阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

江戸東京博物館の中は・・

2006年11月30日 | 東京あちこち
家康さんが江戸に来る前から現代までの東京の歴史が金に糸目をつけないと見える展示物で示されていて、学童の群で一杯だった。しかし外国人の個人客も多くいて熱心に見て周っているのにちょっと驚いた。以下戦時中と戦後すぐの展示から。
「江戸東京博物館」の詳細はこちら(クリック)をどうぞ。

戦時中の下町風景。


家の中。


機銃弾の貫徹。鉄板がこれだから機銃掃射された人間は体がバラバラになったというのもわかる。


電熱器。会社に入った頃はまだ同じ型のものが売られており、工場の独身寮の個室に買った500wの電熱器を置いて、鍋でラーメンを作ったり、一夜干しをあぶったりしたのはいいが、部屋に吊るした作業着に魚の臭いが染み付いて、隣の席の女子社員に嫌がられたことを思い出した。酒を飲んで夜中に次々と帰寮する仲間が、飲んだ後のラーメンはうまいと言って部屋にきて、もう寝ている私の横でラーメンを作って食べていたこともよくあった。


スバルの最初の型式車も置いてあった。
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荒木経惟の写真展「東京人生」

2006年11月29日 | 東京あちこち
上の写真は三ノ輪の生家である「履物店」の前の荒木経惟。

両国にある奇妙な東京を象徴するような奇天烈な設計の建物「江戸東京博物館」で、荒木経惟の写真展「東京人生」を12月24日までやっている。

荒木経惟ことアラーキーは昔から気になる同時代人の一人だ。
彼の写真はどの一枚も気持ちがなごむ物はない。
自分はここに写っている連中と同じ日本人だといつも思い知らされる。

プロフィル;
1940年東京都台東区三ノ輪生まれ。
千葉大学工学部写真印刷工学科卒。
1963年広告代理店電通入社、
写真部に所属。
1964年写真集「さっちん」で
第1回太陽賞。
1972年電通退社。
1974年東松照明・細江英公・
森山大道・横須賀功光・深瀬昌久らと
「WORKSHOP写真学校」の設立に参加。
1976年荒木経惟私塾開設。
1981年事務所「アラ-キ-」開設。
●主な写真集と著作:
わが愛・陽子、偽日記、写真生活、写真論、
天使祭り、荒木経惟写真全集(平凡社全20巻)、
荒木経惟文学全集(平凡社)。
中でも「東京」の名をつけた数多くの写真集を発表。
「東京は、秋」「私東京」「東京ブル-ス」「東京エレジ-」「東京写真」「東京劇場」「東京日記」ほか。
●受賞歴:太陽賞、東川賞(国内作家賞)、
日本文化デザイン会議賞、織部賞など多数。

「三ノ輪はノスタルジ-として私の写真の中に残っている。
私が生まれたのは台東区三ノ輪だけど、今では昔の面影もなくなってるね。近くに遊廓で有名な吉原があって、遊女達に因縁のあるお寺が私たち子供の遊び場だったんです。吉原病院の裏ではよく野球をやってました。樋口一葉の「竹くらべ」の舞台になった入谷もすぐ隣で、大人の世界の中で子供たちが成長していくという、今思えば他所にはないちょっと面白いところでした。都電も走っていてね。路面を走っているところなんか、ちょっと危うそうで、それが良かったね。都電はいまでも一部あるけど、殆どはなくなっている。何とか写真の中に記憶として残している。これが私の特長でね。いまはもうないところでも、写真で撮ったところは私の中にきちっと思いが残っているんだよ。生まれた三ノ輪は私にとっては子宮だからね。そんな感じが写真に撮れていると思う。東京を撮った私の写真を見て、「あっ、東京にも田舎がある。故郷がある」と思ってくれる人がいるんじゃないか。そこが、いま一番大切なところなんだね。地方から出てきた人が東京にも故郷に感じる思いを持ってくれることがね。郷愁とか、過去が忘れられないとか、写真は、そういう行為なんだから。写真を撮るということはノスタルジーを残していくこと。ノスタルジーは写真の原点で、人間としての感情の原点なんだ。そこが大切だと思う。 」

 以下の写真は全て写真展の作品から。







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おでんの季節

2006年11月29日 | 居酒屋“e”&一日の昼食と夕食
久しぶりに居酒屋“e”に行きました。数日前からおでんを始めていたそうです。画像用に一皿にたっぷり載せてもらいました。棚を見ると珍しく秋田の「飛良泉」がありました。最後の一本だったようです。好物の数の子もおいしかった。
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「大連」の街は今  その2

