2009)大阪(住吉区帝塚山)生れ。大阪外国語学校英語科を経て九州帝国大学法文学部卒。海軍に入隊後少尉に任官。米軍上陸に備え砲台を建設する。

戦後府立今宮中学校教諭、朝日放送本社に勤務し昭和28年東京支社に転勤。当初練馬区に住む。昭和364月、神奈川県川崎市生田に転居。

長女夏子は生田中学校2年に、長男龍也は生田小学校4年に転入。次男和也は西生田幼稚園に入園。それ以来亡くなるまで48年間生田の家で暮らした。

 § 何故好きになりずっと読み続けているのか

彼の本を読むと心が落ち着く。こういう生き方が実際にあるんだと知った。

自分の会社生活や母と同居が始まった家族生活の日々の軋轢や悩みが何となく客観視できて心の持ち方が変わるような気がした。

自分がつきあっている人のどんな方々より親しい一家が出来て、その日々の経過や変化を読むのが楽しい。

3人のお子さんの学校生活のさまざまなエピソードと、学校を終えて就職・結婚し孫が生まれてそんな暮らしをしていることも彼の小説で全部知っている。

彼は周囲の人を全員好ましい人として遇し、暖かく描いている。読むだけで気持ちがほっこりする。現実ではないかも知れないがあらまほしき世界だ。

人の眼や世間の評価を気にしない人生を送り、ごく身近な題材ながらその狭い世界を常に好奇心を持って虫の眼と鳥の目を持って生活をしている。

 だから、庄野さんの生きている姿や流儀に憧れを持った 

§ 庄野さんの作品が持つ深みはどこから来たか

結婚生活が始まって間もなく、長女が赤子のときに奥さんが服毒自殺を図ったようだ。幸い発見が早く死に至らなかった⇒作品「静物」。

それがあってからの庄野さんの生き方は変わり、それに伴って作品も変わって行ったように思う。家族を大切にし、付き合う人びとを慈しんで生きた。

自身の戦争体験を底に秘め 戦後の世の中に生きた一家の日々の普通の生活の積み重ねを細部をゆるがせにせず描き続けた。

 平凡に生きる生活の中にも深みはある。

§ 自分の人生や生活と真逆の人生や生活

◎同じ場所同じ家に48年間ずっと住んだ庄野さん

  生まれてから19回の転居を重ね、社会人になってからも6回住む家が変わった自分

◎家族の扇の要を自然体でやり妻と三人の子らと常に話をし、交流し家族の中心にいた庄野さん

  母子家庭で育ったような生活の自分は父親との関係は薄かった。進学先も就職先も一人で決めたほどだ。

§ 庄野潤三の交友関係

 伊東静雄、島尾敏雄、佐藤春夫、三好達治、阪田寛夫、吉行淳之介、安岡章太郎、井伏鱒二、河上徹太郎、実兄の庄野英二

同じ帝塚山学院の同級生である芥川賞作家の阪田寛夫の次女は宝塚スターだった大浦みずきだが、

彼女の芸名は庄野潤三が名付け親で、ずっと一家で大浦みずきを応援していた。了

    これまで読んできた難波や梅田などの古本屋巡りもして集めた庄野さんの本。

2018年2月神戸から東京都江戸川区への引っ越しに伴い保管スペースがなく少数を残して断捨離した。

 記録のため書影を撮影。

庄野潤三と村上春樹の庄野批判を書いた興味深いブログ⇒こちら。

 

 

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皇居三の丸尚蔵館の開館記念展の第三期を楽しんだ。    その2    屏風や文房具なども当時の最高技量の優品が・・

2024年03月31日 | 音楽・絵画・映画・文芸

 

源氏物語屏風

 

 

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皇居三の丸尚蔵館の開館記念展の第三期を楽しんだ。    その1     藤原定家の「更級日記」墨書に感激。    

2024年03月30日 | 音楽・絵画・映画・文芸

 

Oh散歩会の6人は地下鉄大手町C13a出口に集合し 雨風激しい中を幹事さんが11時入場を事前予約してくれていた尚蔵館に向かった

 

藤原定家が鎌倉時代に筆写した「更級日記」の一部を目の前で観ることが出来た。

13世紀に書かれた和紙と墨書からなる逸物を 21世紀に生きる自分がいま目の当たりにしていることにいささか興奮した。

トータルの字の配りの見事さと 白と黒の流れの美にしばらく動けなかった。

 

皇居三の丸尚蔵館 The Museum of the Imperial Collections, Sannomaru Shozokan

 

 

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