2006年11月28日 | 下総の国の住人Kさんの寄稿アルバム集
 07 駅近くの労働公園に面したホテルの33階より見た夕暮れ
M.Kさんから送ってもらった今年6月の大連の画像の続きです。大連の街並みを写真で見ているうちに思い出したことがあります。昨年、中国各地の反日デモが日本で報道された頃、大連の中国語学校へ短期留学していた知人が帰国して、大連では全くそんな気配もなかったと言っていました。中国と言う国はアメリカと同じく「United States of China-中国合衆国(合州国)」という多面性と、「共産党の一党独裁」という1面性の両方から見ないといけない国です。

08  高級海鮮レストランのエントランス なぜか高級外車が・・

09  観光名所として一新された、ロシア人街

10  ロシア人形 マトリョーシカのお土産

11  大連郊外の観光新名所に建てられた 毛沢東バッチ記念館の内部
   (後ろの壁は、毛沢東バッチで飾られている)

12  ピンクのアカシア

千葉県印旛郡住人のM.Kさん、どうもありがとうございました。神田美土代町時代の雀荘「椿」が懐かしいですね。また色々な画像を送ってください。
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彰義隊の墓と西郷さん

2006年11月27日 | 東京あちこち
西郷さんの銅像が公開された式のときにミセス西郷が、「夫はこんなかっこうで外を歩いたりしなかった」と嘆いたというエピソードを知って、写真でしか見た事が無い銅像を見たくなりました。明治天皇のとりなしで逆賊から功臣の扱いにはなりましたが、時の政府は靖国神社に霊を祀る事は許しませんでした。今も西郷さんは(国に弓を引いた者として)靖国神社の本殿には祀られていないそうです。この銅像も設計段階で国家権威の象徴である軍服姿の像は却下されたのかもと思いました。


すぐその横に彰義隊の墓があるのは行ってはじめて知りました。


徳川体制を270年守ってきた徳川幕府軍もこの上野の戦いで、官軍にわずか半日で制圧されたと書いてありました。正直なんだかなあと思いました。
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八ツ手の花が咲いた

2006年11月26日 | 花・草・木・生き物
普段見えない場所にあるのでこの八ツ手の木を見ることはあまりありません。そろそろ花が咲き出す頃かなと思って見に行ったら満開でした。この木も震災も体験し殆どここで40年近く歳を過ごしていることになります。真夏にも水をやるのを忘れる事が多いのですが、生き延びています。タフな木種なんでしょう。八ツ手という木は子供の頃、どこの家でも厠の近くの薄暗い場所に植えられていたような記憶があります。


八手は地味な花なので、もう一度今朝のアロエとカニサボテンを登場させます。

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これがアロエの花でした。

2006年11月25日 | 花・草・木・生き物
赤くなったアロエの満開と思った花を良く見たら、一つ一つの房が夫々開いていました。
これがアロエの花だったようです。去年までそのことに気がつきませんでした。




一週間ほど前掲載した画像はこうでした。
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「大連」の街は今  その1

2006年11月24日 | 下総の国の住人Kさんの寄稿アルバム集
01  中山広場 大和ホテル.
古代菊の画像を送ってくれたM・Kさんから大連旅行の写真を送ってもらいました。
もらったメールにこう書いてありました。
「ブログの大連の記事(クリック)を読ませていただきました。
この前お話しましたが、今年6月始めにアカシアの花を求めて大連にいきました。
この時の写真を添付しますので、23年前を思い出しながら見てください。
02  中山広場 旧大連警察署

03  大連駅

04  大連埠頭

05  人民広場

06  人民広場前で交通整理をする婦人警官


写真で見る限り中国に出張でよく行っていた20数年前より街が清潔できれいですね。大連と言う街の成り立ちから他の大都市とはちがうのかもしれませんが。

私が大連に行った時は、訪問先の工場と港湾だけで街を見学する時間がありませんでした。もし街を見学していたとしてもこの23年の間に様変わりで驚くだけだと思います。いつか再訪したいと思います。

画像謝謝祢!

   
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愛知県小原地区の四季桜

2006年11月23日 | ゲストルーム
今から40年前に同期に入社した友人の千葉県印旛郡に住むM・Kさんから「古代菊」の画像が送られてきたのに続き、同じく同期の友人Y・Kさんから「四季桜」の画像が来ました。

Y・Kさんは現在、家族を新居浜に残し名古屋の第二の職場で元気に勤務を続けています。彼のメールにこうありました。

「別子ラインの桜を思い出し、11月18日の土曜日に愛知県小原地区の四季桜を見に行ってきました。小原地区は岐阜県との県境にあります。今年は、梅と桜、紅葉と桜という事で桜を2度楽しんだことになります。

この地区では四季桜を村全域に植樹しているそうです。当日、天気は多少曇り空でしたが春の山桜と変わらぬ見事さでした。写真を送ります。」

Y・Kさん、有り難うございました。先日、初めて「冬桜」という種類があるのを知ったところですが、「四季桜」と言う種類があるのも初めて知りました。機会があれば訪ねてみたいです。また中京地区をあちこち訪ねた画像を是非送ってください。

「紅葉と桜」

「ススキと桜」

樹齢数百年の木もあるそうです。
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山茶花の小蜂とセミの鎧

2006年11月23日 | 花・草・木・生き物
白い山茶花が咲き始めました。小さな虫が花の中にいますが、黒い色なのでよく目立ちます。
その横の一枚の葉にセミの抜け殻がありました。
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デザイン三つ

2006年11月22日 | 東京あちこち
どんなデイスプレーも、それは人にあることを伝えるためにあります。その全てのデイスプレーにはそれを制作するデザイナーがいますから、世の中には膨大な数のデザイナーがいることになります。上は日本で最初の地下鉄・銀座線が開通した昭和2年のポスター。
キャッチコピーは「東洋で唯一の地下鉄!」

あるレストランのコースター。
隷書の文字は「社団法人日本外国特派員協会印」

絵画展の案内板。
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蝶の群舞とアロエの花

2006年11月19日 | 花・草・木・生き物
カニサボテンと言う名称は葉の形状がカニの足に見えるからそうついたのでしょうが、
花は蝶に似ていると思います。沢山の花が満開になりました。

二つのアロエの花のうちの一つが色付きました。おそらくこれが満開の状態なんでしょう。


彼岸花の葉が他の木々や草が枯れだした今、葉を茂らせ競合相手の無い状態で
ゆうゆうと太陽の光を受けています。来秋の開花の為に球根にデンプンを蓄えているそうです。


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ミリオン・バンブーが育ちました。

2006年11月17日 | 花・草・木・生き物
もう4,5年前に20センチほどの大きさのミリオンバンブーを3本買いました。水だけで育てていたのは枯れましたが、植木の土植えにしたのは大きく育ちました。上に伸びた分はカットしてそれをそのまま植えるとまたすぐ根付きます。下の写真はWEBからの借用ですが、元々の大きさはこの内の一本ほどの大きさでした。

これもWEBからの引用ですが
「ミリオンバンブーとか万年竹、あるいは台湾名の富貴竹などいろいろな呼び方がありますが、いずれも「竹」が付いているので、本種を竹だと思っている人が多いようです。しかし、実はドラセナ・サンデリアーナです。本種の葉をすべてむしりとると、茎が竹のように見えます。」のだそうで、こうして育てると竹の種類ではない事がよくわかります。
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古代菊

2006年11月16日 | 下総の国の住人Kさんの寄稿アルバム集
「今年初めて育てた古代菊(肥後菊?)が咲きました」と千葉県印旛郡にすむ40年来の友人M・Kさんからメールが来ました。


私は菊に古代菊と言う種類があることも知りませんでした。

webで調べたら「古典菊は平安時代・鎌倉時代に嵯峨菊と伊勢菊が、
 江戸時代に肥後菊と江戸菊が作られたそうです。
 肥後藩で門外不出にしたため、江戸菊のように流行しなかったそうです。
 肥後菊は花弁が少ないのが特徴です。」と言う記事がありました。

別のサイトの記事には「嵯峨菊、1文字菊、美濃菊、肥後菊、伊勢菊など初めて聞いた菊の種類ばかりです。なかでも日本で一番古いといわれる嵯峨菊は、優雅で印象に残りました。平安時代から作られていたそうで、3本の苗を1つの鉢に植え、花の数も7、5、3と決まっていたそうです。」とありました。

Kさんとは先日ある会合で5年ぶりに会ったのですが、Kさんがこんな優雅な趣味を持っているとは知りませんでした。またいろいろ珍しい画像があったら送ってください。
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夙川の「ニテコ池」/清太と節子

2006年11月15日 | 神戸あちこち
池の向うに甲山が見えました。
小説家の野坂昭如が書いたまま、その後自分では一回も読み返したことがないと言われている小説があります。それは「火垂の墓」です。本当かどうか知りませんが、書き上げて何年かして一度手に取ってぺージを繰り出したとたん「この話は自分には辛すぎて読めない」と言って閉じたのだそうです。小説は事実をありのままを書くものではありませんが、3日間ほどで一気に書き上げたと言うこの小説は、野坂にとって本当の事を書きすぎたのかも知れません。

小説「火垂の墓」の兄と妹が住んだ防空壕はこの「ニテコ池」のほとりにありました。
池の左側一帯には故松下幸之助家の大邸宅があります。



長い間、一度この池を見たいと思っていましたが、阪神淡路大震災前に訪ねなかったので、地震で崩壊した池の様子はもう昭和20年当時のものではありません。

野坂昭如はJR六甲道に近い神戸市灘区中郷町の養家で張満谷昭如として育ち、成徳小学校を卒業、市立神戸一中4年生の時に米軍の神戸大空襲で焼け出されました。その時の体験が「火垂の墓」の原点になっています。なお市立一中は現葺合高校になり、もう一つの一中である県立一中は白州次郎や村上春樹などが卒業生である現神戸高校になっています。
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